第1章5 【現在位置】
「アップは済んだか?そろそろやるとしようぜ」
軽く休憩を取っていた俺に日下部が話しかけてきた。
球場脇にある室内練習場での合同自主トレーニングは、10人ほど集まった。10代から30代前半の選手が中心で、日下部のように、1軍でレギュラーとして活躍している選手もちらほらいた。選手以外にも、ブルペン捕手や打撃投手も5人ほど手伝いで参加している。
投手陣は俺を除くと2人だった。どちらも高卒2年目の若手だ。弱冠20歳の右腕の白石と左腕の高宮はどちらも今季1軍デビューを果たし、それぞれ3勝と4勝を挙げた。将来を有望視されている期待のホープだ。
そんな活きのいい2人との練習は刺激的だった。「今日はお前たちのメニューに合わせるよ」と言ったのがいけなかった。とにかく走る走る。集合し、軽く挨拶をすると、まずは3㌔ほど球場周りの公園をランニング。その後は室内練習場で100㍍ダッシュを100本。さあやっとボールを投げられると思ったところで、追い打ちをかけるように10㌔のランニングが待っていた。
「やっぱりピッチャーは走らなきゃ。じゃないと来年1年間上で投げきれませんよ」
白石が屈託もない笑顔を見せた。まだ高校球児のようなあどけなさが残っていた。俺にもこんな時期があったのかなと思ったが、高校時代の俺はこんなに純粋に野球をやっていなかった。
ブルペン捕手の人に受けてもらい、投げ込みを50球近く行ったところで、日下部が近づいてきた。
「お前らどんだけ走ってたんだよ。いくら走り込みが大事だからって、陸上選手並みじゃないか」
「本当に白石と高宮は元気だわ。ブルペン見てたら良い球も投げるし。近いうちに先発ローテだな」
白石は195㌢の長身を生かし、投げ降ろすタイプの投手だった。キャッチャーの後ろで投球を見ていると、なるほど確かに打ちづらい。リリースポイントがかなり高いため、ボールに角度がついている。ただでさえ上から下に向かってくる直球に、ストンと落ちるフォークを交えられると、なかなか打てないだろう。一目で分かる熱血漢で、良い球が決まるとその度に「よっしゃー」と大声を出して喜ぶ。納得がいかない球だと「あーダメだー」と大声を出す。常に賑やかだ。
一方の高宮は横手気味から投げる。左打者には背中からストライクゾーンに入ってくるスライダーで仕留める。右打者にはブレーキのかかったシンカーで空振りを取る。シンプルだが、明確で本人に取っては投げやすいのだろう。性格も白石とは対照的でクールだ。淡々と練習をこなしていた。
「お前はどうなんだよ」
「それを確かめるための勝負だろ」
日下部をまっすぐ見つめる。目の前にいる、この男を打ち取ることができれば、大きな自信になる。日下部以上の打者など日本野球界にはいない。なにより結果がほしい。
「よし」と日下部がうなずくと、声を張った。
「ちょっと、マウンドと打席貸してください」
ちょうど、ほとんどの選手たちが休憩を取っていたため、練習場の中心にいる者がいなかった。「いいですよー」と返ってきた。
「じゃあやるか」
日下部はヘルメットを被り、軽く素振りをしながら、打席に向かった。俺はそれを横目に見ながら、マウンドへ一歩一歩ゆっくり向かった。
日下部対広瀬。10年ぶりの対決を察したのか、場内がざわつき始めた。
5球ほどマウンドから投げる。ブルペンのときから感じていたが、感触は悪くない。これなら行けるぞと思った。
「じゃあ3打席勝負でいこう」
日下部が右打席に立った。足で砂を均し、構える。
マウンドから見る日下部は想像以上に大きかった。無駄な力が入ってなく、リラックスした隙のない構え。どこに投げても打ち返されそうな雰囲気を漂わせている。10年前の、公立高校の4番とは大違いだ。今目の前にしているのは、日本一の打者だ。
ブルペン捕手の直球のサインにうなずき、俺も構える。公式戦ではないが、日下部はこの瞬間はどれほど待ち望んでいたのだろうか。しかし、俺もそれほど優しくない。抑えて、「二流投手」に負けたという屈辱を味あわせたい。
外角低めにビシッとボールが決まった。日下部はそれを見送った。「おお、良い球」と、軽くのけぞり、笑顔を見せる。
しかし、その笑顔がスッと消え、獣を狩るハンターのように鋭い目をした。
2球目。内角高めに再び直球を投げた。日下部はまた見送り、ボールの判定。厳しいコースであるはずなのに、日下部のバットはぴくりとも動かなかった。もともと振るつもりがなかったのか、ボールがよく見えているのか。
3球目にカーブ、4球目に直球を投げたが、どちらもファールとなった。ファールであったが、タイミングが少しずれただけで、完全にバットの芯で捉えていた。日本有数の打者とあって、スイングは迫力がある。風圧がマウンドまで届きそうと言えば大げさかもしれないが、それほど鋭く風を切る。完ぺきに当てられたらホームランだなと直感した。
はっきり言って、何を投げればいいのか分からない。どうすれば目の前の怪物を抑えることができるのか、全く見えない。小さく動かす変化球で、バットの芯をずらし、凡打を狙うしかない。
ブルペン捕手のカットボールのサインにうなずく。試合中は捕手がリードをするため、配球を考え、サインを出す。だが、今回は俺の自由に投げていいとのことで、ブルペン捕手が球種のサインを順番に出し、投げるものに首を縦に振る。
内角、日下部の身体から入ってくるカットボールであれば、打ちづらいはずだ。1ボール2ストライクということで、カウント的にはこちらが有利。厳しいコースに投げれば、日下部は振るざるを得なくなる。
「よし」
投げた瞬間そう思った。投球動作の何もかもが完ぺきだった。体重がしっかりと乗り、ボールに最高の回転をかけられた。
「カンッ」
乾いた音が響き、打球は左翼側へ勢いよく飛んでいった。
「レフトオーバーの二塁打ってところかな。カットボール来るのは分かりきっていたよ」
完全に持って行かれた。バットが内から出ている証拠だ。いや、内から出ていても、並の打者ならあそこまで飛ばないであろう。リストや体幹の強さが打球を物語っている。
「お前がカットボール投げるようになったのはプロに入ってからだよな。プロになってからカットボールを投げるやつは、投げる球がなくなったときにそれを投げるんだ。いわば逃げ道。そんな球を打てないはずがない」
日下部に返す言葉がなかった。図星だからである。高校時代はスライダーとカーブの2種類しか変化球を投げなかった。それらと直球で勝負できたからである。しかし、プロに入って、球種を5種類に増やした。的を絞らせないことや、カウントを稼ぐことが目的だった。
中でも小さく曲がるカットボールは1番重宝した。空振りは取れないが、ファールや、凡打を打たせるのには効果があった。しかし、それを「逃げ道」と言われ、完ぺきに打たれた。
「お前はいつからそんな弱腰ピッチャーになったんだよ!高校時代の広瀬豪也はどこに行った!あのふてぶてしくて、マウンドから人を見下すような目はどこに行ったんだよ!」
ハッとした。今まで、高校時代は傲慢だったと思っていたが、いつから、そう客観的に見るようになったのだろうか。性格に表れるように、当時の俺は強気強気の投球をしていた。直球でグイグイ打者を押した。いつのまにか小さくまとまっていたのかもしれない。
あのときの自分を、と思った。以前のように幻想を追い求めているのではない。強気の投球を取り戻せ。
投げる球は1つしかない。この1球がこれからの自分を変える気がした。ここで逃げたら、この先も逃げ続ける人生だ。
それまでセットポジションから構えていたが、ホームベースに向かって身体を正面にして立つ。両手を頭上に掲げる。
「おっ」
日下部が驚いた表情をした。プロ入り以来、フォームを何度も変えた。替えた結果、躍動感がなくなっていた。ここ数年は横手気味に投げていたが、原点回帰だ。高校時代のフォームで、上から腕を振り抜き、直球で日下部に向かう。
10年経っても身体は覚えているものだ。左足を上げ、身体を沈み混ませ、左足を前に踏み出した。右腕をムチのようにしならせ、ブルペン捕手めがけて思いっきり振った。
「それだよ。その球だよ」
日下部がつぶやき、バットを振る。
ミットにボールが収まる、俺は確信した。
が、打球は先と同じようにレフト方向へ消えていった。
プロに入ってから1番良い球だった。自分の全神経が、筋肉がボールを投げるために働いた。それを日下部にいとも簡単にはじき返された。
「そんなストレートが投げる気満々だったら、打てるわ」
日下部が白い歯を見せた。
「でも、俺がこれだけ煽って、変化球を投げていたら、俺は広瀬豪也という投手を見切っていた。真っ向から立ち向かうのがお前の良さだ。その球だよ。お前にはそれしかないだろ。さあ、第3打席。本当の勝負はこれからだ」
これほど勝負が楽しいと感じるのは久しぶりだった。失っていた何かを取り戻した気がした。心の奥底にしまい込んであった闘争心。日下部に対決を申し込まれて、ふつふつと沸き立ったものが、火山が噴火するマグマのように、爆発してきた。負けたくない。こいつに絶対負けない。1軍で活躍したいとか、復活したいという思いは、今は関係なくなった。目の前に立つ、日下部祐太を打ち取る。それしか頭にない。
ボールを受け取り、マウンド上で構え、日下部を睨む。「その目だよ。広瀬」と日下部は楽しそうに顔をほころばせた。
もう一度、直球を投げる。打たれはしたが手応えはあった。さっきの投球は球の威力こそはあったが、ボール1個分甘く入ってしまった。身体が覚えているとはいえ、やはりブランクを感じた。だが、1球投げたことで、調整はできる。外角低め。日下部から1番遠い位置にあの球を投げられれば、討ち取れる。
再び両手を頭上に掲げ、渾身の球を投げ込むこれが俺の現在位置だ。
狙い通りのコースに球が行った。「いける」と瞬間的に思った。
日下部は左足で踏み込み、バットを伸ばす。想像以上に球が速く感じたのか、バットの先に球が当たった。完全に詰まらせた。
鈍い音が響き、セカンド方向へ低いライナー性の打球が飛んでいった。守備に人がついていれば、セカンドライナーだなと思った。
しかし、打球は失速するどころか加速していった。ぐんぐんと高度を上げていった。そのまま打球は室内練習場の壁にぶつかった。