第2章17 【救援投手】
「広瀬、次の回行くぞ」
電話を受け取ったブルペン担当コーチが声をかける。
「了解です」
ボールを1球投げ込む。パーンと心地良い音がミットから鳴る。
今日は試合の状況にかかわらず、6回から投げる予定だった。こちらの先発投手は昨年入団したルーキー。元々長いイニングを投げさせる予定ではなかった。6回とりあえず1イニング。それ以降は戦況により臨機応変に、ということだった。
ブルペン捕手からボールを受け取り、モニターに目をやる。ちょうど5回裏が終了し、7対2とリードをしていた。相変わらずの強力打線だ。ルーキーを援護しないと顔が立たないと思っているのだろうか。
画面に映るルーキーは心底ほっとした表情をしていた。周りからハイタッチを要求され、ペコペコ頭を下げながら謙虚気味に右手を差し出す。初登板初先発で2失点ながらも試合を作った、成田という大卒右腕は立派だ。今後も期待を持てる投手だ。5回終了時点でリードをしたまま降板。ということはプロ初の勝利投手の権利が与えられる。あとは先輩たちの出番。このまま終わらせて初勝利をプレゼントしたいところだ。
「良い球来てますよ。これなら抑えられます」
ブルペン捕手がミットを叩く。「真っ直ぐ」と宣言してから投球動作に入る。快音がまたブルペンに響く。
思えば、プロ入りしてからリリーフで登板するのは初めてだった。古巣でも数少ない1軍のマウンドはすべて先発だった。
今日はとにかく違和感しかなかった。「相手にもファンにも驚いてもらうぞ」という磯島監督の提案により、試合開始から1度もベンチに姿を現さずにブルペンで待機していた。先発投手とは異なり、試合の状況をみてリリーフ投手たちがウォーミングアップをする。その回数も1回ではない。なぜか。物理的な制限があるからだ。
リリーフに待機する投手が6人ほどいるなかで、ブルペンに設置されたマウンドの数は3つ。敵地や地方球場だと2つだ。同時にすべての選手が投げることはできないのだ。
そのため、まず試合の序盤に全選手が交代で一通り投げて肩を作る。その後は戦況に応じて、出番がありそうな選手が再び投げるというのが普通の流れだ。
そういった肩の作り方は初めてで新鮮だった。先発投手は前もって登板日が分かる。その日に向けて何日も準備していくのだが、リリーフ投手は毎日備える。いつでも投げられるように万全に備えたところで、試合に投げない日など当然のようにある。リリーフ投手が現役で長生きしにくいのも、試合の結果や数字で表れない球数が原因なんだろう。
試合の中のほとんどの時間をブルペンで過ごしていることで、今目の前で試合が本当に行われているのかと、思うこともあるほど、周囲とは隔離されているように感じた。もちろん、モニターで試合の状況はチェックできるし、ベンチからの電話が何度も鳴る。戦況を見守るもう1人の投手コーチや、その他の選手など、人通りは少なくないが、何か別のところで試合をやっているような気がしてならなかった。プレー音や場内アナウンス、歓声が全く聞こえないせいだろか。
「毎日こんな生活って結構厳しいな」
隣で投げ込む高宮に話しかける。
「確かに試合で投げるよりも準備で投げている方が圧倒的に長いですけどね。でも慣れましたし、やりがいもありますよ。リリーフが出てくるときはピンチの時だったり、勝敗に直結する場面ばかりじゃないですか。おいしいとこ取りって言ったら大げさかもしれないですけど、プレッシャーかかる場面で投げられるなんて楽しいじゃないですか」
高宮がボールを放り、それに続いて俺も投げる。投手が同時にボールを投げないというのが暗黙の了解だ。
刻々と迫ってくる出番に備え、投げる強度を強めていく。前日の疲れが残っていない訳ではないが、球数も少なかったので影響はない。
1球、また1球と直球を投げる。昨日よりは球速やキレがある。いける。昨日のような投球はもうごめんだ。
「チェンジになったぞ」
モニターを確認した投手コーチが再び声を上げる。3者凡退で攻撃が終了したようだ。
「マウンドに上がったらリリーフだって忘れることが大事だ。投げることだけ考えろ」
逢隈さんがコップを差し出してきた。受け取り、口に流す。スポーツドリンクの甘さが口に広がる。
「よし行ってこい」
ブルペンに待機する選手たちが手を叩いて激励する。慣れない風習に気恥ずかしさを感じながら、ブルペンを後にする。
幅は2㍍もない。マウンドまでの細く薄暗い通路をゆっくり歩く。
負けない。負けられない。もう2度とノックアウトされない。心の中で言い聞かせる。
徐々に球場の音が聞こえてくる。イニング間のイベントが催されているのか、軽快なメロディの音楽が流れている。一刻も早くマウンドに上がりたい。その一心だが、あえていつも以上にゆっくり歩を進める。人工芝のじゅうたんを1歩1歩踏みしめる。
通路の先が真っ白に輝いている。通路の終わり、グラウンドへの入り口だ。照明が煌々と照らされている場所。多くの人の夢が集まっているプロ野球のグラウンドの中心へと向かう。
「打たせない。絶対打たせない。やれるもんならやってみろ」
心の中で呟くのは止め、声に出す。
相手は昨日と同じ。出場している選手たちもほぼ同じだ。「なんだ広瀬か」と舐めてかかる連中はすべて潰してやる。
ベンチの片隅で腕を組む磯島監督に一瞥し、その隣を通る。
「頼んだよ」
「はい」
ほんの一瞬の会話ではあるが、「頼んだよ」の言葉には磯島監督の様々な感情が凝縮されている。期待の他にも次はないぞという無言の圧力でもある。燻っていた俺に救いの手を差し伸べてくれた球団、そして監督。恩返しをたかが1試合で終わらせてはならない。
俺がグラウンドに姿を見せる。三塁ベンチ上の観客たちは俺を見て騒ぎ始めた。
ちょうど音楽が止まり、スタジアムDJの渋い声が聞こえてくる。
「オリオンズの選手の交代をお知らせします。ピッチャー成田に代わりまして」
スタジアムDJがそう前置きすると、俺の登場曲が流れ始める。マウンドへ向かう俺に視線が集まり、観客の驚嘆の声が大きくなっていく。
「何かの間違いでしょ」
「誰かがユニフォームを忘れて、広瀬のを借りたんじゃないか」
観客の声がここまで届く。今目の前に広がる光景を誰もが疑っている。しかし、球場の大型ビジョンに俺の映像が流れ、浮き出し立つ場内に現実を突きつける。
「えーーーー」
球場の反応に思わず笑みがこぼれる。相手ベンチに目をやると、目を見開き口を開けている表情の選手が多い。さすがに監督やコーチ陣は仏頂面で仁王立ちをしているが、あからさまに平然を装っている気がしてならない。
「背番号51! ひろせー!たけや!」
興奮した声でスタジアムDJから名前を告げられる。彼も動揺を隠し切れないのか、普段よりも声のトーンが高い。




