第2章8 【怪物と魔物】
全身の毛がゾクゾクと逆立つ。不安や緊張というものではない。一言で表すと快感だ。視線を独り占めしている感覚。自分が投げなければ試合が進まない。試合を支配している感覚。こんなことをマウンド上で考えるのは、甲子園の決勝戦以来だろう。相手は球界の盟主だとか、古巣だとか、交流戦の優勝争いだとか、今は関係ない。今は目の前の打者と叩き潰すだけだ。
「1番、センター、仁科。背番号8」
ウグイス嬢のアナウンスに続き、登場曲が流れる。観客もそれに合わせて声援を送った。
「プレイ」
審判が右手を挙げた。応援団のラッパが流れ始め、大歓声が俺を飲み込もうとする。今までの自分なら打ち負かされていただろう。でももう違う。全員を黙らせてやる。
藤島が直球のサインを出した。俺は頷き、両手を挙げる。初球。全力で投げ込む。
一瞬、ドーム内が静まり返った気がした。審判の「ストライク」の声が聞こえると、それまでの静寂が嘘のように騒然とした。
「そんな球投げられるんだったら、さっさと投げろよ。何10年も道草食ってたんだ」
サードの守備位置から日下部がグラブを叩いた。「まじかよ」という驚きと呆れたような感情が混ざっているのか、苦笑とも笑顔とも言えない表情をしている。
ネット裏後方のスコアボートに目をやる。「155㌔」と白い文字が煌々と光っていた。
「ナイスボールだ」
藤島が勢いよく返球をした。こんなに力を入れなくてもと思うが、藤島の目が輝いていた。「やればできるじゃねえか」と言われているような気がした。
続く2球目も直球だった。153㌔の剛速球が左打者の内角低めに決まった。
「よし」
小さく息を吐く。思っている以上に気持ちがこもっている。この調子でいけば大丈夫だ。
3球目、藤島はまた直球のサインを出した。3球勝負。久しぶりの1軍。そして先頭打者を仕留める1球。たかが1つのアウトであるが、俺にとっては大きな一歩になる。この1球は自分にとって忘れられない1球になるだろう。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
「なんだこいつは」
俺は思わず、笑みを浮かべてしまう。カメラに悟られないように口元をグラブで覆う。
「そんな球投げられるんだったら、さっさと投げろよ。何10年も道草食ってたんだ」
マウンドに佇む、そいつに向かって俺は叫ぶ。
今、目の前でボールをこねる、その男に俺は会ったことがある。10年前の甲子園決勝で対峙した怪物だった。
「やっと戻ってきたのか」
心の奥底から沸き立ってくる感情。その高揚感に表情を崩さずにはいられない。これだ。これなんだ。俺がずっと待ちこがれていたものがここにある。いや、いると言った方が正しいか。
「終わった男」のはずであった広瀬豪也は今、躍動感ある投球をしている。1球目は153㌔で2球目は155㌔。相手の打者も、そして両ベンチも戸惑っているのは明らかだった。にやにやと不敵な笑みを浮かべるのは俺以外に藤島だった。
今日の広瀬の出来であれば、藤島はとことん直球で押していくだろう。相手が得体の知れない怪物に驚いている間にアウトをできるだけ取りたいだろう。
3球目、あの日俺が絶望した投手が、10年の時を得て、同じフォームで投げる。打者は反応すらできない剛速球だった。思わず振り返り、バックスクリーンへと視線を移す。
158㌔。
正直に言うと、この球を打ちたかった。打つために死にものぐるいで練習をしてきた。しかし、その夢がもう叶わないかもしれない。叶ったとしてももう少し先になりそうだ。今は目が覚めた怪物を援護しなくては。俺が打たなきゃ誰が打つ。
結局、勢いそのままに広瀬は初回を3者連続三振に打ち取った。変化球をいくつか交えていたが、決め球はすべて直球だった。
「おかえり」
ベンチに戻る途中、広瀬に声をかけた。
「日下部はそう言うと思ったよ」
「当たり前だろ、ずっと目標にしていた投手が戻ってきたんだから」
「でも試合で対戦する機会がなくてつまらないだろ?」
「そうなんだよ。いっそのことオフになったら移籍しようかな」
「頼むからそれだけはやめてくれ」
軽口を叩き合う広瀬はいつもより柔らかい表情をしていた。自信がついたのか、安堵したのか。いずれにせよ、俺がこれまで見た中で1番明るかった。広瀬にもこんな一面があったのか。俺と広瀬はお互いのグラブでタッチをした。
投手が0に抑えたのならば、援護してあげなければ。2回表の攻撃は俺からだ。
左足にレガースを、左腕にプロテクターをつけ、手袋をはめる。ヘルメットとバットを手に取り、ベンチを出る。
「日下部。この打席は狙ってもいいよ」
背中から声が聞こえた。見透かしているように微笑むのは磯島監督だ。さすが、ミスターオリオンズと呼ばれた名スラッガー。主砲の気持ちは分かるということか。
「ういっす」
ヘルメットを被る。ネクストバッターサークルに置かれた滑り止めのスプレーをバットのグリップに吹き付ける。バットを顔の前に立てるように握り、雑巾を絞るように、ぎゅっと力を込める。
「オリオンズニ、コンナイイピッチャー、イタノネ」
5番打者のモーリスが、同じくネクストバッターサークルに入った。
「ヒイ、イズ、ワンオブザベストピッチャー、インジャパンよ」
そう返すと、モーリスが手を叩いて笑った。試合中だろうと関係なく、喜怒哀楽をはっきり表現する。ベンチに座っている際もタオルを振り回しながら味方の応援をしている。チームのムードメーカーだ。
「ワタシモ、ブチカマサナイトネ」
「その日本語はどこで勉強してきたんだよ」
「3ネンモ、ニホンニイレバ、ヨユーネ」
モーリスに苦笑しながら、打席に向かう。ブン、ブンと素振りをしながら歩く。
「4番、サード、日下部。背番号5」
ウグイス嬢のアナウンスが入る。足場を均し、バットの先をコンコンとベースの角を叩く。
広瀬が最高のピッチングを披露した。ここで4番が1発打てば、流れは一気にこちら側に来る。普段はチームバッティングを心がけているが、ここは4番のエゴを出してもいいだろう。磯島監督の許可もある。
初球は何で来るか。相手はカーブでカウントを稼ぐ。狙い球はカーブか、直球か。
悩むところではない。直球一本に絞る。しかしそれを悟られてはいけない。
2つめの直球だ。それまではカーブを待っている演技をする。その後にきた直球をレフトスタンドに叩き込む。
初球は直球だった。俺はバットを振らなかった。「ストライク」と審判の声が響く。次はおそらく変化球だ。あえて振る。
2球目は予想どおりカーブだった。しかしコースは外れている。いかにも振る気満々で動きを始動し、ギリギリのところで止める。ハーフスイングは取られず、1ボール1ストライクとなった。
3球目はスライダー。これは明らかなボール球だったので見逃す。
そろそろ来るだろう。初球、直球に全くタイミングが合っていなかった。そして、2、3球目はタイミングが完全に合ってボール2つ。ここは直球で追い込みたいと思うのが捕手の普通の考えだろう。
投手がボールを投げた瞬間、来たと思った。コースがどこであろうと、直球が来ると分かっていれば打てる。しかもここは東京ドーム。比較的フェンスまでの距離は近い。
渾身の力を込めてバットを振り抜く。捉えた。レフト後方に飛んでいく打球を見ながら、バットを放り投げ、ゆっくりと歩き出す。
落胆の声が球場を包む。俺はそれを全身に浴びながら、ゆっくりダイヤモンドを1周する。
「ナイスバッティング。ワタシモツヅクネ」
ホームベースを踏むと、出迎えたモーリスが敬礼した。俺もそれに応え、右手を顔の前に掲げる。モーリスがことあるごとに見せるパフォーマンスだ。
ベンチ前に向かう。磯島監督が笑顔で手を2度叩き、右手を差し出してきた。それをこちらも右手で触る。
ナインがベンチから身体を乗り出し、手を出してきた。点が入ったときの恒例、「パタパタ」だ。
そのパタパタの最後方に広瀬がいた。広瀬とタッチをすると、最もベンチ寄りのテレビカメラに向かって敬礼をした。これもファンサービス。ホームランを打ったときに各打者が思い思いにパフォーマンスをしているのだが、俺はモーリスを踏襲している。といいつつも、モーリスの敬礼がチーム内やファンの間でも大流行しているので、さほど手抜きにも思われない。
「ほんと頼もしい4番だな」
ベンチに入りヘルメットを取ると、広瀬に頭を軽く叩かれた。その顔には白い歯が見える。
「お前があんだけいいピッチングしたら、打たない訳にはいかないだろ。勝たせてやらないとな」
「その気遣いに感謝いたします」
その時乾いた打球音が響き、俺と広瀬は慌ててグラウンドを見た。モーリスが初球をレフトスタンドに運び、ぴょんぴょん万歳しながら走っていた。
「ほんと敵にはしたくない、オリオンズ打線だな」
「おう、俺らは味方同士だぜ。存分に頼ってくれ」
俺は広瀬に向かってサムズアップをした。




