第2章12 【ディープインパクト】
勢いのない打球がサードを守る日下部さんの元へ転がる。いつも以上に丁寧に捕球し、いつも以上に丁寧にファーストのモーリスへ送球をする。これでアウトはあと2つだ。
普段であればなんてことのない打球処理であるが、アウトに仕留めた瞬間、ふーっと息を吐いた。心から安心したかのように、胸に手を当て、にっこり笑った。
「大和ー、こっちに打たせるなよ。心臓に悪いからやめてくれ」
日下部さんが定位置から声をかけるが、聞き取りづらい。
球場がざわついている。6回頃から観客が騒ぎ始めてきたが、アウトを取るたび、回が進むごとにその大きさは増していった。今、25個目のアウトを取ったことで、攻撃側の応援団の声よりも、そのざわめきの方が大きくなった。
「あと2つな。ここまできたら狙っちまえ」
ホームベース上で南雲さんが右手の人差し指を立てた。心なしか表情が強ばっている。
審判からボールを受け取る。ロージンバックに手を伸ばした後、グラブを外し、両手でボールをこねる。自分の足がかたかたと震えているが、収まらない。さあどうしたものか。天を見上げる。
広瀬さんの投球に触発され、先発のマウンドに上がってから、今日は特に気合いが入りっぱなしだった。いつもより球に威力があり、思ったところにボールがいった。そのため、ここまで四死球は0。打者に打たれても、芯で捉えられることはほとんどなかった。捉えられたとして、偶然にもどれも守備の正面だった。
そのままあれよあれよと試合が進んだ結果、走者を1人も出さずにここまできてしまった。
完全試合。
その言葉が頭をよぎる。ヒットを1つも打たれないノーヒットノーランでさえ、数年に1度の大記録。完全試合達成者ともなれば、何十年あるプロ野球の歴史でも十数人しかいない。しかも最後に達成は20年以上も前だ。
それが、目の前で起こってしまうかもしれない。観客からしてみれば、大騒ぎをしても当然だ。
自分も高校時代に1度完全試合をしたことがある。夏の甲子園予選の2回戦で相手は強くはなかったし、その試合は自分たちにとって甲子園出場までの通過点に過ぎず、それほど気持ちが入って投げた訳でもない。相手が勝手に打たなくて、達成したという印象だった。
しかし、今日は違う。プロが凌ぎを削るこの球場で自分がマウンドに立つことですら簡単ではない世界で、投手として誰もが憧れることをしようとしている。
「考えるのはやめよう」
南雲さんからのサインを見ながらつぶやく。
「目の前の打者に集中。目の前の打者に集中」
同じ言葉を繰り返す。
マウンドで考えすぎることはよくない。雑念があるとボールに魂が入らない。そんなんで打ち取れるほど甘くはない。
サイン頷き構える。「よし」と気合いを入れて振りかぶり、直球を投げる。
左打者の外角低めを狙ったが、案の定思い通りのコースにはいかなかった。ボール3つ分高い。相手打者はそれを逃さずにバットに当てるが、打ち損じたようで、三塁ファールゾーンに打球が高々と上がった。
日下部さんが難なく落下点に入り、捕球をした。つい数十秒前と全く同じく、捕球をした後、大きく息を吐き、胸をなで下ろした。しかし、その仕草がさっきより大げさになった気がした。
「だからこっちに飛ばすなって。寿命縮まる。まじで」
そう笑いながら日下部さんはボールを投げてきたが、返球に力がこもっていた。でも本気で言っているわけではないだろう。日下部さんのような人であれば、プレッシャーがかかる場面に何度も遭遇しているはずだ。困難に直面し、それを楽しむほどの器の大きさがなければ、あそこまでの打者にはなっていない。
あとアウト1つ。観客たちは、勝利の瞬間に飛ばす白いジェット風船を膨らまし始めた。ぴゅーぴゅーと風船が鳴る音が聞こえてくる。
「あと1つな」
南雲さんが再び声をかける。人差し指と小指を立て、きつねのような形えを作る。
「あと1つ。あと1つ」
観客の声がグラウンドを囲む。足の震えは相変わらず止まらないが、投げないことには仕方がない。
1球目、代打で出た左打者の膝元に直球が決まった。打者は見逃し、1ストライク。
歓声が一段と増し、守備につく選手たちの声がもはや聞こえない。打者と南雲さんだけに意識を集中させる。
2球目、南雲さんは自分の決め球のフォークを要求した。それに従って投げる。意表を突かれた打者は空振りをして、追い込んだ。
あと1球。騒然としている球場に気を取られてうまく集中できない。聴力を遮断したいが、意識しなくても、歓声が耳に入ってしまう。
南雲さんのサインはフォーク。やはり遊び球はなし。自分の決め球で試合を終わらせる。
投球モーションに入る。「あと1球。あと1球」と変わった声援が耳から離れない。まずいと瞬間的に思った。
人差し指と中指に挟んだボールがうまく抜けなかった。引っかかる形となり、かなり低めにボールが向かう。
ホームベースから1㍍手前で弾み、南雲さんは身体で止めた。大暴投だ。打者はバットを振ることもなく、1ボール2ストライクとなった。
「タイム」
南雲さんが審判から新しいボールを受け取り、マウンドに駆け寄ってきた。
「お前緊張してるだろ」
南雲さんがミットを口元に当てた。
「当たり前じゃないですか。足の震えが止まらないです」
「だよなあ。でも緊張してるのはお前だけじゃないぜ。俺だって吐きそうだわ。次もフォークでいくからな。絶対止めなきゃいけないプレッシャーだってハンパないぞ。逸らしたら振り逃げ。後輩の大記録が水の泡。ネットで叩かれること間違いなしだ」
「それでもフォークでいいんですね?」
「当たり前だ。相手も今の暴投でフォークは投げづらくなったと思うはずだ。そのための演技なんだろ? そうなんだろ?」
「そんなことはないですよ」
思わず苦笑をするが、南雲さんはすでに背中を向け、自身の守備位置へ向かっていた。
南雲さんが座りサインを出す。やはりフォークだった。この人の度胸はすごいなと後輩ながら思う。
南雲さんの言う通り、フォークは空振りが取りやすい分、欠点がある。ボールがストンと落ちるため、絶好の高さに投げれば捕手の手前でワンバウンドをする。捕手がボールを逸らしてしまう可能性が、他の球種に比べて格段に上がってしまう。三塁走者がいれば、それで1点取られるので、走者がいると投げづらくなる。
振り逃げになるリスクを承知上で要求をする。打者の考えないことをやる。そういったことに長けている捕手だから、長くプロの世界でやっていけるのだろう。
南雲さん止めてください。心から念じて、フォークを投げる。今度はうまくボールが離れた。気がつけば、周囲の音も気にならなくなっていた。なるほど、南雲さんは落ち着かせるためにマウンドに来たのだ。やっぱり食えない人だ。
ボールが真っ直ぐ南雲さんの元へ向かう。今度は低めの良いコースだ。直球だと打者は思いこみ、バットを出す。
思惑通りだった。ホームベースの上でボールが弾み、身体を出した南雲さんの胸の下あたりに当たった。
バットは空を切り、南雲さんはボールを右手で取り、打者にタッチした。
「よっしゃ」
思わず両手を掲げる。正面から南雲さんが笑顔で駆け寄ってきた。南雲さんがなにやら声をかけてきているが、大歓声とジェット風船が飛ぶ音でかき消され、聞き取れない。




