第3章9 【3ケタのプライド】
快音を響かせ、白球を次々にフェンスの向こう側へ叩き込む。その度にとある選手が視界に入る。ほぼ1日中球場のポール間を走っている。軽くジョギングをしているときもあれば、ダッシュで駆け抜けるときもある。気になって仕方がない。
打撃練習が終わり、打撃投手に頭を下げて、ゲージを出る。バックスクリーンに表示された時刻を見る。あと30分ほどで、今日の全体練習は終わりだ。皆、練習を切り上げるための仕上げにかかっているところだった。一部片付けを行っているところもある。だが、あいつは走るペースを一向に緩めない。
ボールをいっぱいに入れたカゴを運んでいる裏方さんがいたので、外野方面を指さし、尋ねる。
「いつもあんな感じですよね」
「あいつか? まああれぐらいしかやることしかないからな。最近やっとキャッチボールを再開できるようになったレベルだし」
「日下部、お前みたいにレギュラーが確約されて2軍にいるやつもいれば、あいつみたいに首の皮が1枚つながっているだけのやつもいる。俺だって活躍できずに5年で戦力外だ。つくづくプロの世界って残酷だと思うよ」
裏方さんが眉を下げる。華やかなで、光り輝くプロの世界はその分影も濃い。野球をやりたくてもやれないプロ野球選手だっている。
キャンプの2週目、いわゆる2クール目に差しかかっていたが、俺は2軍で調整していた。主力選手は自分のペースで状態を仕上げるように、という磯島監督の意向で、俺やモーリス、南雲さんなどは2軍でキャンプを行っていた。
1軍キャンプに比べれば、報道陣も観客も少なく黙々と練習に集中できている。そんな中、一心不乱に走り込みをしている選手が1人いた。
背番号113をつけた選手。白石だ。去年まで先発ローテの一角として投手陣を引っ張っていた。いや、もはやエースと言っても過言ではないほどの働きぶりだった。しかしシーズン半ばで肘を故障して長期離脱。手術を受け、リハビリに励んでいるところだ。
肘にメスを入れて半年以上が経つが、塁間を投げるのがやっと。投手として満足に投げられるまで回復するには長く険しい道が続いている。
「今の内に足腰を鍛え抜くんです。肘が元に戻らなくても、球速は今までみたいに戻るかもしれません。なんだって自分はほぼ上半身だけで投げていたようなもんですから。下半身を使って、全身を活かしたフォームになれば、良い球投げられるはずです」
去年のシーズン後、たまたま球団事務所で顔を合わせ、夕食を共にしたとき、白石がそう前を向いていた。確かにそうだが、それが現実になる可能性は限りなく低い。
もう150キロを投げることは不可能だ、と医者に告げられたらしいが、それは白石にとって残酷な宣告であったに違いない。それでも白石は諦めず、一歩ずつ進んでいる。
普通の選手であればそのまま引退をするだろう。それぐらいの大ケガだ。球団も白石が今年で22歳と若いこともあって、育成契約で様子を見ることにした。そのため、背番号は13から113と変更された。しかし、プロの世界において背番号3ケタは、球団から現時点で戦力とみなされていない証明だ。
ルール上育成契約選手、背番号3ケタの選手は1軍の公式戦で出場できない。優勝を目指す真剣勝負の世界にお前は立つ資格がない、と言われているようなものだ。
元々2ケタの背番号だった選手がケガや不振で「育成落ち」をしたとき、腐る選手は何人も見てきた。モチベーションの維持は簡単ではない。
白石がそうなったことを聞いたときも正直、このまま選手として終わってしまうことも覚悟した。若くて実績を残した選手であっても、はい上がってくることができるのか。「戻ってこい」と本人に発破をかけたが、期待をしていなかったのは事実だ。プロとはそういう世界だ。ないものを戦力として計算はできない。
しかし、そんな考えは間違いだったと気づかされた。キャンプが始まり、黙々と、悪い言い方をすれば狂ったように基礎トレーニングに励む白石を見たとき、「こいつなら大丈夫」だと確信した。高卒4年目の青年を俺は無意識のうちに子供扱いをしていたのかもしれない。子供ならこんな試練に根をあげるに違いない、と。だが、白石は再び1軍の世界で戦うことを目標に、全力ではい上がろうとしていた。
何か俺にできることはないだろうか。一役買うことはできないのか。ここ数日そんなことを考える。必死に走り続ける白石を見ていると、ふと疑問が浮かんだ。いくらなんでも投げなさすぎではないのか。まだまともに投げられる状態ではないのは周知の事実であるが、キャッチボールさえも、1週間に1度ほど。白石は投手だ。走っている以外の時間はノックを受けているが、それでも明らかにおかしい。
「もしかして」
よからぬことを考えつく。しかし白石がその「よからぬ」ことを考えついていても不思議ではない。もしそれが本当だったら、俺が力になってやれることはある。
俺は外野に向かって走り出した。まずは本人に確かめる必要がある。勝手に思いこんで、勝手に結論づけるのはよくない。
「白石、そろそろ時間だぞ」
白石に並走する。俺も最後のダウンとしてランニングに付き合うつもりだ。
「あれ、日下部さんが俺に話しかけてくるの珍しいですね」
「冷たいこというなよ。1軍にいるときは散々俺をメシに連れて行かせてたくせによ」
「冗談ですよ、冗談。でもキャンプは野手組と投手組でメニュー全然違いますし、そもそも俺はリハビリメニューなので接点ないじゃないですか」
「俺以外にも白石がコーチ以外の誰かと話しているところほとんど見ないぞ」
「まあぼっちですからねえ」
白石はどこか寂しげに笑った。
「それは仕方ねえよ。あと、お前に1つ聞きたいことがあるんだけどな」
「そのためにわざわざランニング付き合ってくれてるんですよね? 何ですか?」
白石の察しの良さに驚くが気にせず続ける。
「俺の勘違いだったら気にするな。白石、お前何か悪巧みしてるんだろ?」
「えっ」
白石が一瞬言葉に詰まった。「そんなことないですよ。俺は好青年ですから」とおちゃらけるが、図星を突いたことは分かった。
「お前が本気ではい上がりたいと思うんだったら、夕食後、室内練習場に来い。コーチに頼んで貸し切りにしてもらうから、2人きりだ。その方がお前の悪巧みに付き合えるからな」
白石は何も答えず、ただ前を見つめて走り続けていた。
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「おう、来たな」
8時頃に俺はこの室内練習場に着いた。そこからネットへ向かってティーバッティングを始めて30分ほど経ったころだろうか。白石がグラブを片手に現れた。
「相変わらず良い音出して打ちますね」
白石が感心する。ネットに溜まったボールをカゴに入れるのを手伝ってくる。
「白石ってケガする前は遠投どれくらいだったんだ?」
「正確に測ったことはないですけど、120メートルくらいですかね」
「地肩はあるんだな」
遠投120メートルと言ったら、ホームベースからセンターへ向かってボールを投げて、スタンドインするギリギリのところだ。プロでも、それだけ投げられる選手は多くない。
「そういえばピッチャーにしては珍しく右投げ左打ちだよな」
交流戦のとき、白石が打席に入ったことを思い出す。右投げの投手は基本的に右打ちだ。左打席に入ると利き腕である右腕が投手側になる。咄嗟のときに庇うことができないため、避ける選手がほとんどだ。だから印象に残っていた。
「打撃は元々好きなんですよ。高校時代は3番でそれなりに打ってました」
「そうだよな。意外といい打球打ったもんな」
交流戦前の練習を思い出す。普段打席に入らない投手陣は、毎年4月後半に打撃練習を重点的に行う。だいたいはバントへ向けたものなのだが、気晴らしで打たせると、白石は鋭く打ち返していた。実際試合でもタイムリーヒットを打った。身体能力は元々高いのかもしれない。ならば、白石は成し遂げること可能性も大いにありそうだ。
俺の妄想は正しいのかもしれない。段々確信へと近づいていく。
「お前はまだ迷ってるかもしれないけどな、俺は確信を持って言うぞ。お世辞でもなんでもない。お前ならできると本気で思うからだ。そのための力なら俺はいくらでも貸す」
俺はかがんだ腰を起こし、白石に正対する。「何ですか愛の告白ですか?」ととぼけるが、もう隠せないと観念したのか、目は笑っていない。
右手で持っていたバットを白石へ差し出す。
「白石、バッターになれよ」




