第2章15 【彗星と魔物とレジェンド】
徐々に日も高くなってきて、室内練習場で汗を流す選手が増えてきた。今日はホームでのナイトゲーム。普段であれば、球場でアップや練習を行っているのだが、今日はあいにくの雨模様。今から濡れたくないと皆が考えているようで、屋根のあるこちらの方が人数が多い。
昨日、完全試合を達成した白石と俺は、オフで試合のベンチ入りはしない。白石はクールダウン、俺は2日後の先発マウンドに向けての調整をしている。
白石もネットスローをしていたものの、それほど力を込めて投げているわけでもなく、早めに切り上げてランニングやノックを受けていた。昨日の疲労を考慮してか、かなり軽めのメニューだ。
「昨日の試合で球数が多かったせいか肘が張っているんですよね」
俺と白石が室内練習場の隅で並んでストレッチをしていた。白石は開脚し、胸を地面につける。投手ということもあり、身体は柔らかい。
「そりゃあ昨日は最初から気合いが入っていたしな。負担がないことはなかったでしょ」
「今までも投げた次の日に肘が張るってことはあったんですけど、ここまで気にならなかったんですよね」
「白石は開幕からずっとローテで投げてるもんな。蓄積されていく疲れもあるし、これからペナントも佳境に入っていくときに離脱されたら困るよ。しっかり調整してくれないと」
「そうですよね。後でトレーナーのところ行きます」
白石を諭しながら、俺は四股を踏む。右足を高く上げゆっくり降ろす。今度は左足を上げて同様の動きをする。それを交互に繰り返す。股関節が重要な投手にとって四股は言い練習になる。
そのとき、場内が沸いた。俺の四股を賞賛しているのではなかった。「えっ」「おお」といった驚きの声がほとんどだった。顔を上げると、その声の先を見ると、俺も目を丸くした。
浦和憲大が立っていたのだ。
「なんでもうここにいるんですか」
誰かが浦和さんに呼びかける。自然と浦和さんを囲むように輪ができ、俺と白石もそこに加わる。
「今日これから正式に契約を結ぶんだ。マスコミから隠れるように日本に戻ってきたから、まだ俺が仙台にいるとは知られてないな」
浦和さんが頭を掻く。身長190㌢、体重100㌔。間近で見ると大きい。俺よりも5㌢身長が高いだけなのだが、身体の線の太さが全く違う。100㌔を超える巨漢ではあるが、太ってはいない。丸太のような腕や太ももは引き締まっている。引き締まっていて太いのだから相当に身体を鍛えているのだろう。顔の輪郭に沿ってヒゲをたくわえている。山男や熊を連想させる。
確かにテレビで見る浦和さんは、体格に恵まれたメジャーリーガーたちと比べても、見劣りしていなかった。小さくなく大きくなく、平均的な大きさの選手だった。それが俺とは段違いに大きいのだから、メジャーリーガーたちの体格を想像すると、ぞっとする。フィジカルモンスターたちの野球だ。
「さすがに俺が前にいたときと顔ぶれががらっと変わってるな。当時から今も1軍にいるのは南雲と逢隈と浪川ぐらいか。チームは違ったけどな。若い奴らに負けないようにおじさん頑張るから、お手柔らかに頼むよ」
浦和さんがはにかむと拍手が起こった。メジャーでも活躍した大エース。野球をやっているものなら知らない人がいない。誰もが一度は憧れた投手を前に、皆敬意を払う。
「あ、君は昨日パーフェクトした白石だね。映像で見たけど、いい球放るなあ。このまま伸びていってくれよ」
白石は背筋を伸ばし「ありがとうございます」と威勢よく返事をしたが、レジェンド選手に褒められ嬉しかったのか、顔がにやけている。「何してんだ」と背中を突くと、「やめてください」とにやけ具合が増した。
「その隣は広瀬か。甲子園ですごかったピッチャー。プロで苦労してるとは聞いていたけど、君もオリオンズに来てたのか」
「去年のオフにトレードで来ました。今はローテに定着できるよう毎日必死です」
「投手陣も昔と比べたら層が厚くなってきたなあ。俺もしっかりやらないと。とりあえず最初は2軍で調整してからだな。これでも、先週まではメジャーで投げてたんだぜ。コンディションはばっちりだ。早く上で投げて貢献しないとな。そんな訳でこれからよろしくな」
浦和さんが右手を挙げると、身体を反転させ、入り口の方へ歩を進めた。屋外に出るのではなく、室内練習場とクラブハウスを結ぶ通路へ向かった。廊下からはスーツ姿を着た岡部さんが見えた。そういえば浦和さんもスーツ姿だった。契約を結んだらすぐに入団会見を行うのだろうか。急に呼び出される記者も大変だなと取るに足らないことを考える。
「全く近頃のうちは補強がすごいですね。オフに広瀬さんを獲って、シーズン途中にあの浦和さんですよ。意外とお金持ってる球団なんですかね」
輪が解け、先ほどの場所に戻って身体を伸ばし始めた白石が声を出した。今度は背中を反らしている。
「俺の場合は補強とは言えないんじゃないか。たまたまの掘り出し物だろ。自分で掘り出し物というのもなんか変な話なんだけどな」
「確かにそれは言えてます。でも初陣のインパクトは十分すぎますよ。古巣の首脳陣もファンも今頃手を叩いて悔しがってるはずです。だから夜道は気をつけてくださいね。闇討ちされるかもしれません」
「お前はほんと減らず口を叩くよな」
白石に苦笑をする。年も9個ほど違う先輩だというのに、平気で軽口を叩く。普通のサラリーマンではほとんどあり得ない光景だろう。
「部活のときは上下関係厳しかったでしょ。なんでそんな子になっちゃったんだ。お父さんは悲しいぞ」
「部活は部活、プロはプロです。俺だって、同じ高校出身の先輩と試合で当たるときとかは挨拶に行くぐらいの礼儀は持ってます。あと自分は広瀬さんの子供じゃないです。そもそも広瀬さん独身でしょうが」
軽口に対しそれを上回る軽口で返してくる。ここまでくると頭の回転の速さに逆に感心する。
「それより、広瀬さん次の登板は大丈夫なんですか?あれだけのピッチングして、後はボコボコだったら悲しいですよ?」
「それは昨日完全試合をしたお前も同じだな。お互い頑張るとしようじゃないか。まあ浦和さんは俺のこと眼中になさそうだったけどな」
浦和さんは白石の完全試合のことは知っていたが、俺のことはチームメートになることすら知らなかった。しばらく日本野球界から離れていた人からすれば、俺は過去の人なのだ。オリオンズに来てから、比較的順調に成果を上げてきている。そのせいで、忘れてはならないことから目を背けていた。この身は安泰ではない。結果を残せなかったら、職を失ってしまう。1軍で1回良い投球をしたからといって、それが継続できなかったら意味がない。
「そんな感じはしましたけどね。でもこれから知らしめてやればいいじゃないですか。先発陣は入る余地がありませんよって浦和さんに知らしめてやりましょう」
白石が親指を立てた。白石の言うとおりだ。投げるチャンスが次も与えられている以上、1つ1つ丁寧にこなしていくだけだ。
「白石ってたまにはいいことも言うんだな」
「自分は常時いいことしか言わないですよ」
「それすごくうさんくさい」
「そんなこと言わないでください」
白石が大げさに肩を下げるが、俺は気にせずストレッチを続ける。




