第2章3 【20行の男】
「お前バカだろ」
マウンド上で南雲さんがミットを口元に当てながら笑った。6回裏2アウトを取ったところで、南雲さんがタイムをかけて寄ってきた。特に打ち合わせをする場面でもなく、何を言われるのか分からなかったが、抽象的なことを言われさらに困惑した。
「ここまでやれなんて言ってねえよ」
「南雲さんのリードに従って投げた結果ですよ」
「まあ半分は俺のおかげではあるけどな。1人もランナー出すなとは命令してないぞ。しかも三振は今ので11個目だぞ」
初回の先頭打者を三振に取って自信を完全に取り戻した俺は、その後も強気で投げ続けた。その結果面白いようにアウトが取れた。被安打、四死球は共に0。まさに完ぺきの投球だ。
「この回でお前の出番が終わりだよな。最後の打者全部ストレートで攻めるぞ。4点リードだし、1本打たれても何も問題ないだろ。目先の結果より、その先だ。広瀬の真っ直ぐが復活したと知らしめるぞ」
そう言うと南雲さんはホームへと戻っていった。
こんなもんなのだろうか、と自問自答する。こんなにも簡単に昔の投球が戻るのだろうか。フォームを変えただけで?長いことプロの世界で揉まれていたことで、何か他に成長していた部分があったのだろうか。
両つまさきでプレートを踏み、南雲さんに正対してサインを見る。両手を胸の高さまで持ってくる。右腕先ほどの宣言通り直球のサインだった。
俺は頷き左足を一歩下げた。それと同時に両手を頭上に掲げる。ワインドアップ。最近はプロでも振りかぶる投手は少なくなった。野球に詳しくない人が投手の真似をするときはよくこのポーズを取るが、無駄な力が入ると敬遠されるようになってきた。実際俺もプロに入ってからはプレートを右足で踏み、そのまま左足を上げて投げるという、セットポジションと呼ばれるスタイルだった。
元々今日は最長でも6回の予定だった。泣いても笑っても最後の回。そしてあとアウトは1つ。南雲さんの言う通り、ここは少しエゴを出してもいいだろう。ならば思い切りやるだけだ。
投げた瞬間一瞬ドキッとした。ボールが真ん中にいってしまったが、球威があった分、空振りが取れた。
「それでいいぞ」と南雲さんがボールを返してきた。
2球目も直球のサイン。南雲さんは真ん中に構えた。
打者をなめているとしか思えないリード。それも南雲さんの策略だろう。広瀬の強気が戻ったとアピールするための戦略だろう。長年第一線で捕手を務めてきたこともあり、良い意味で性格の悪い捕手だ。
さっきは不用意に真ん中に投げてしまったが、次は意識して投げる。打者も意表を突かれたのか、バットをピクッと動かしただけで、見送った。甘いコースを振らなかったと苦笑いを浮かべていた。
ならもう1回チャンスをあげてやるよ、と南雲さんは考える気がした。打者も3回連続でど真ん中にボールが来るとは思わないだろう。
案の定、直球のサインを出した南雲さんは真ん中に構えた。本当に意地悪いなと笑いそうになったがここは堪える。表情で打者に悟られてしまっては元も子もない。南雲さんと直接対戦したことはなかったが、敵にはしたくない選手だ。味方にいて心強い。
2アウト2ストライクまで来た。かなり余裕のある状況だ。球速にもこだわって投げてみたくなった。幸いここまでの疲れはあまりない。
かと言って力むのはよくない。リリースの瞬間だけ100%の力を出すように心がける。
今日の集大成だ。終わりよければすべてよし。力の限り腕を振る。
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「今日の新聞見たか?」
南雲さんがスポーツ新聞を広げていた。練習のため、2軍の球場の更衣室に入ると南雲さんが下はユニホーム、上半身裸の状態で椅子に座っていた。
「いや、まだ読んでないですけど、どうかしたんですか?」
「2軍の試合で原稿があるのは珍しいぞ」
南雲さんがスポーツ新聞の面を指した。パッと目に入ったのは、大きく掲載された日下部のホームラン写真だが、南雲さんの目を引いたのはその面の下隅だった。
「昨日のお前の原稿載ってるぞ。しかも全紙。2軍って普通は成績表しか載ってないのに。やっぱお前って注目されつづけてんだろうな」
「でも隅に小さく扱われてるだけじゃないですか」
よく新聞を読まないような位置に「広瀬6回完全」と小さな見出しと十数行程度の原稿が掲載されていた。
「数えたんだけどこの新聞だと21行だ。他もそれくらい。まあこれからどんどん大きくなればいいじゃないか。1面で広瀬と日下部がお立ち台に経ってる写真がデカデカと載るのもそう遠くないと思うぜ」
「その試合で南雲さんの原稿はどんな風なんですか?」
「仙台南雲引退表明って今日のお前ぐらいの大きさだな」
「そんなこと言えるぐらいなら、引退はまだ先ですね」
南雲さんは声をあげて笑った。




