第3章6 【打撃をさせない打撃投手】
「次は広瀬さんの番です。打者3人に10球ずつということで」
投手コーチの指示をミーリンが訳す。俺は頷いてベンチを出て、マウンドへ向かう。
キャンプの4日目。これまではブルペンで軽く投げるだけだったが、今日からは打撃投手を務めたりして、徐々に打者に投げる感覚を取り戻していく。
台湾の打者に投げるのはこれが初めてだ。投手と野手は練習のほとんどが別メニューであるため、野手陣の実力は未知数だ。
足場を軽く均し、捕手へ向かって投げる。捕手役を務めるのは選手ではなく、ブルペン捕手だ。キャンプインからずっと俺の球を捕ってくれている。いずれはベアーズの捕手陣へとシフトしていくが、現時点の相棒は彼だ。
まずはウォーミングアップで5球ほど投げる。肩や肘の具合は申し分ないが、投げづらい。練習ということで、マウンドの前には防護ネットが置かれているからだ。
打球が打撃投手に当たるのを防ぐために置かれているが、視界の隅に緑色のネットが入るのが気になってしまう。それを意識しようとせずに投げるのは当たり前のことだが、気になるものはどうしようもない。昔からこのネットの存在が好きではないのだが、それこそ安全面からしてどかしてもらうことなど不可能だ。
バッターボックスはゲージで囲われている。普段の打撃練習はこれが2つ置かれ、同時に2人が打撃練習を行うのだが、今日は投手が投げるので、1つだけだ。首脳陣が一度にチェックする人数も限られる。打者だけの調子を見極めるだけならいいが、投手も同時に見るとなると、1カ所で十分だ。
捕手の真後ろ、ゲージ越しにリン監督が立った。サングラスを帽子のつばに載せ、鋭い視線をこちらに寄越す。
背番号5をつけた打者が右打席に入った。練習の名目は「打撃練習」であるが、それをさせるつもりはない。開幕へ向けて準備をしているため、身体のコンディションは100%までほど遠いが、今の全力をぶつけていく。
ブルペン捕手が、サインを出す。直球だ。頷き、グラブを胸の前に持っていく。打者が構える。この感覚は昨シーズン以来だ。球春到来。待ちに待った野球の時間だ。
左足を一歩引き、両手を高く掲げる。身体に無駄な力が入らぬよう、ふーっと細く息を吐く。上げた両手が頭上に来たところで左足を上げる。ブルペン捕手のミットから目線は外さない。
体重移動は低く、素早く。マウンドの傾斜を利用して勢いをつける。
テイクバックは10%、リリース時は100%の腕の振りを意識する。投げる直前だけに全身の力を込める。
これが俺のフォーム。高校時代、俺が日本一になったときの投げ方だ。1年経って、それは揺るぎのないものに固まった。
「パンッ」
高く短い音が鳴る。やはり、万全ではないのか、コースが甘くど真ん中だった。しかし、打者はバットを振らなかった。
リン監督や順番待つ他の選手たちが、打者を煽っている。「練習なのにど真ん中を見逃すなんてあり得ないだろ」と言っているのが、中国語を理解していなくても分かる。
打者は苦笑を浮かべながら、再び構える。こちらも同様に直球のサイン。次は狙って、真ん中を投げる。
打者はボール2個分ほど下を振って空振り。タイミングも完全に振り遅れていた。
「こんなもんかよ」
小さく呟く。背番号5の打者の番が終わった。10球投げてバットに当たったのは2度。だがどちらも前には飛ばなかった。俺は直球しか投げていない。
続く選手も同様だった。何球か前に飛ばされはしたが、どれも力のない内野フライ。俺と対峙している選手たちは1軍の選手ではないのかと本気で疑ってしまう。
打たせる気などさらさらないが、手応えが全くなさ過ぎだ。向こうも状態は仕上がっていないだろうが、それはこちらも同じ。日本では甘く入れば、容赦なくはじき返されてしまう。
今日最後となる3人目。背番号1をつけた左打者だった。
前の2人とは打席に立つ雰囲気が違っていた。
「彼か」
ベアーズは基本的に貧打のチームと言われているが、1人だけ台湾を代表するスラッガーがいると聞いた。3年連続でシーズン打率4割を超えて三冠王という驚異的な実績。打席立った瞬間、彼がチェン・ジェンフだと分かった。
こうして顔を合わせるのは初めてだ。挨拶はボールで十分だ。
ブルペン捕手のサインはまたも直球だ。というより、今日は直球しか要求してこない。こっちも初めての実践投球ということもあり、真っ直ぐで押していきたい。
台湾4割の実績はいかがなものだろうか。そんなことを考えながら振りかぶる。だからといって油断はしない。チェン・ジェンフがかすりもしなかったと、偵察にきている他球団のスタッフたちに思い知らせるだけで、脅威になる。
ここまで20球を投げ、だいぶ感覚も掴めてきた。徐々に厳しいコースにも投げられるようになった。まずは内角膝元。そこを狙って投げる。
「カーン」
低く、ボール気味のコースであったが、うまくすくい上げられた。乾いた打球音とともに、低い弾道の打球が飛んでいく。
しかしライト線を大きく外れた。弾道の割に打球はかなり飛び、オーバーフェンス。コース的にファールにしかならないだろうが、甘く入れば本塁打になっていたかもしれない。
「前言撤回だな」
頬が緩む。1球で、しかも厳しいコースをあそこまで運ばれた。台湾にもいるじゃないか。敵として対戦してみたかったが、同じチーム。このような機会や紅白戦でした勝負できないのが寂しい。が、オリオンズでの日下部同様、心強い味方なのは確かだ。
打ってくれるから、抑えれば勝てる。
単純な考えだが、こう考えるのがどれだけ難しいか、こう考えれば投手はどれほど楽になるか。俺は仲間に恵まれているのかもしれない。
それはされおき、今はこの勝負を楽しむべきだ。
もう一度、直球を、今度は真ん中高めに狙う。
それをチェン・ジェンフは強振。バットは空を切った。
今度はチェン・ジェンフが白い歯を見せた。
これでお互いの自己紹介は済んだ。短い時間だが楽しく会話をしようじゃないか。




