【甲子園に魔物現る】
「甲子園に魔物がいる」とよく言われるが、今年の夏に関して言えば、その魔物は俺だ。
バッターボックスの黒い土が沼となり、相手打者を沈める。一見、堂々と打席に立っているが、心の奥では「こんなの打てるわけない」と思っているのが、足の震えから感じる。
そんな打者だって、高校3年間のすべてを野球に捧げ、血のにじむような練習をしてきて、甲子園の決勝までたどり着いた。あと1つ勝てば全国優勝というところで立ちはだかったのは俺だ。
申し訳ないが、優勝はいただく。9回裏二死、ツーストライク。あと1つストライクを取れば、試合が終わる。文字通り相手を追い込んだ。
「ここまでよくやったよ」
俺は心底そう思う。相手は東北の公立校。予選から私立の強豪を倒し続けたらしい。その勢いそのままにあれよあれよと甲子園でも勝ち続けた。みちのく旋風と騒がれ、全国の注目の的だった。東北勢初の全国制覇なるかと大いに期待されての決勝戦だが、俺に敵うわけがない。
俺はマウンドの上で構えた。360度、5万人の大観衆からの視線が伝わる。テレビを見ている人たちを含めると、今、日本でどれくらいの人が俺の姿を見ているのだろう。
投手がボールを投げないと野球は始まらない。まさに日本中が注目している試合を支配しているのは俺だ。こんな最高な気分がもうすぐ終わってしまうのがもったいない。
俺は打者をにらんだ。
早く投げてこい、と言わんばかりの目をしている。空元気もいいところだ。だが、俺はあえて間を空け、じらす。ゆっくり深呼吸を3回した。夏の暑い日差しも、土の薫りも心地よい。日本中の高校球児が目指し、憧れる場所。全国の予選を勝ち抜いてやっと立てる場所。まさに聖地だ。
甲子園に来たのは初めてではない。むしろ2年の春から4回連続でここに来ている。この心地よさを何度も味わっているが、これが高校最後となると名残惜しい。
まあいいか、プロになればいくらでもまたここで投げられる。
三塁側のアルプススタンドでは、逆転を信じて、生徒やOBたちが一生懸命応援している。たしかに、スコアは1―0。打席に立つのは4番打者。1発出れば同点だ。
ブラスバンドの演奏に合わせ、「お前が打たなきゃ誰が打つ」と精一杯の声を出している。
「誰も打てねえよ」
俺はマウンドでつぶやく。この試合打たれたヒットは3本。どれも中途半端に振って当たった小フライが内野と外野の落ちたり、詰まった打球がたまたま内野の間を抜けただけだった。
ヒットらしいヒットは打たれていない。そして、この打者はこれまで3打席3三振だ。
「ねーらーいーうーちー」
ブラスバンドの演奏を口ずさみながら、捕手を見る。サインは直球だった。俺が1番自信を持っているボールだ。それをど真ん中にぶち込んで、日本一の投手になる。
「そろそろ終わりにするか」
俺は両手を頭上に掲げた。審判の腰がぐっと沈んだ。捕手もミットをど真ん中に構え、打者の目は鋭くなった。
さあ、高校最後の球だ。
左足を上げ、身体を沈み混ませ、左足を前に踏み出した。それまでざわざわとしていた球場が無音になった。右腕をムチのようにしならせ、捕手めがけて思いっきり振った。
「勝った」
投げた瞬間そう思った。投球動作の何もかもが完ぺきだった。体重がしっかりと乗り、ボールに最高の回転をかけられた。
相手打者のバットは空を切り、ミットに吸いこまれていった。
地鳴りのような大歓声が鳴り響き、俺は両手を天に突き刺した。日光が刺し、マウンドの俺にスポットライトを当てている感じがした。
仲間たちが笑顔で俺の元に駆け寄ってくる。打者はその場でうずくまり、涙を流している。捕手が俺を持ち上げた。俺は右手の人差し指を立て、掲げた。
ふとバックネット裏上方のスコアボードが見えた。球速158㌔と表示されていた。最高の舞台で自己最速の直球。自分が怖い。