第2章21 【星に願いを】
「白石!その調子で頼むぞ!」
観客からの声が聞こえる。自分がプロに入るまで気づかなかったが、ファンの声というものは意外とグラウンドにいても聞こえる。少年時代、不甲斐なかった選手に容赦ないヤジを飛ばしたりもしていたが、その声が届いていたとなるとゾッとする。あの時の皆さんすみませんでした。
交流戦の優勝が決まって、自分が完全試合を達成してから数日が経った。広瀬さんも1度はつまづきかけたものの、立て直していい投球を続けていた。自分もあれから数試合を投げたが土つかず。チームは3位と順位は変わらないが、好調で首位の姿を捉えつつある。後半戦へ向けてさらに勢いづけたいところの7月7日。七夕の仙台のマウンドに自分は立っている。これもプロに入ってから、というよりは仙台に来てから知ったのだが、杜の都の有名な七夕祭りは7月7日に開催しない。旧暦に合わせて8月の初旬に行われるのだ。
だが、関東で生まれ育った自分にとっての七夕は今日だ。小さい頃は「プロ野球選手になりたい」と毎年短冊に書いていたが、夢が叶った。少年たちが憧れる選手に少しはなっただろうか。少しでも夢を与えられる投手になっただろうか。ふと頭に過ぎる。
幼少期はテレビにかじりついて野球を見ていた。両親に球場に連れて行ってくれと何度もねだり、何度も連れて行ってくれた。行先は大抵は神宮球場だった。元々父親の贔屓チームだという理由だったのだが、いつしか母や妹も含め家族全員が傘を掲げながら応援していた。父はビールを手に取り、自分は妹と出店のソーセージ盛りを奪い合いながら、野球を楽しんでいた。
そんな夏休みのある日、父が休みを取り、甲子園へ行った。それまで、高校野球というものに興味がなく、プロの試合じゃないのかと駄々をこねたが、いざ球場に足を踏み入れると、圧倒された。
殺人的な真夏の日差し浴びながら懸命にプレーをする球児たち。買ってもらったかち割りが溶けるぐらい、夢中で試合を見続けた。その日の第2試合に魔物は現れた。東京の高校ということで元から親近感があったので、注目はしていたのだが、厳しい予選を勝ち抜いた全国の猛者たちを圧倒する投手に釘付けになった。
広瀬豪也。それ以来自分にとっての目標は常に彼だった。
それから一生懸命練習をした。あんな球を投げたい。そればかり考えていた。投げて、投げて。小学校、中学とそんな毎日を送っていたら、神奈川の名門校にスカウトされた。3年間必死に練習をした結果、魔物と同じマウンドに、最後の夏にようやく立てた。しかし心は晴れなかった。同地区のライバル校の主砲に1度も敵わなかったからだ。1年秋からエースナンバーを背負って、彼と何度も対戦したが、打ち込まれ続けた。甲子園に行けたときだって、彼から2つの本塁打を浴びた。打線の援護がなかったら聖地に辿りつけなかったのだ。
その打者は大学へ、自分はプロとして仙台にやってきた。プロに入ったら今度こそあの打者を打ち取る。そのために力をつけなければと、プロに入ってからも死ぬほど練習をしてきている。いつしか小学生の時に憧れていた投手が頭の隅にまで追いやられていた。
そして去年のオフに憧れ続けた投手とチームメイトになった。自主トレで日下部さんとの勝負を見て、眠っていた感情が叩き起こされた。人を魅了する投手とはこういう人なんだ、と再び憧れ始めた。
自分が憧れた広瀬豪也のように自分もなれているだろうか。
そんなことを自問自答しながら過ごしている。夢を与えられる投球を。そう考え続けていたら自然と結果がついてきた。
今日も8回1死まで1失点できた。今年は出来すぎだと自分でも思う。でもこのままいい成績を残して、球界を代表する投手になりたい。
完全試合を成し遂げたときから肘に疲れが残っている。でも休みたくない。チームに迷惑をかけたくないし、もっとたくさんの人を魅了したい。
今日も疲労が最大限まで達している。球数は少ないはずだ。あとアウト2つ取れば、リリーフが何とかしてくれる。
ベンチで広瀬さんが自分の投球を見守っている。広瀬さんあなたのおかげで今の自分がいます。
左足を高く上げる。よっこらせとマサカリを担ぐように投げる。
空振り。1ストライクだ。帽子を外して汗を拭う。いつも以上に汗が出ている気がする。
もう1球。1つ1つの積み重ねだ。もう1度足を高く上げる。腕を上から投げ下ろす。
いつもならそれでいい球が向かっていく。
しかし、何かが違った。腕を振り下ろそうとした瞬間に嫌な予感がした。
雷に打たれたような衝撃が右肘に走る。ホームと一塁の間をボールがコロコロと転がる。
徐々に痛みを感じる。肘が焼けるような痛みに思わずその場にうずくまる。肘を伸ばそうとするが、さらにズキッとした衝撃が走る。伸ばせない。
突然の出来事に球場が騒然としている。藤島さんがマスクを外し、目を丸くしているのが見えた。
「白石!」
「おい、どうした」
「大丈夫か」
様々な声が聞こえる。皆マウンドに集まってきたのだろう。
「白石くん、腕を絶対に動かさないで」
トレーナーが自分の腕を見るや、きっぱり言った。
「すぐ病院へ連れていきます。立てる?」
トレーナーの呼びかけにうなづく。痛みに耐えながら立とうとすると、右脇を誰かに抱えられた。
誰かの支えでなんとか立ち上がる。左を向くと、抱え起こしてくれたのが広瀬さんだと分かった。
右側にトレーナー、左に広瀬さんと挟まれ、ベンチへ歩を進める。
「大丈夫だから、絶対大丈夫だから」
広瀬さんに背中をさすられる。ふと少年時代が頭をよぎり、自然と涙がこぼれた。
広瀬さんが自分の帽子のつばをぐいっと下げ、俺の顔を隠してくれた。
広瀬さんは今どんな表情をしているのだろうか。それを確認することはできない。
「広瀬さん、自分も誰かが憧れるピッチャーになれましたか?」
「ここにきて、俺の憧れは白石だったぞ。だから絶対戻ってこい。俺が戻ってこれたんだ。ケガなんかにやられるはずないだろ」
思わず声が漏れる。こんなに泣くのは子供のとき以来だろう。そんなみっともない姿をカメラに撮られるのを防ぐため、広瀬さんがカメラと自分の間に入って隠してくれている。そのままタクシーに乗るまで広瀬さんがついてきてくれた。
「いいか、絶対戻って来いよ」
広瀬さんが念押しをしてドアが閉まる。トレーナーが病院名を告げると発車した。
チームに帯同するドクターもいるが、それを介さずに病院直行ということは、自分のケガが重いという証拠だ。肘の痛みからも分かることだが、ただ事ではない。
窓に頭をもたれかける。ふと夜空に輝く星が見えた。
また仙台のマウンドに立てますように。
頭の中の短冊にそう記した。




