第2章23 【スクランブル】
ベンチを飛び出した途端、いつもと違うグラウンドに全身の毛が逆立った。元々野球場とは静寂とはほど遠い場所なのだが、そのざわつきに違和感を覚える。観客が試合に集中していないと言うのが正しいのかもしれない。
いつもだったら場内アナウンスやプレーに対して反応がある。しかし今日はそれがない。登板時は声援で迎えられるのだが、そんなことはなかった。
心ここにあらず。
しっかり集中しないとまずい。浦和さんの言うとおり、飲まれてはいけない。
「最悪のタイミングだが、なってしまったものは仕方ない。試合を落ち着かせてくれ」
マウンド上に内野手陣と藤島さん、佐々木投手コーチが輪になっている。その中心へたどり着くと、佐々木コーチに背中を叩かれた。
首を縦に振り、ボールを無言で受け取る。声を出したら集中力が一気に削がれるような気がした。「集中」がそのまま口から出てしまいそうで、必死に体内に押し込める。
「とりあえずなりふり構ってられない。どんな不格好でもこの回を終わらせることが大事だ。気合い入れていくぞ。ランナーなしで1ボール1ストライクな。いつもならなんてことない場面だ。いつも通りな」
藤島さんがミットを2度叩き、ホームへ戻っていった。
審判が右手を挙げる。藤島さんのスライダーのサインに頷き、セットポジションの体勢を取る。相手は左打者。打者の背中側からストライクゾーンに入る球をイメージする。
足を上げ、右手を藤島さんの方に向ける。横手気味から腕を振り、指先でボールを切る。
スピンのかかったボールが弧を描いてミットに収まる。はずだったが、ボールが抜けてしまった。曲がり切らずにそのまま打者の背中に当たった。
「デットボール」
審判が左肘を右手で叩く仕草をした。当てられた打者はこちらをじろっと睨む。
帽子を取って形式的な謝罪をする。うまくボールの縫い目に指がかからなかったのかな、と心の中で首をかしげる。
「切り替えろよ」
藤島さんが右手を口元に当てて声を出した。観客の声で聞き取りずらい。これまではあまりなかったことだ。
審判から新しいボールを受け取り、ロージンバックに手を伸ばす。指先がうっすらと白くなるまで触り、右手にはめたグラブを外して両手でこねる。
一塁走者は足がそれほど速くない。打者集中でまずアウトを1つ取る。あわよくば内野ゴロでダブルプレーでチェンジにしたい。
次の打者は右打者。藤島さんの直球のサインを確認し、1度正面を向く。牽制に備えるモーリスとリードを取る走者が目線の先にいる。深呼吸をしてた後首を捻って、再びホームを向く。
同じ失敗は繰り返さない。ざわざわとした声が耳を伝わり、頭をかき乱すが、無理矢理シャットダウンさせる。
「ストライク」
審判の右手が挙がる。打者のベルトの高さだったが、内角ギリギリにボールが決まったので、打者のバットは出なかった。
「よし」
小さく呟く。出だしこそつまずいたが、この調子でいけば大丈夫だ。平常心、平常心。
2球目を投げる前に、藤島さんは牽制のサインを出した。自分の間合いで投げろということだろう。一旦流れを切る意味もある。
リードが大きくない走者に対して、ゆっくり足を一塁側へ踏み出し、緩やかにボールを放る。アウトにすることを意図していない牽制だ。モーリスからの返球を受けると、もう1度深呼吸してセットポジションを取る。
サインはスライダー。さっきの同様のコースをイメージする。
右足を上げる。さっきの死球のときよりも、指先を意識する。
今度こそ。縫い目に指がかかり、大きく曲がっていった。が、曲がりすぎて真ん中にボールが入った。打者はそれを見逃す訳もなく、フルスイング。打球が放物線を描いてレフトスタンド中段に突き刺さった。
「くっそ」
思わず地面を蹴る。今までマウンドで喜怒哀楽、特に「怒」と「哀」の部分を表に出すことはなかったが、咄嗟に出てしまった。
「こんなんじゃ白石に顔向けできないじゃないか」
自分自身に言い聞かせる。いつも通りやるだけだ。簡単なことだ。そう、簡単なことなのだ。藤島さんのリードについていって、淡々と投げればいい。それで結果を出せたじゃないか。
考えるな。このうるさい声も気にするな。ミット目がけて直球を投げれば、後は野手におまかせだ。
次の右打者への初球。内角低めのいいコースへとボールがいった。ここで僕をたたみかけようと思ったのか、勝負を急いだのかは分からないが、相手は手を出した。なんの変哲もない打球が僕の右足下へと転がる。
しかし、投げ終えた直後の体勢では反応ができない。咄嗟に左足を出して打球に当てようとするが、見事に空振り。そのまま二遊間へと抜けていく。
位置的には若干ショート側だ。イージーゴロ。普通に捌けば確実にアウトだ。
が、この仙台の球場にも魔物が住んでいるのか、ショートを守る浪川さんが打球をはじいた。名手と呼ばれる守備職人には考えられないミスだった。
「まじかよ」
思わず天を仰ぐ。端から見れば、落胆が露骨に出ている嫌味な投手だ。
「タイム」
藤島さんが審判に一言声をかけ、こちらへ向かってきた。それを見た内野手陣がマウンドへ集まってくる。
「高宮すまんな。俺も浮き足立ってしまった。次はしっかりやるわ」
「誰だってミスはあります。気にしないでください。それよりも浪川さんに助けてもらったことのほうがたくさんあるんですから」
浪川さんを真っ直ぐ見つめる。やはり誰もが僕と同じように多少なりとも違和感を感じていたのだろう。それにより野球に向き合えなかった。そこから出たミスだ。
「今日の態度はいただけないけどな。気持ちは分からなくもないが、反省しろよ」
藤島さんに諭されているところで、佐々木コーチが現れた。
「高宮交代だ」
「はい。すみませんでした」
白石が負傷交代をしてのスクランブル登板。流れを食い止めるどころか、相手を勢いづかせてしまった。今日は何も仕事ができなかった。
「でもこの雰囲気を打ち破れるのはかなり難しいですよ。高宮ですらこうなんですから」
藤島さんがコーチに問いかける。確かにいつも冷静沈着な浪川さんも平常心を保てなかった。磯島監督は誰の名前を審判に告げたのか。
「ほんとに監督は性格が良い意味で捻くれているよ。毒を以て毒を制する。騒がしい観客にはもっと騒いでもらおうということらしい」
コーチが笑った。監督を卑下しているのではない。自分にはそんな采配ができない、と監督を認めているような表情だった。
「オリオンズ、選手の交代をお知らせします。ピッチャー高宮に代わりまして」
ちょうどアナウンスが入り、ナインは耳を澄ませる。球場全体も心なしかボルテージが下がった気がした。
「背番号22! うらわー!のりひろ!」
堂々とベンチを出てこちらに歩いてくる人物に誰もが驚いた。オリオンズで育ち、アメリカでも結果を出し続け、日米217勝を誇るレジェンド。いや、王と呼ばれても過言ではない。
その男が12年ぶりに杜の都のマウンドへ帰ってきた。




