第3章20 【一閃】
「ストライク! バッターアウト!」
球審が右手を挙げる。右打者の外角低め、コースギリギリに直球を投げ込み、見逃し三振。帽子を取り、左腕で汗を拭いながらゆっくりマウンドを降りる。
投手戦というものはほんの些細なきっかけで突然崩れたりするものだ。2人の先発投手がどんなに無失点で抑えていたとしても、どちらかが失点したら、バタバタと互いに点が入り始めるというのはよくあることだ。
しかし今日は俺もなんとか踏ん張れているし、相手の先発投手も要所要所をきちんと締めている。これで俺は9イニングを投げきった。被安打5無失点で10奪三振。文句はない。
これで勝ち星さえついてくれば最高なのだが、未だ0対0の膠着状態。9回裏の攻撃で点を取らなければ延長戦に入る。
「最高の投球をありがとう。さすがに延長戦も投げてくれとまでは言わない。よく投げ抜いてくれた。お疲れ様」
ベンチ前でリン監督が拍手をしながら迎えてきた。7回で調子に乗って全力投球をした結果、最後は少し息切れ気味になってしまった。これ以上投げたら次の登板にも支障が出てしまう。球数も7回を終えたぐらいで100球を上回った。お役御免というところだ。
「分かりました」
「次も頼むよ」
リン監督から握手を求められ、それに応える。
「お疲れ様です。さすがのピッチングでしたね」
ミーリンからタオルを受け取り、ハイタッチ。そのままダグアウトに引き上げた。
「あとは広瀬さんに勝ちがついてほしいのですけどね」
「そればっかりは仕方ないです。そりゃあこの回に試合を決めてもらえればうれしいですけど、最終的にチームが勝ってくれれば問題ないですよ」
ミーリンとそんな話をしながら、アイシングをしてもらいにトレーナー室へと歩を進めていたときだった。後ろから大声を出して駆け寄ってくる音が聞こえた。驚いて振り向くと、ジェンフだった
必死でこちらに何かを訴えている。一通り話終えると、ミーリンが通訳してくれた。
「今日は本当にすまなかった。大事な台湾初戦で俺が不甲斐ないばかりに援護してあげることができなかった。この回は1番から始まる。ランナーが1人出たら俺に打席が回る。そうなったら、絶対打つ。試合を絶対に決める。俺が、今日、初勝利をプレゼントする。約束だ」
7回のチャンスでジェンフが凡退したことを相当悔やんでいるのだろう。そして何より、その直後に俺が伝えたメッセージをジェンフがきちんと受け取ってくれた。ジェスチャーで応えてくれただけでも十分だったが、わざわざ言葉で直接伝えにきてくれてとても嬉しかった。
「なら、その瞬間を見届けさせてもらうよ」
ミーリンに通訳してもらい、言葉を理解したジェンフの表情がパッと明るくなった。「センキュー」と意気揚々にベンチへ戻る。その後を追い、俺もベンチへ。ベンチに着くと、ジェンフが他の選手たちに檄を飛ばしていた。
「なんて言ってるんですか?」
「お前ら、広瀬さんに頼りっぱなしでいいのか! 9回を0に抑えて勝ち投手になれないのはおかしすぎる。この回で絶対決めるぞ。いいか、なんとしてでも俺に回せ。次は必ず打つ」
「逆に気負いすぎなければいいんですけどね」
「でもそれが彼の良さでもありますよ。今のジェンフさんには、自分が不調だっていうことが頭の中から抜けていると思います。ただ広瀬さんのため、チームのために打ちたい。心からそう思っているんでしょうね。そういうときの彼は本当に怖い打者になります」
ジェンフからの喝を受け、引き締まった表情で先頭打者が左打席に入る。ジェンフもベンチの最前線で身を乗り出しながら声を出すが、初球を引っかけてセカンドゴロに倒れた。
「ノー」
ジェンフが頭を抱える。続く2番打者も力のないショートゴロ。簡単に2アウトになった。
ネクストバッターサークルに入ったジェンフは、3番打者に気合いを入れ続ける。チームではジェンフに次ぐ好打者。左打者で長打もあり、足も速い選手だ。
相手投手がリリースをする瞬間、球場がどよめいた。3番打者がバントの構えを見せ、三塁線に転がした。
予期せぬセーフティバントに投手が慌てて打球処理に入る。三塁手が捌くには遠すぎて、かと言って投手にとっても1番遠い場所に転がした。絶妙なバントだ。
投手が素手で捕球し、そのまま一塁へ送球。3番打者がヘッドスライディングをして飛び込むが、余裕を残したセーフとなった。
「ナイスー!」
ジェンフが右手を天へ突き出す。3番打者もそれに応えて右手をグーにしてガッツポーズをした。
相手野手陣と投手コーチがマウンドに集まった。その輪の中心にいる投手はこの回から投げ始めた。その背番号を見るに相手チームのクローザーだ。投手交代もあり得ない。
ジェンフは左打席から外し、ブンブンと素振りをしながらタイムが解かれるのを待つ。
「引き寄せましたね」
ベンチで隣に座るミーリンに話しかける。ミーリンはうんうんと頷き、こちらを見て微笑んだ。
「こうなると、もう私たちの勝ちです。ジェンフさんが打たない訳がありません」
9回裏2死一塁。ここで敬遠という場面ではない。
マウンド上の輪が散開し、球審が「プレイ」をかける。
「初球から狙うだろうな」
独り言のつもりで呟いたが、ミーリンが「だと思います」と拾った。
相手投手が投球動作に入り、投げる。ジェンフは内角のベルト付近の球に対し、今まで見たことないようなフルスイング。ライト方向へ勢いよく飛ぶ打球を目で追いながらバットを豪快にぶん投げ、右手を突き上げた。
打った瞬間、ホームランだと分かった。放物線を描いてスタンドに入るのではなく、弾丸ライナーが失速することなく、そして高度を下げることなく、そのまま突き刺さった。
「おおおおおおおおお」
大歓声がダイヤモンドをゆっくりと駆ける背番号1の男を包む。俺らベアーズナインも各々水が入ったペットボトルを持ちながらベンチを駆け出す。
俺もペットボトルを両手に、他の選手と共にホームベース付近で主砲の帰還を待つ。
「ヒロセサーン、オメデトウゴザイマス」
三塁を周り、少ししたところでジェンフは片言の日本語を言いながらヘルメットを空へ投げる。そのまま勢いよくホームへ突入した。
「何がおめでとうだよ。お前がおめでとうだよ」
思わず日本語で答えながら水をジェンフに浴びせる。ナインが一斉にサヨナラ本塁打を放った水をかけ合い、皆がびしょ濡れになった。




