第3章2 【桃園國際機場】
羽田を離陸してから3時間ほどだろうか。桃園国際空港へ到着した。台湾最大都市である台北から車で1時間ほどのこの空港は台湾最大の空港らしい。そしてこの桃園市はこれから所属する桃園ベアーズの本拠地だ。
飛行機を降り、入国手続きをするまでの道のりを歩いてみるが、異国感があまり感じられなかった。まず、道行く人々の多くはアジア人であり、若干の顔立ちの違いはあるが、日本人とあまり変わらない。
そして、台湾では中国語が主に話されているわけで、漢字を使っている。看板の字を見れば、なんとなく意味が分かるものが多かった。
例えばこの桃園国際空港も、ここでの表記は桃園國際機場。空港と機場の違いがあるが、「飛行機が集まる場所」で機場と連想できる。意外と生活面では不自由をしないのだろうか。
そんな日本語と中国語の違いを楽しんでいると、あっという間に税関を抜け、到着ロビーへと降り立った。ドアを抜けると、それぞれの友人や家族の出待ちをしている人が多くいた。また、観光客向けだろうか、名前を書いた紙を手に持っている人もいる。
そういう俺も空港に着いたら到着ロビーで球団職員と落ち合うことになっていた。掲げられている紙を1つ1つ確認する。
その中に「ニーハオ広瀬さん」と書かれたボードを見つけた。手にしていたのは女性だった。背中まで伸びたきれいな長い髪と、健康的に日焼けをしている肌が特徴的だった。切れ長の目ですっと鼻筋も通っており、とっさにきれいだなと思った。
「ハイ、アイムヒロセ」
たどたどしい英語で話しかけると、女性は口元に手を当てて微笑んだ。
「広瀬さん初めまして。私日本語話せるんで大丈夫ですよ」
あまりにも流ちょうな返事が返ってきて目を丸くする。確かに日本語を話せるスタッフが案内をすると事前に伝えられていたが、それが頭から完全に抜けきっていた。
「ベアーズスタッフのリウ・ミーリンと言います。私、台湾と日本のハーフなんです」
ミーリンがそう言うと持っていた紙に劉美玲ときれいな字で書いた。
「日本だとみれいって読みますよね。でもミーリンの方が呼び慣れているので、ミーリンって呼んでくださいね」
にっこりと笑うミーリンに見とれていると、突然後ろから肩を叩かれた。驚いて振り向くと、サングラスをかけた男が立っていた。身長は俺よりも10センチは高い。しかし身体の線が細く、ひょろ長い。
「ヒロセサン、ハジメマシテ」
男がサングラスを外すと、こちらもミーリン同様、満遍の笑みを見せた。
突然現れた謎の男に右手を差し出され、こちらも応える。何がなんだか訳が分からない。
「ミーリンさん、この人はどちらさま?」
助け船を求める。が、当のミーリンはその光景を微笑ましそうに眺めている。
「彼は、ジェン・ジーウェイ。私の幼なじみで、今日は運転手を買って出てくれたの」
ミーリンは再び紙に「鄭志偉」と書いた。おそらく彼の名前だろう。
ジーウェイがなにやら中国語で話しかけられているが、いかんせん意味が分からない。しかし、表情や背中をポンポン叩いてくるあたり、かなり歓迎されているようだ。見た目的に俺よりは若い。25歳前後だろうか。あまりのフレンドリーさに若干身が引ける。
「ちなみにジーウェイはベアーズで1番のピッチャーですよ」
「本当ですか?」
補足ついでに重要なことを言われ驚く。
しかしこの目の前に立っているひょろ長い青年がエースとは。華奢とはいえ、高校生の荻窪の方が、いい体格をしていた。ジーウェイは一体どんな球を投げるのか。こんな身体つきの投手がエースだなんて、やはり棒球のレベルは低いのだろうか。
ジーウェイがミーリンに、何かを耳打ちする。頷きながらそれを受けて、ミーリンが俺に話しかける。
「広瀬さんの投げている映像を見たみたいで、すごい球だなってびっくりしたようです。でも負けないですよって言ってます」
ジーウェイは日本語が話せないようで、ミーリンが通訳となっている形だ。
「3日後からのキャンプが楽しみだね。どっちが開幕投手になるか競争しよう」
ミーリンにその言葉を伝えてもらうと、ジーウェイは「OK」と親指を立てた。
そのまま駐車場に連れて行かれ、ジーウェイの車に乗り込んだ。それもドイツ製の高級車ということもあり、やはり稼いでいるなと感心する。棒球の世界ではかなりの地位を築いているのが分かる。空港でサングラスをしていたのも身バレを防ぐためだったのかもしれない。
「球場についたら最初に入団会見をしてもらいます。その後に施設の案内をしますね」
「分かりました」
後部座席の進行方向から右側に座るミーリンが資料を見ながら説明をする。その資料がふと目に入るが、漢字の羅列で内容が分からない。時折数字が含まれていて、それだけは分かる。なんとなく、今日のタイムスケジュールかなと想像をする。
見慣れない町並みをぼんやり眺める。車は右側通行だし、看板や標識は日本語ではない。ついに台湾へとやってきたのだなと実感する。
そういえば、トレードに出され、仙台へやってきたときも、車に乗せられて球場入りをした。運転手は広報の岡部さんだった。あの時は球団事務所で監督と面会し、入団会見は後日だった。多少の違いはあるが、これからどんなことが待ち受けているのか先が見えていない状況は似ている。
台湾で活躍をしなければならない。期待をそれほどされずに仙台に来たのと訳が違う。かと言って、気持ちを入れ込みすぎても、空回りしてしまうのは目に見えている。
「緊張してますか?」
ミーリンが問いかける。
「そりゃあもちろん。でもやるしかないですね」
さっきまで思っていたことを口にする。そのおかげか、頭の中でぐるぐると回っていたモヤのようなものが、スーッと消えていった気がした。
「広瀬さんは知らないでしょうけど、台湾でも日本の野球は結構有名なんです。甲子園が好きな人もいっぱいいますよ。だから、ジーウェイみたいに広瀬さんのピッチングをほとんどの台湾人が見てます。もちろん私もね」
「野球関係者が映像を見るのは分かりますが、ほとんどの台湾人が見たというのは言い過ぎじゃないですか?」
確かに昨シーズンは悪くはない成績ではあった。調子の波が激しかったが、良いときは本当に良い投球ができた。新たに入団するベアーズのファンが下調べをするのは理解できるが、ほとんどの台湾の人々がベアーズファンであるとは考えられないし、さすがに言い過ぎだろうと頬を緩める。しかし、ミーリンは首を横に振った。
「広瀬さんの入団が決まってから、日本のすごい投手が台湾に来るって大騒ぎなんですよ。ニュースでも大々的に報道されました。オリオンズの日下部選手は台湾でも有名で、その日下部選手が高校時代に手も足も出なかった伝説の投手という扱いですね」
「それはさすがに盛っているのでは」
「でも広瀬さんなら活躍すると思います。思いますというか、台湾の人はみんな活躍して当たり前だと確信してますね」
「冗談じゃないですよ」
高校時代の名声が異国の地で1人歩きをしていた。想像以上にプレッシャーのかかるシーズンになりそうだ。暖かい気温なのに、背筋がものすごく寒い。そんなことを考えていると、車が停まっていた。地下駐車場のようで、球場に着いたようだ。
「さあ着きましたよ。荷物は持って行かなくて大丈夫です」
ミーリンが車を降りると、こちら側へ回りドアを開けた。
「これから見る光景に驚かないでくださいね」
ミーリンが耳元でささやき、笑う。先ほどから言っていることが理解できず、頭が混乱する。
「どういうことですか?」
「それは見てからのお楽しみです」
ミーリンがいたずらっぽく笑う。球団職員であるのならば、一から説明してほしいところだが、その願いは叶いそうにもない。
「とりあえず、今いる駐車場はここで、クラブハウスがここ。50メートルぐらいの距離を歩きます」
ミーリンが地図を指しながら説明をする。だが、それは俺が求めている説明とはかけ離れていて、混乱が収まらない。
「ヒロセサン、カモーン」
先にエレベーターに乗り込んだジーウェイが手招きをする。距離にして20㍍ほどだろうか。小走りで向かう。
俺とミーリンが乗り込んだのを見ると、ニヤニヤと笑うジーウェイがボタンを押した。この表情からジーウェイも事情を知っているはずだ。エレベーターが開くと、オリオンズの森塚部長や日下部たちが「ドッキリ大成功」という看板を掲げているのかと、一瞬考えたが、そんなことはあり得ない。
エレベーターが到着し、ドアが開く。目の前に広がるのはおびただしい数の人とカメラだった。




