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春を待つ人  作者: 楠木千歳
冬、送る人
25/26

約束の君

 この街に雪が降るのは、年に一度か二度くらいのものだ。

 それ以外は体温を奪う冷たい雨。時々氷のように痛いものも落ちてくる。


 コートの上に丸く溜まる水滴を眺めて、秋仁は慌てて傘を手荷物の方へ傾けた。

 緩やかな坂を下り始めると、通いなれた店構えが見えてくる。




 クリーム色に近い薄茶の壁。今日は黒い洒落た作りの傘立ての出番だ。先客たちの傘の中に自分のものを押し込む。曲がった木の枝のような味わい深い取っ手のガラス扉を開けると、冷えた手足と頬が一気に弛緩した。


「いらっしゃいませ」


 奥から顔を出したマスターの一声で、静かに店員たちが唱和する。入り口から一番遠いカウンター席が空いていたのでそこへ座ると、メニューを持って「彼女」がやってきた。


「お久しぶりです」


 ぺこり、と頭を下げる彼女。


 挨拶以外はお互いに他の客の前で馴れ馴れしく話すことはしない。秋仁が他に話したいことのある時はこうやって閉店間際を狙う。


「いつものでよろしいでしょうか」

「はい。お願いします」



 自然な微笑みを湛えて彼女がカウンターに戻っていった。初めて会った夏の頃は、こんなに柔らかく笑えることなど本人でさえ知らなかっただろう。



 

 秋仁は持っていた紙袋をそっと荷物下げにかけて息をゆっくりと吐き出した。

 冷えた手がじんじんと熱を持って疼き始めた。

 


 出会った頃を思い出す。

 あの時はまだ手つきもおぼつかなくてわたわたしていて、だけどその目はいつも真剣で。真面目で眉一つ動かさない癖にけっこう表情が揺れたりするので、「マンガのキャラクターに出来そうだな」と安直に思ったのを覚えている。

 

 観察対象としてはとても興味深い人だと思っていたが、彼女を見ているうちにだんだんその気持ちは大きくなった。そして一向に笑わない彼女が笑う時とは一体どんな時なのだろう、という疑問がむくむく湧き上がってきて、焼けるような焦燥感を味わった。

 

 勇気を持って話しかけてみてますます彼女に惹かれ、そして半ば強引に誘った喫茶店でこっそり横顔を盗み見ていたら。


 くすり、と一瞬、彼女が笑った。



 あのとき――落ちた。完全に負けた。



 想像で描いた絵よりも、何倍も可愛い彼女がそこにいた。独り占めしたいと本気で考えた。一度や二度の話ではない。


 そんな気持ちを胸に秘めながら友達ヅラをしたままで絶対に最後まで想いは告げないと決めているのだから、自分の頑固さも大概だ。

 甘えてしまいそうで怖かった。

 万が一夢を諦めてしまった時、言い訳に彼女を使ってしまいそうで怖かった。それだけは絶対にしたくない。



 



 程なくして現れた彼女がアールグレイを持ってやってくる。「ごゆっくりどうぞ」とお決まりのセリフで置かれたソーサーに、小さな紙切れと包みを発見した。


“おつかれさま”


 桃花のものだろう、四角張った丁寧な字体でそう書いてあり、おそらくハルコの誰かの私物であるお茶菓子の飴が一つ。


 こちらを伺っていた彼女と目が合った。小さく頭を下げると、桃花もまたふんわり笑って背中を向ける。紙切れをポケットに大事にしまってから、秋仁はアールグレイを一口飲んで目をつぶった。




 





# # #








「締切!」



 突然がばっと秋仁が体を起こしたので、今まさにコートを着せかけようかというところだった桃花は慌てて手を引っ込めた。



「あ、れ、今何時ですか、……」

「まだまだ九時前だし締切はもう終わったんじゃないの? おはようアキくん」


 寝ぼけた目が焦点を結ぶ。くつくつと笑う将弥ほかハルコの面々と目が合うと、瞬間湯沸かし器の如く秋仁の顔が瞬時に火照った。


 そう、彼は束の間寝てしまっていたのである。

 最後の客を見送って閉店の看板を出したのだが、意外とよく眠っていて気づかなかった彼を起こすのも可哀想だという話になって晩御飯の支度ができるまでそのままにしておいたのだ。ちなみに今日の夕飯は昨日のミネストローネの残りを使ったリゾットだ。

 


「夢でも締切に追われるようになったら立派な漫画家のはしくれだよ君、おめでとう」

「恥ずかしい……ドリルで穴掘って地球の裏側まで突き抜けたいレベルです……」

「敦くんたちに迷惑ですからそれはやめてあげてください」


 大真面目な顔でマスターが言う。あの日以来彼は些細な日常会話にしょっちゅう割り込むようになった。彼はあの食事の後、「ありがとう」の一言以上は何も言ってはこなかったが、何か心境の変化があったのかもしれない。だとすれば桃花としては嬉しい限りである。


「疲れているだろうと思ってそっとしておこうと言っていたんです。ごはん、食べられますか?」

「俺も一緒に、いいんですか?」

「もちろん」 

「いただきます」


 鍋に残っていたトマトリゾットをよそって持ってくる。今食べ始めたところだ、まだ温めなおさなくても大丈夫だろう。


「うわあ、美味しそう」

「私は何も。昨日将弥さんが作ったミネストローネの残りを使いましたから、美味しいのは保証しますが」


 実際桃花がしたことといえばご飯とチーズを足して味を整えたくらいだ。

 将弥が褒めても何も出ないよ? と言いながら秋仁に勧める。


「え、じゃあこれ、ももさんが作ったんですか?」

「作るという程でも。ただのリメイクです」

「仕上げたのはモモちゃんなんだからもっと自信持てばいいのに。美味しいよ?」


 将弥に秋仁も頷いた。褒められているのだし、一応素直に受け取っておこう。


「ありがとうございます」


 暖かい談話の時間は続いた。






「それで? 今日は何のご用事?」


 そろそろ食べ終わるという頃、将弥が冷やかし口調で尋ねた。


「用事がないと来ちゃいけませんか」

「悪かないけど、閉店狙って来てるあたり確信犯かなあと」

「……将弥さんのそういう鋭いとこ、ほんと嫌いです」


 秋仁がため息をついた。



「来年になってすぐ、親戚のうちに行くので。新幹線で片道二時間半とはいえこちらには滅多に帰ってこられなくなりますし、三月の卒業式の後は多分無理だし……親戚には『この道選んだからには一人前になるまで帰れると思うなよ』っておどされてるしで。だから、ご挨拶をと思って」

「え、じゃあ今日が最後?!」


 瑠衣が大声を上げる。桃花も思わず固まった。


「やだなんでそういう大事なこと言ってくれないのよ、誕生日会の時みたいに盛大に出陣祝いしたのに」

「出陣ってなんですか大げさな」




 バタバタと電話をかける。相手は十中八九ひかるだろう。




「あの……これは、良かったら、皆さんで。色々とお世話になりまして、ありがとうございました」 



 マスターへ差し出された紙袋はデパートに入っている有名な洋菓子屋のものだ。桃花もよく知っている。



「こんな……気を遣わせてしまって、かえって申し訳ありませんね」


 マスターが眉を下げて困った顔をしていた。



「とんでもないです。ハルコの皆さんには、本当によくしていただいたから。両親からもくれぐれもよろしくと」

「お気持ち、ありがたく頂きます。それにしても、急ですね」

「前々から決まっていたのですが、なかなか言い出すタイミングが掴めなくて。盛大にお見送りとかされたら、行きたくなくなっちゃいそうですし」


 秋仁は無理に笑って頭をかく。桃花はそれをただぼんやりと見つめていた。




「アキくん!! そんな急に言うなんて、ひどいよ?? なんにも準備してないじゃん!!」


 扉が壊れんばかりの勢いで入ってきたのは案の定ひかるだった。後ろに難しい顔をした敦もいる。思っていることは同じだろう。

 どうどう、と将弥が宥めている。だがひかるは興奮が収まらない。


 秋仁がそれを見ながら苦笑して……すっ、と、立ち上がった。



「皆さん、本当にお世話になりました」


 迷いのない、決意の眼差しだった。


「夢を追いかけていて、こんなに楽しいと感じた時間は他にありませんでした。皆さんに出会って半年ほどしか経っていないけど、まるで何年も一緒だった幼なじみみたいに居心地が良くて、それぞれとお話する時間は何より充実していました」


 ついに桃花は秋仁を直視出来なくなった。わざと顔を背ける。今目を見たら、確実に泣く。




「褒めてくれたことも、応援してくれたことも、認めてくれたことも……それから、バカにされたこともいじられたことも俺は一生忘れません。背は絶対伸ばしてみせます」


 

 将弥がぶっ、と吹き出した。つられてようやく皆が笑顔になる。ああ、やっぱり彼は空気を柔らかくする天才だ、と桃花は頭の片隅で思った。初めて本屋で会って、カフェでお茶をした日の事が脳裏を過ぎった。



「榛名先生、サインください!」

「え、ひかる狡い。あたしにもちょうだいよアキくん。泊がついた頃に売るから」

「売るの前提ですか……ていうかまだ無いんでそれは無理です」

「じゃあヒット作を産んだ暁にはうちと下にサイン第一号を届けに来てよ」

「そんな有名になれますかね……」

「……弱気で、どうする」

『あっちゃんにだけは言われたくないよね』


 将弥があっちゃんを「弱気の権化のくせに」などとからかい始め、ハルコは蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。



 桃花はそれを黙って瞳に焼き付けていた。







「じゃあ……絶対有名になって、もう一度、皆さんに会いに来ます」


 言い直した秋仁に拍手が降る。



 マスターもその言葉に頷きかけて……突然、ゆっくりと首を横に振った。



「いいんですよ」


「……え?」


「有名になっても、ならなくても。会いたくなったら、会いに来ればいいのです。お客様の家になる。それが『ハルコ』の務めです」


 マスターの言葉はどこか吹っ切れたように真っ直ぐで、しなやかな強さを持っていた。


「義務ではなく、ようやく私もそう思えるようになりました。ですから、いつでも遊びに来なさい」


 将弥と瑠衣が顔を見合わせて微笑んだ。それを見て、桃花の心のつかえが一つだけ消えた。



 秋仁はその言葉にしっかりと頷いて、「そうします」と声にした。









# # #








 冬の星空は高い。


 街灯であまり見えないが、オリオンくらいは見つけられる。北斗七星の方が見つけにくいと思っているのは、自分だけだろうか。

 上を見るまもなく桃花は俯いた。コートのポケットに手を突っ込んでマフラーに顔を埋めれば、桃花の通常スタイルの完成である。 





 行く日がダメならせめて今日くらいは見送りさせろとうるさい彼らは、結局秋仁を折れさせてぞろぞろと連れ立ち駅へ移動していた。

 流石にマスターはいないものの、もちろん桃花も例外ではない。だが彼女は今日夕飯時に彼と話してから一言も発していなかった。

 

 話したくない訳ではない。

 話す言葉が見つからなかったのだ。



 そんな桃花を気遣って、先輩方はあえて前を歩いて二人きりにしてくれている。



「……ももさん」



 道のりを半分ほど来たところで、ついにしびれを切らした秋仁が桃花を呼んだ。


「その、お願いだから今生の別れみたいな悲壮感漂う顔しないでください」

「……なってます?」

「なってる」


 即答される。ほっぺたを触って確認してみたが……異常はない。


「別に、普通ですよ」

「そんなの鏡見ないと分かるわけないじゃないですか」


 秋仁が腹を抱えて笑い出す。一体何度こうやって彼に笑われたことか。少々面白くない気持ちになっていると桃花の表情を読む達人になった彼が「すみません、でもやっぱりももさん面白くて」と謝った。謝ってはいるが目尻に涙を浮かべているため反省の色がこれっぽっちも伺えない。


「あー、おかしい。笑った笑った」

「私は何も面白くないです」

「そんな事言わずに、ももさんも笑いましょ、ほら」


 秋仁が変顔をしてみせる。なかなか笑わない桃花に対してしつこく顔を変える彼が可愛くて、ついに桃花もくすりと笑ってしまった。



「うん、その顔。その顔が好きです」


 秋仁が柔らかく笑った。

 沈んでいた心臓が跳ねあがった。


「ももさん自覚無いかもしれませんけど、それ、すっごい武器ですからね?」

「……武器? なんの?」

「分からなくていいです。ホントは笑わないで欲しいくらいですけど」


 笑えと言ったり笑うなと言ったり、どっちかにしてくれないと分からない。困った顔になったのをまた読まれたか、「嘘です。笑ってて下さい」と秋仁が言った。



 駅が近づく。改札が迫る。それぞれが思い思いに彼に声をかけ、肩を叩き、頑張れと言っている。

 ひとりづつとの別れを終え、秋仁が桃花の前に立った。


 何か、なにか言うことを探さないと。

 焦れば焦るほど口から空気と水分が抜けていく。心臓は忙しなくいっそ不規則なのではないかと疑う速度で動いていた。足が震える。




 行かないで。


 違う。これじゃない。


 


 頑張って。


 あたりまえだ。



 またいつか。


 いつかって、いつだろう。




 その時、桃花の頭にふっと先程のハルコでの会話が浮かんだ。


 そうだ、あれにしよう。


「……サイン」


「へ?」


 秋仁がきょとん、とした顔になる。

 桃花はぎゅっと目をつぶって一気に吐き出した。

 

「私も夢、叶えるから。アキくんも夢、叶えてください。サイン第一号は、ハルコ宛てでも夏恋宛てでもなく、私に下さい」


 ふっ、と笑った気配がした。

 恐る恐る顔を上げる。


「分かりました。約束します」


 俺からもひとついいですか、と秋仁が言った。


「俺、ももさんがずっと笑顔でいられるようなマンガ描きますから」

「はい」

「だからももさんは、笑顔。絶対忘れないでください」

「……はい」



 どちらからともなく指切りの小指を差し出す。引っかかった指を離すと、とてつもない寂寥感に襲われた。


 




 どんなことがあっても、絶対にこの約束は忘れない。




 名残惜しそうに一瞬目を細めた彼は絡まっていた視線を解いて歩き出す。改札を通り抜け、一度だけ手を挙げる。


 その後ホームに吸い込まれて見えなくなるまで、秋仁は一度も振り返らなかった。








「さあ、帰ろうか」


 将弥がそう声をかけたのは何分後だったか。だいぶ経っていたような気もするし、すぐだったような気もする。


 時間の止まっていた彼らが動き出す。一番最後まで改札を見つめていた桃花も、「置いてくよ」と言われて慌てて背を向けた。




 さよなら。またいつか。絶対に、いつか。

 春が再び彼を連れてきてくれますように。

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