第3章番外編3 【それぞれの夏・決勝戦】
「4番、サード、日下部くん」
俺の名前がコールされると一段と大きな声援が送られた。
夏の甲子園、決勝戦。9回裏、ツーアウトランナーなし。追い込まれた。
「さあこい!」
投手に向かって叫ぶ。ヤツは顔色1つ変えずに捕手からのサインを確認している。
ヤツは何度か頷くと振りかぶって、投げた。
ど真ん中の直球。それを空振りする。
「バケモノめ」
思わず呟く。
俺らのチームは無名の公立進学校。打倒私立を掲げ、死に物狂いで練習をしてきた。結果、学校としても60年ぶりの甲子園出場を果たした。
全国の予選を勝ち抜いてきたのも大概は私立だった。並み居る強豪に全力で立ち向かい、勝ち抜いてきた。ベスト8まで進んだあたりから、「公立の星」「東北の星」と呼ばれるようになった。
東北勢初の甲子園優勝なるか。しかも有望選手を集めない公立高校が。俺たちは世間の期待を一身に集めた。
そして準々決勝も準決勝も逆転勝ち。俺たちは勢いに乗って、決勝まで駒を進めた。
そんな中で立ちはだかった投手が広瀬豪也だ。
ベンチの監督を見る。「1本打ってこい」と発破をかけられる。
2球目、真ん中高めの直球を空振る。やはりかすりもしない。
「なんだこいつは」
人間ではない。直球なのに。真っ直ぐなのに、当たる気が全くしない。こんなこと人生で初めてだ。これまで3打席3三振。完膚無きままに叩きのめされている。
俺らは所詮東北の田舎者だったのだろうか。全国にはこんな投手もいるのだろうか。と、考えるが、すぐに否定する。そんなことはない。この目の前の投手が特別なのだ。
甲子園に魔物が住んでいるとよく言われるが、魔物とはまさに、広瀬豪也だ。
「打てよー打てよー、打て打てよー」
スタンドから、大きな声援が聞こえてくる。打てるものなら打ちたい。この魔物が繰り出す剛速球を叩いて、スタンドにぶち込みたい。
「お前が打たなきゃ誰が打つー」
心の底から出される歌声に、こちらの魂が揺さぶられる。そうだ、俺がこのチームの4番だ。俺が打たなければダメだ。ここまで俺がバットでチームを引っ張ってきた。みんな俺を頼りにして、ランナーを貯め、俺が返してきた。今、目の前にランナーはいないが、点差は1点。1発打てば、試合は振り出しに戻る。
そう考えるとだいぶ気持ちが落ち着いてきた。
「これならいける。もう好き勝手にさせないぞ」
魔物を睨む。しかし、その魔物の様子を見て唖然とした。
「なんでそんな余裕なんだよ」
俺に対する応援歌を口ずさんでいた。明らかに口が「ねーらーいーうーちー」と動いていた。あり得ない。全身全霊で魔物に立ち向かっている最中に、その魔物は勝負に集中せず、片手間で迎え撃とうとしている。
魔物が俺を睨み返す。こちらを弱者として軽蔑しているような目つきだ。俺を心の底から見下している。そう断定せざるを得ない。
「ふざけんなよ」
バットを握る両手に力が入る。ここまで馬鹿にされて、黙っていられるほど優しくない。俺らの血のにじむような3年間はそんな目で見られるほど甘いものじゃない。
魔物が振りかぶった。絶対打つ。絶対打ってやる。これまでにないほどの集中力を研ぎ澄ます。すると、すべてがスローモーションのように動き始めた。
魔物は左足を地面につけ、体重移動。全体重を乗せ、右腕を振り抜いた。白球がゆっくりとこちらに向かって飛んでくる。
いわゆる「ゾーン」に俺は入った。こんな止まったように見える球を打てないはずがない。
目の前に白い線が浮かぶ。俺の右肩付近からそれは始まり、ベルト付近を通り、投手側へ抜けた後、身体を巻き付くように描かれている。まさにバットが通るべき軌道だ。これをなぞれば打てると直感した。
その白線通りにバットを振る。理想的なインパクトの位置でボールを捉える。
はずだった。しかしボールは上に浮き上がった。浮き上がる「感覚」とかそういう問題ではなく、物理的に伸び上がってきた。考えられない。あり得ない球筋だ。
「あっ」
すべてがスローモーションで見えるがゆえ、俺のバットが白球をかすめることすらできなかったのを、はっきりと確認する。「終わった」と瞬間的に思った。
そこからはスローモーションが解け、すべてが一瞬だった。ボールは相手捕手のミットに収まり、マスクを投げた捕手がマウンドへ駆け寄っていった。
「くそ。くそくそくそくそ」
打席の中で崩れ落ち、地面を拳で何度も叩く。歯が立たないなんていう次元ではなかった。あの魔物と同じ土俵にすら立てなかった。
「いつか絶対超えてみせる」
「次笑うのは俺だ」
やるべきことは1つだ。もっとたくさん、死ぬほど、真剣に、野球に打ち込む。こんな思いをするのはもう嫌だ。
歓喜の輪ができているマウンドを見る。その憎たらしい笑顔を、ぼんやりと霞んでいくたびに目をこすりながら、焼き付ける。俺のすべてを野球に捧げる。そう決意した。




