第2章10 【ウイニングボール】
モーリスが送球を捕った瞬間、ベンチにいる皆が立ち上がった。俺は周りから握手を求められ、それに応えながらベンチを出る。
ベンチにいた全員が1列に並び、ナインを出迎えた。勝利時は全員でハイタッチをする。このチームの習慣だ。
「おめでとう」
「ナイスピッチング」
「今日は最高だったな」
ハイタッチをしながら様々な言葉をかけられる。俺は笑顔で受け取った。久しぶりの1軍での勝ち投手。課題は残ったが、今日は素直に喜んでいいだろう。それくらいは許してもらいたい。
藤島とハイタッチをすると、最後は高宮とモーリスだった。
「ベストピッチャーニ、プレゼントネ」
モーリスがボールを差し出した。ウイニングボールだ。オリオンズにとって初の交流戦優勝の記念球でもある。本来であれば、球団に渡るはずなのだろうが、モーリスは俺に贈ろうとしていた。確かに俺にとっても大切な1勝ではあるが、もらっていいものだろうか。
「広瀬、遠慮せずに受け取れよ」
俺の後ろでナインを迎えていた南雲さんが背中を突いた。ならば、と右手を出す。
「ツギモ、タノムネ」
モーリスが俺の頭をポンポンと叩いた。カメラのフラッシュが一斉にたかれ、目の前が一瞬眩む。
「広瀬さんおめでとうございます」
モーリスの後ろに控えていた高宮が右手を顔の前に掲げた。
「お前のおかげだよ。火消しありがとう」
素直に思ったことを伝える。ランナーを溜め、ピンチを迎えたところで高宮にマウンドを譲ってしまった。先輩としては情けないが、あのまま投げ続けていたらどうなっていたことか。それを簡単に切り抜けた高宮は高卒3年目とは思えないほどの安定感だ。日下部といい、モーリスといい、高宮といい、信頼できる選手が多い。このチームならペナントレースでも優勝できるのではないかと思った。
「そんなそんな。自分の役割を果たしたまでですよ」
高宮が照れ笑いを浮かべながら、通り過ぎていった。俺は身体を反転させ、高宮に続いてハイタッチをしていく。1番後ろで出迎えているのは磯島監督だ。
「復活と言い切っていいな。計算できる先発が1枚増えてくれて心強いよ」
「ありがとうございます」
「この場で言うのもあれだが、しばらくは先発で投げてもらいたいと思う。次はちょうど1週間後だ。調整しっかり頼むよ」
磯島監督が握手を求め、それに応える。再びカメラのフラッシュがたかれる。
「広瀬さんよろしいですか」
声に反応し、振り返ると岡部さんが立っていた。ベンチへ戻り、道具をまとめて引き上げようとしていたときだった。球団広報の岡部さんと会うのは入団会見のとき以来だった。見た瞬間、誰だと思いはしたが、頭がうまく回転してくれたおかげで、思い出すことができた。
「今日のヒーローインタビューお願いします」
「もちろん」
岡部さんの言葉を快く受け入れた。敵地の試合ではあるが、勝ったらベンチ前でインタビューがある。プロに入り、ヒーローインタビューをするのは、初勝利を挙げたときのみだったので、これで人生2回目だ。何を話せばいいのか。そもそもちゃんと話せるのだろうか。
「今日はお前か。緊張して言葉に詰まったり、うれしすぎて泣いたりするなよ」
日下部が野球道具一式を手に引き上げていった。日下部にとっては数え切れないほどのヒーローインタビューを受けてきているだろう。場慣れしているのがうらやましい。
一旦ベンチ裏へ行く。トレーナーに右肩や肘を冷やしてもらうためだ。マウンドを降りてすぐ試合が終了したため、アイシングをする時間がなかった。
「お疲れ様でした。痺れましたよ」
トレーナーがそう微笑みながら、手慣れた手つきで氷嚢を当ててきた。冷たすぎる気もするが、投げた後に冷やすのは大切なことだ。
「広瀬さんは覚えてないでしょうけど、自分も広瀬さんと対戦したことがあるんです」
この人もか、と思う。確かに高校時代は多くの打者と対戦してきたが、こう何人もポコポコと出てくるものなのだろうか。世間は狭い。
トレーナーが自身の出身高校の名を口にすると、納得した。俺の高校と同地区、西東京の名門校だった。この2つの学校が西東京の「2強」と呼ばれ、だいたいはどちらかの学校が予選を勝ち抜き、甲子園に出る。それは俺が高校生になる前から、そして今もその傾向にある。
「高3の西東京の予選の決勝で当たったの覚えてます?自分はその時の3番でした」
「もちろん覚えてます」
ライバル校ということで、当時の俺やチーム全体がその学校を強く意識していた。あそこには絶対負けてはいけないという謎のスローガンが、口にせずともあった。
「だからプロ入りしたときから広瀬さんのことは見てました。自分もプロに入って、次は打つぞって意気込んでましたよ」
トレーナーは懐かしむように目を細めた。彼が今トレーナーという立場でここに立っているということは、俺と再戦をするという夢が叶わなかった証拠だ。気安く慰めることも、笑い飛ばすこともできずただ、アイシングをする彼の手を眺めることしかできなかった。
「自分は大学でケガして野球を続けられなくなったんです。でも大学の監督さんが専門学校とか、就職先とか斡旋してくださって、トレーナーとして野球に携われてるんです。もう自分みたいにケガで野球を断念する人は見たくないので。広瀬さんだってものすごく心配したんですからね。勝手にですけど。だからアイシングもきちんとしてくださいね」
プロ野球という世界は憧れの場所でもある。幼いころから大好きな野球に打ち込み続け、それを生業にするのだから、これ以上の喜びはない。しかし、一方で、そこにたどり着くまでに夢破れる人も数え切れないほどいる。単純に実力が足りなかった者、実力があっても諦めざるを得なかった者。トレーナーはおそらく後者なのだろう。それなのに別の道で、野球の仕事を選択した彼の精神力は強い。普通であれば、無理矢理に野球から離されたら、目を背け、それから遠ざかる仕事をするはずだ。しかし、彼は現実をしっかり見た上で、向き合った。
「できましたよ。ヒーローインタビューがんばです」
トレーナーに一声かけられると、お礼を言って部屋を出た。「自分がオリオンズにいる以上、広瀬さんにケガはさせません」と笑顔で語ったトレーナーの顔が浮かぶ。本当に俺は恵まれているなと思う。ケガをしてもクビにはならず、運良くマウンドに舞い戻れた。多くの人の支えがあったからであり、これからも多くの人に支えられていくのだろう。それに応えるには結果を出すしかない。今日のような投球を続ける。その先にあるのは優勝だ。
再びグラウンドに向かって歩を進める。今日が第2の野球人生の第一歩だ。これから先、誰にも負ける訳にはいかない。




