第2章25 【どん底】
「あ、広瀬さんじゃないですか。わざわざお見舞いに来てくれて申し訳ないです」
白い扉をノックし、スライドさせると、まだあどけなさが残る野球少年が笑顔を見せた。
「調子はどう?」
「ぼちぼちっていうところですかね。まだ動かしちゃだめって言われてますけど、手術は成功しました」
手に持っていた紙袋を地面に置き、ベッドの隣に置かれているパイプ椅子に座る。
俺の自宅から歩いて10分ほどの場所に総合病院があり、白石はそこに入院していた。なんでも整形外科の名医が在籍しているらしく、オリオンズの選手が病院に運ばれるところはいつもここらしい。その名医はチームドクターの顧問も務めているという。
8階建ての大きな病院で、見舞いには来たものの、果たして白石の病室まで辿りつけるか不安だったが、総合受付で「広瀬というものですが、整形外科の病室は何階でしょうか」と尋ねると「白石さんの面会ですか?」と返答され驚いた。名前だけで俺がオリオンズの選手だと察知したようで、丁寧に道順を教えてくれた。俺の名前も意外と知られているのかと少し嬉しくなる。
4階までエレベーターで上がり、真っ直ぐ進むと、右手側にナースステーションがあった。十字に分かれている通路の一角にそれがあり、そのまま真っ直ぐ進む。1番奥の左の部屋が白石のいる場所だった。
入ってすぐの左側にはトイレとシャワールームがあり、10畳ほどのスペースにベッドや机、テレビ台が置かれていた。院内ということできれいに掃除が行き届いているが、それにしてもホテルの1室のような高級感を感じる。
「ずいぶん豪勢な個室じゃないか」
「自分は逆に寝にくいですけどね。大部屋で普通の患者さんたちと一緒に扱ってほしいのに。図体がでかいし、プロ野球選手だと目立って、病院側にとってもやりにくいんでしょうが」
白石が左手で頭を掻いた。「ほんと身の丈に合ってません」と口角を上げる。
「とりあえずは元気そうでよかったよ」
白石の右手に目をやる。ギプスを巻かれ、腕の太さが倍ぐらいになっている。表情も明るく、一安心する。
「これ、みんなからのお見舞いな」
足元の紙袋をひざの上に載せる。中に手を突っ込み、白石が食事をする際に使うテーブルに並べる。今日の俺はちょうどベンチ外の日だった。普段なら次の先発登板に向けて調整をする日なのだが、時間を作って白石に顔を見せにきた。怪我の状況が心配だったし、野球人生を揺るがすほどの困難に直面した後輩を励ます意味もあった。
昨日の試合後、「明日白石に会いに行くよ」とチームメートに告げたところ、試合のため同行できないナインから、いろいろ見舞いの品を渡されていた。
「これは高宮からな。これで勉強しろだってさ」
高宮から預かったのは野球の配球に関する本だった。球界の名捕手が引退後に執筆したもので、話題を呼んだものだった。高宮がそれをいつも携帯し、移動中に開いているのをよく見ていた。
「あいつらしいですね。脳筋投球はやめろってことですかね」
白石が目を細めた。何か思うことがあるのだろうか。窓の外をじっと見つめる。
「あとはこれはみんなから」
再び紙袋に手を突っ込み、掴んだものを白石の左手に握らせる。
「おお」
白石が言葉にならない声を出し、まじまじと見つめた。昨日の試合のウイニングボール。浦和さんや日下部など、昨日の試合に出場した選手たちの激励の寄せ書き入りだ。小さいボールに10人程が書き込んだため、かなり字が小さいが、白石はそれを感慨深く眺めている。
あまりにも落ち着きすぎている。何かを達観しているような、何かを悟っているからのようだ。まさかとは思うが、念のため釘を刺す。
「白石、辞めるなよ」
ハッとした表情でこちらを振り返る。一瞬目を丸くするが、いたずらがばれた少年のように眉を下げる。
「広瀬さんにはお見通しでしたか」
それ以上言うな。心の中で必死に叫ぶ。若くて実力があって、将来を嘱望されているホープ。引退なんて早すぎる。
「俺だって30手前でやり直せてるんだ。お前はまだ21歳になるところだろう。大卒の同期がまだいないような年齢じゃないか」
「医者からは野球ができるようになるまでに半年はかかると言われました。そして、前みたいな球速は出ないだろうという話です」
「球が遅くても勝てる投手なんていくらでもいるだろ」
「そうですね」
白石は左手で握るボールを見つめた。険しい道のりではあるが、白石ならきっと乗り越えられるはずだ。
「朝一で編成部長の森塚さんがいらしたんですよ。今オフの自由契約は避けられないと言われました」
白石の言葉に衝撃を受ける。大怪我をした若手をそんなにあっさりと見切るのか。
「でも来季は育成契約をしてもらえるようです。最長でも2年は待ってくれると言ってくれました。背番号は3ケタになりますけど。辞めようかなと悩みもしましたが、とりあえずは死ぬ気でリハビリしていこうと思います」
フロントもそこまで人でなしではなかった。しかし、育成契約を結ぶということは白石を当分の間は戦力とみなさないということだ。年俸も大幅に下がるし、規定上、育成選手は1軍の試合に出ることができない。そのためにはもう一度新たな契約を勝ち取る必要がある。シーズン途中の登録は毎年7月31日までだ。来夏まで復帰することができなければ、また翌シーズンまで持ち越し。モチベーションの維持は容易ではない。
「今が野球人生のどん底だと思ってます。これ以上下がることはないって考えるとだいぶ楽になりますよ。あとはクビを切られるだけですしね」
まだまだ少年のように見ていたが、肝は据わっていた。引退するのではないかと早とちりした自分を恥じる。だが、戻りたいという意志を表に出してくれたことで、こちらも救われた。
「白石が戻ってくるまで俺がその穴を埋めるよ」
「自分の穴結構大きいですよ?大丈夫ですか?」
白石がいつものような減らず口を叩く。ふと日常が戻ってきたようで、目頭が熱くなる。
「投げられるようになったら、このボールでキャッチボールしましょう」
白石は左手でボールを弾き、穏やかな表情でキャッチした。




