第1章4 【再会】
「お前を打つことだけ考えてきたのに、まさかチームメートになるとは全く思ってなかったよ」
キッチンに立つ日下部がポットからコーヒーをカップに注いだ。豆を挽くタイプのコーヒーメーカーのようで、香ばしい薫りが鼻を通る。事務所で日下部と遭遇し、そのまま家に招待された。仙台駅近くの高層マンション。その最上階に日下部は住んでいる。案内されたリビングは、無駄な物が一切なく、きれいに整頓された部屋だ。白の内装に対し、家具は黒色に統一され、清潔感が漂う。部屋に置かれた家具や小物1つ1つに高級感がある。
こうして日下部の家に呼ばれたことは初めてだなと思ったが、そもそも会話をすること自体今までなかった。学生時代も甲子園で1回戦ったぐらい。お互いプロになってからも、2軍でくすぶっていた俺と、入団即レギュラーで出場していた日下部では交流もなかった。
「高校時代はお前がこんなバッターになると思わなかったよ。むしろプロに入るとも思わなかった」
日下部は「そうだな」と笑った。「コーヒー飲めよ、うまいぞ」とコーヒーカップをソファに座る俺の前に置いた。
「今の俺があるのは、広瀬、お前のおかげだ」
日下部は右手で壁を指した。俺は左を向き、その先を追った。
額縁に飾られたスポーツ新聞が壁にかかっていた。『広瀬圧巻V』と大きな見出しに、両手を天に掲げ、叫ぶ俺の写真が見えた。10年前の1面だ。その下には棚が置かれ、銀メダルと賞状、そして『甲子園準優勝』の文字と、ベンチ入り選手の名前が書かれた皿が置いてあった。
1度も会話をしたことがなかった、たった1試合しか対戦していない投手にそこまで執着するのかと驚いた。しかし向こうからしてみれば当然なのかもしれない。怪物と騒がれ、一躍スターだった俺を敵対視するのは当然か。
「あの光景を1度も忘れた日はないよ」
それは俺もそうだ。日本中の視線が集まる、最も輝いた場所に俺は確かに立っていた。もはや現実逃避とも言えるのかもしれない。自分はあれだけの実力があった。プロでもできないはずはないと。過去の高校時代の自分自身を追い求めていたのかもしれない。
「お前を倒すことだけを考えてきたんだ。本当に。だから大学で死ぬほど練習した。野球を辞めたいと思ったことも2度3度ってもんじゃない。お前がすごいピッチャーだったから、それを超えたい一心だったんだ」
日下部の言葉に力が入る。右手を額にあて、下を見つめる目は寂しさを感じる。
虚無感、と呼ぶのにふさわしい。目標に向かって走り続けていたら、目標がなくなっていた。いや、日下部は目標を通り過ぎていたのだ。そして、その目標は俺だった。
「なあ、広瀬」
日下部がうつむいたまま呼んだ。
「なんでお前はこんなんになっちまったんだよ」
「すまん」
俺はこの言葉しか返せなかった。二流投手にここまで執着していた。日下部本人のプライドが傷つけられたのだろう。俺はなんとも言えない気分になる。日下部のために野球をやっていたわけじゃない。だが、申し訳なさがもやもやと胸の中に残る。
「でも」俺は再び口を開く。
「オリオンズで絶対にやってみせる。先発ローテの座を手に入れて、1年守る。やるしかないんだ。これまでとは危機感が違う。昔みたいな傲慢な俺はもういない。同じ失敗はもうしない」
環境が変われば、と俺はトレード宣告を受けたときに思った。環境が変われば、心機一転自分の野球も変わると考えた。
「少なくとも今のお前じゃむりだ」
日下部がまっすぐこちらを見つめて断言した。さっきまでの寂しそうな目は遙か彼方に消え、俺を見る目は鋭く、威圧感がある。映像で見る、打者日下部が投手をにらむそれと同じだ。
「ふざけんなよ。俺の何が分かるんだよ」
思わず大きな声を出してしまい、ハッとする。「すまん」と謝ると、日下部は「いや、俺も煽った感じになってしまった」と右手を顔の前で振った。
日下部の部屋に来てから謝ってばかりだなと思った。日下部の言っていることは正しいのだ。俺の痛いところを突いてくる。突いて、俺に奮起を促しているのも分かった。これまでの日下部の言葉は本心からであろう。感情でぶつかり、俺の感情に訴える。むきになってしまったのは不徳だったが、日下部の気持ちは痛いほど伝わった。もう自分だけの野球ではない。仲間、チーム、諦めないで応援してくれるファン。多くの人を背負ってプレイするのが、プロ野球選手だ。10年前に知っていたら野球人生も少しは変わっていたのだろうか。
「そうだ」
日下部はおもむろに立ち上がり、部屋の隅に置かれたバットを手にした。両手をぐいぐいと絞り、軽く振る。「ブンッ」と鋭く風を切る音が部屋に響く。
「お前どうせ仙台に知り合いなんかいないんだろ?オフは俺と自主トレしようぜ。球団の施設を貸してくれることになってるし、若い投手たちも集まる。お前にとっては悪い話じゃないと思うんだ。お前が復活するというなら俺は協力するぜ」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
日下部の申し出を受け入れることにした。彼なりのやさしさであり、厚意だ。
「よっしゃ。突然で悪いが、明日からなんだよ。他の奴らには俺から伝えておくから心配しないでくれ。その代わり1つ俺の条件を聞いてくれ」
「なんだ?」
日下部がバットのヘッドを俺に向けた。きょとんとしている俺を見てはにかんだ。
「明日俺に投げてくれ。お前の現在位置を知りたい。もちろん、マスコミはいないから、書かれることもない。思う存分楽しもうぜ。」
俺は思わず笑ってしまった。球界最高峰の選手にどれだけ通用するのか試してみたくなった。心の奥底にあった闘争心がふつふつとわき上がってきた。
「10年ぶりの対決だな」