第2章26 【蒼天の霹靂】
「お前らいい加減にしろよ」
観客からの容赦ない罵声が耳に残っている。俺たちは聞こえていないふりをしながら、そそくさとベンチ裏へ引き上げるしかない。
白石という気鋭の投手を失った。その損失は想像以上に大きかった。単純に先発ローテーションを張って、好成績を残していた投手が抜けたという戦力面のダメージはもちろん大きい。加えて、若手が一生懸命野球に打ち込む姿を誰もが見ていた。それを自分たちも負けじと刺激を受けていた者も多かった。いつも1番大きな声をあげていた白石が離脱したことで、チームが一気に静かになった。
そして負の連鎖が続いた。元々万全の状態ではなかった正捕手の藤島の怪我が悪化した。責任感が強い藤島は多少の痛みを我慢して試合に出ていたが、それがいけなかった。数週間のドクターストップがかかり、1軍を抹消された。ショートを守る浪川さんも右肘の靱帯損傷。守備で重要なセンターラインの主力が3人もいなくなった。
追い打ちをかけるように日下部とモーリスも打撃が不調。攻守の要が揺らぎ、チームは失速した。交流戦優勝の勢いを失い、4位に転落。昨日先発した俺も6回4失点で敗戦投手。チームは6連敗となった。
「広瀬、お前はまぐれだったのかよ」
ベンチから引き上げる間際に、野次が聞こえた。罵倒に怒りがこみ上げてくるが、ファンとケンカをしてもどうしようもない。
相手が研究をしてきたということもあり、打者を打ち取ることが以前よりも難しくなってきた。広瀬が好投するわけがないと敵に舐められていたことが効を成し、半ばラッキーパンチのようなことが続いていたのだろうか。
白石ならこういうときは練習するだろうな、と考えた俺は登板翌日であったが、練習に向かった。本隊は移動日で大阪へ向かっていた。球場の隣接する人が少ない室内練習場で黙々と練習をしようと思っていた。
車で球場敷地内に入ると、人の多さに驚いた。いつも通りの試合がない平日の昼間。数人しか見かけないはずだが、まるで試合開催中のような賑わいだった。
その中でも学生のような人が比較的多く往来していて、なるほどと察した。
駐車場に車を停めて、荷物を室内練習場のロッカーに置いたあと、球場に向かった。たまには気分転換もいいだろう。
「突然で申し訳ありません。見学させてもらってもいいですか?」
大会本部室と張り紙がされた部屋を探し出し、ノックをする。
中にいた係員たちが驚いて立ち上がった。
「広瀬さんではないですか。スタンドだと騒ぎになりかねませんので、ラウンジでご覧になってください。ご案内しますので。いやあびっくりしました」
佐藤と名札をつけた初老の男性が「こちらへ」と歩み寄ってきた。
「大会のパンフレットもどうぞ」
通路を進みながら佐藤さんが手に持った冊子を渡してきた。「全国高校野球選手権宮城県大会」と表紙に書かれたパンフレットは、会場の至る所で売られていたものだった。今、どこの高校が試合をしているのか、ぺらぺら捲って確かめる。
トーナメント表のページを見つけ、日程を目で追う。下から順に見ているが、どれも終わってしまっている。おかしいなと思いつつ、線を辿っていく。
やっと見つかったところで、分かったことが2つあった。1つは、今日開催されている試合は宮城県内で、この球場、そしてこの時間にやっている試合のみ。2つ目は、その試合が決勝戦だということだ。
そういえば、以前公園で高校球児に話しかけられたことがあった。彼はどこまで勝ち進めたのだろうか。荻窪と名乗っていたが、中々珍しい名字だ。「高校野球 荻窪 宮城」と検索でもすれば、ヒットするだろう。
「どちらが勝ちそうですか?」
通路の頭上にモニターが吊られてあり、試合が中継されていた。画面右隅に学校名とスコアや状況が表示されている。関東出身の俺だが、どちらも聞いた事のある学校だった。県内の名門校対決ということか。6回裏で0対0だったが、後攻のチームが1死二、三塁とチャンスを作っていた。
「まだゼロゼロですが、おそらく青葉学園でしょうか。エースも4番もプロ注目で投打の軸がしっかりしています。特にそのエースがまあ良い球放るんですよ。甲子園で一気に全国スターになるかもしれません」
エレベーターに乗り込みながら、佐藤さんに尋ねる。高野連のポロシャツを身にまとっているので、どこかの学校の先生であり、野球部の監督かコーチであろう。白い袖から真っ黒に日焼けした腕が伸び、5階のボタンを押す。
「そんなにいいピッチャーがいるんですか」
「ええ。最初は4番の子の方が目立つチームだったんですが、今年の春季大会で頭角を現したんですよ。真っ直ぐは150㌔超えていて、すごくノビがあるんです。ドラフト上位の逸材ですよ。3回戦で私のチームと当たったんですが、てんてこ舞いでしたよ」
「それは楽しみですね」
それほどまでの好投手が宮城県内にいたのか。スポーツニュースはチェックしていたが、全国向けのものばかりだったので、その投手の存在を知らなかった。早く見てみたいと気持ちが高ぶる。
密閉されたエレベーター内であったが、それでも聞き取れるくらいの歓声が聞こえてきた。
「先制したみたいですね。こりゃあ青葉の勝ちだ」
佐藤さんが目を細めた。高野連の立場上、中立を保たなければならないのだろうが、一野球人としての本音が出てしまったのだろう。それほどまで人を引きつける投手なのだろう。
エレベーターが止まり、ドアが開いた。プロ野球開催時はVIPのラウンジとして使われている階だ。カウンターには、ジャケットとネクタイを締めたスタッフが立っていて、いくつか置かれているテーブルの上には軽食も用意されていた。スーツ姿の数名が談笑をしながら試合を観戦していた。
「すみません、ちょっと広瀬さんをご案内しますので、1部屋貸してください」
「おおー。オリオンズの広瀬さんだ。いいよ、自由に使ってもらって」
気の良い返事が飛んできて、佐藤さんが頭を下げながら通り抜けていく。高野連の幹部か、関係者なのだろう。それに俺はついて行く。
VIPルームは、1つの広いホールがあり、そこに隣接して小部屋がいくつもある。グループごとに試合をゆっくり見られると聞いていた。実際はいるのは初めてだったが、球場とは思えない高級感があった。ぱっと見ると、こじゃれたレストランと錯覚してしまう。
「では広瀬さん、ごゆっくり」
1室に案内され、ソファに腰掛ける。高さはあるが、グラウンドを俯瞰できる良い場所だった。壁にはテレビも立てかけられていて、映像でも確認できる。
グラウンドではちょうど攻守交代のようで、イニング間に整備が行われていた。
「お飲み物はいかがいたしますか」
佐藤さんと入れ替わりで入ってきたスタッフに尋ねられる。「とりあえずビールで」と言いたい気分だが、練習前なのでウーロン茶を注文する。
バックスクリーンを見る。確かに0対2で接戦のようだったが、先攻チームは1安打しか放っていなかった。なるほど、噂は本当らしい。ベンチ前でキャッチボールをする投手を見る。顔はよく見えないが、すらっとした体格で、身体の線が若干細い印象だ。身体を作ればもっと速い球を投げられると思う。
グラウンド整備が終わり、ナインが各々の守備位置へと散る。投球練習が終わると、ブラスバンドの演奏が始まり、懐かしさと共に、高揚感が占める。
「拝見いたしましょうか」
提供されたウーロン茶をストローで吸う。投手が胸の前でグローブを構え、左足を一歩下げる。そのまま左足を上げ、踏み出す。
「まじかよ」
糸を引いた直球が捕手に収まり、主審の腕が上がる。予想していた以上に速かった。球速表示を見る。149㌔。もっと出てるだろと思うほど威力のある球だった。
その投手は返球を受けるとすぐに構え、投球モーションに入った。テンポよく投げ込む。またしても149㌔であるが、打者は振り遅れて空振りした。
これは本物だ。高校のレベルを確実に超えている。プロでもすぐに勝てるのではないか。
短い間隔で再び、足を上げた。打者に考える隙を与えていない。打者が明らかに戸惑いながら打席に入っている。
タイミングが全く合わないスイングがかすりもせず空振り三振。相手も甲子園の予選の決勝まで勝ち進んでいる名門校である。それなのに対峙する投手とレベルの差がありすぎている。
この投手は誰なんだ。スコアボードに注目する。ナインナップを順に追っていく。
左から打順、守備位置。名前の順で、上から1番打者から並んでいた。その6番目のところに「1」と表示されていた。視線を名前の場所へ移す。
「荻窪」という文字に目を疑う。
「まさかあの子が?」
思わず立ち上がってしまった。




