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春を待つ人  作者: 楠木千歳
冬、送る人
22/26

微笑みの君

 今日の夕飯も美味しかった。

 

 自分はけっこう煮込み料理が好きなのかもしれない。シチューはそうでもないと思っていたのに、ついお代わりをしてしまった。

 濃厚なホワイトソースがたまらない。瑠衣はちょくちょくこれを作るので、手伝っている桃花はそろそろ一人でも作れそうな気がしてきている。


 そんな瑠衣は今日は「見たい番組があるからお先にー」とさっさと上がってしまった。気まぐれでマスターが作ってくれたココアを飲みきれていない桃花は必然的においてけぼりを食らい、ちびちび一人で飲んでいる。将弥はあるようでないような用事がなんとか、彼にしては珍しく意味の通じない理由をごにょごにょ並べて晩御飯も食べずに閉店三十分前に帰ってしまっていた。洗い物は桃花の仕事なので別にいいのだが、マスターと二人きりはちょっと気まずいものがある。

 

 別に、彼のことが嫌いな訳では無い。ただ将弥や瑠衣とのようには行かない、それはもちろん年の差から来る当たり前のものだがそれでも居心地は悪かった。


「マスターと二人でお話するの、久しぶりのような気がします」

「そうですね。あの時以来ですか」


 マスターは今日もコーヒーを飲んでいる。あの時と状況は瓜二つだ。違うのは二人が赤の他人同士ではなくなったということくらいか。


「あの時は……いえ、今も。本当に、ありがとうございます」

「とんでもない。お礼はもう、言われすぎるほど言われていますよ」


 いつも通りの優しい笑顔に、桃花も落ち着いた気分になる。

 計れば大したことのない時間だろうが、それは何秒か何十分なのか、分からないような沈黙の時間が過ぎた。人のいないハルコは静かだ。オレンジ色のあたたかい灯りはまるで時を止める魔法。


「マスターは……どうして、ハルコをオープンしたんですか」


 普段聞けないことも今なら聞けるような気がして、ついに口からその疑問が滑り落ちた。

 ずっと不思議に思っていたことだった。デパートの支配人だったならわざわざ、老後別の仕事に手を出さなくても、と言う言い方は失礼かもしれないが十分に生活していけるはずである。

 

 そもそも、喫茶店自体が趣味だったのか。それならば納得出来る。だが引退後仕事にするほどの熱意ははっきり言って彼からは感じない。将弥や瑠衣の方が知識にしても利益にしてもメニューにしても貪欲である。



「そう、ですねえ、何故でしょう」


 マスターはカップの底をじっと見つめていた。



「強いて言うなら……贖罪、でしょうか」


 静かな部屋にその単語は痛々しく落っこちた。


 彼が罪を感じるとすれば、それはきっとただ一人。


「奥様、ですか」


 マスターは笑った。いつもの笑顔だった。


「聞きますか? 少し長くなるかもしれませんが……」

「構いません」


 どうせ明日も寒い。散歩はぬくぬくとお布団にくるまるタイムに当てればいい。


「もう一杯、淹れてきましょう。私がセレクトしても良いですか」

「はい」



 しばらくしてマスターが戻ってくる。その手にえもいわれぬ香りを漂わせる紅茶を二つ持って。


 フルーティーな香りとともに湯気に込められているのは華やかな……何の花の匂いだろう。




「……これは」

「妻が、好きだった紅茶です」


 海外のメーカーで今は取り寄せでしか手に入らないという。高級品なのだろうと思っていたら案の定「随分昔、まだ紅茶が広まる前の頃……博覧会で買ってきたものなのです」とマスターは言った。


「1970年の……?」

「よくご存知ですね。勉強されたのですか」

「一応、は」


 それまでは日本に紅茶という飲み物はほとんど存在しないに等しい代物だった。万国博覧会の時に普及の兆しを見せ始めたものの、まだまだ高級な贈答品の類。それをお土産にした。マスターもまだ三十代頃の話だから余程奮発しただろう。



 いただきますの声は互いに湯気の中へ消えた。喉の奥に一面花畑が咲く。それでいて癖はなく、味も渋みが少なめで柔らかい。




「私が彼女と出会って結婚したのは……」



 そんな中、彼は静かに話し始めた。

 ハルコの始まりの物語を。






# # #









 黒木雅也が結婚したのは彼が二十歳、妻の春子が十八の時のことだった。


 一般家庭の三男坊と、近所のお茶屋の娘。見合い結婚だったが、特に不満は無かったという。


 若い頃から起業の夢を抱いていた彼は、高度経済成長の最中で老舗店舗が群雄割拠するデパート市場に目をつけた。ただ高級なだけではない、安全かつ安心、国産品にこだわったデパートを苦心惨憺の後に立ち上げ、一代でそこそこ名の知れる一流商社に押し上げる。


 休みもろくに取らないで働き続ける彼を愚痴ひとつ言わず春子は支えた。だが若い頃は、口下手無口な性格も手伝って感謝のかの字も伝えたことが無かったらしい。





「意外です」

「そうですか? 今も昔も大して変わっていませんよ」


 確かに口数の多い方ではないが、少なくとも桃花の知るマスターは誰に対しても丁寧すぎるくらいお礼を言う。


「それは定年退職をして、この仕事になってから……いえ。妻の病気を、知ってからだと思います」

「そう、ですか」











 カフェを開きたい。


 それは長い夫婦生活の中で初めて春子が言ったわがままだった。



『この歳になってそんなこと、出来る訳がないと仰いますけれど……引退したからといってぼうっと過ごすばかりではあなた、あっという間にボケますよ』



 知らぬ間に開店のために必要な免許やらなにやら、果ては物件の下見までも春子がすべて終わらせていた。渋っても宥めても本当に小さな店でいいのだと言って引き下がらない。ついにその根気に負け、カフェをオープンすることになったのだが。その時点ではまだ、知らなかった。

 







 春子が末期の肝臓の病に侵されていることを。









「私が知ったのは、カフェがオープンしたその日でした。緩やかに死を待つしかないと妻から打ち明けられて……目の前が真っ暗になった」


 桃花は彼の表情を盗み見た。

 やはり彼は穏やかな顔をしていたが、それがかえって感情の抜け落ちた姿のように思えて、すぐに目をそらしてしまう。

 


「何十年と一緒にいて、一体私は彼女の何を見てきたのかと、思いましたね」













 春子にはどうしてもカフェを開きたい理由があった。


『結婚して十年目の日……あなたはもう、覚えていないでしょうけど』


 当時はまだ、紅茶が物珍しかった頃。

 お茶屋の娘でもこれは見たことがないだろう。そう思って、雅也は博覧会へ行った折に買って帰り彼女へプレゼントしたのだ。

 日頃何もしてやれない懺悔の気持ちも手伝って、一番高級なものを、と奮発した。



『それがね、嬉しくて嬉しくて。今でもその缶、取ってあるのよ』




 その思い出の紅茶で、どうしても人をもてなす仕事がしたくなったのだと彼女は言った。




『ねえ、あなた。残りの人生は全て、誰かを満たすことに使いたいの。あなたはもちろんのこと、満たされていない誰かを満たすことに』







 春子にとってはきっと、それがどうしても忘れられない思い出で。

 もしかすると、その気持ちを雅也と共有したかったという理由もあるかも知れない。




「楽しそうでした。しぶとく五年も生き延びて、最後は笑って逝きました」





 マスターは目を伏せた。





「元々、『ハルコ』は『きこり』といいました。黒木に因んだ名前がいいと妻が言って、そしたら息子が『黒木に響きが近いだろう』等と適当なことを言いましてね。なぜか妻はそれを気にいってしまって……きこりが切り株に座って体を休める程度の、小さな憩いの場になろうと。そう言いながら、私たちの第二の人生が始まりました」



 様々な人が癒された。

 瑠衣のように救われた人もいただろう。

 

 それでも、暖かい春の日差しのような日々は永遠には続かない。

 分かっていてもなお彼女は、そこに幸せを求めた。




「彼女が逝く前に……最後の約束をしました。あのカフェを、誰でも帰ってこられるような暖かい場所にすること。人が生きるために、生かされる場所にすることを」



 マスターの紅茶はあと一センチになり、逆に桃花の紅茶は半分も残っていた。熱い方が美味しいことはよく分かっているが、飲みながら彼の話など、とても聞けなかった。

 



「妻が居なくなってから抜け殻になりかけた私を見かねて、ついに将弥が店名を『ハルコ』にしようと言い出しましてね。最初は反対したんですが、ところがこれがなかなか……」




 彼女のぬくもりを、そこに感じたのだろう。

 ひだまりのような暖かい名前に。


  

 最後の一口を彼が呷った。カップだけは優しく置きながら、マスターはまるで自分に独り言を聞かせるかのように静かに言った。

 



「今でも、時々思います。何故、妻は……最後の最後まで、人を満たすことに、人を生かすことに拘り続けたのだろうと。彼女は、もしかしたら」



 ためらうように、マスターは一呼吸置いた。

 カップを握る手は小さく震えていた。




 

「私が彼女を満たして上げられなかったから。彼女はその穴埋めを、ここへ求めたのではないだろうかと」







 マスターが口を閉じて訪れた静寂が痛かった。


 焼け付くように痛かった。


 身動きが取れなかった。

 

 それはまるで、彼の心の叫びが二人を縛ってしまったかのようだった。



 いつも浮かべているあの微笑み。どうしても違和感を覚えていた理由が今分かった。


 あれは満ち足りた笑みなどではないのだ。むしろその逆、乾いて乾いて干からびて、砂漠のようになってしまった彼の心の成れの果て。


 一体どれほど自分を責めているだろう。


 許してくれる人はどこにもいない。自分が許せないから。



 そうやって、いくつもの年と歳を重ねてきた。



 違うと言ってあげたかった。敦の時のように、過去に囚われてはいけないと言ってあげたかった。



 でも、出来なかった。



 それが出来るのは、彼の記憶の中にしかいない『春子さん』その人だけなのだ。




 後のことはよく覚えていない。適当にお礼を言って、適当に片付けて、気がついたら自室の布団の上にいた。


 その日初めて桃花は誰かのために布団の中で泣いた。

 




# # #







「うっわー、目腫れてるよ? 大丈夫?」


 何かあった? と軽く聞きながら答えなくてもいいような逃げ道の空気を用意してくれるのが将弥である。忙しかろうと電子レンジで蒸しタオルを作って渡してくれる手間を彼は惜しまない。よく出来た人だ。


「その顔で出られないでしょ。どうする、今日午後からにする?」

「大丈夫です。出ます」


 マスターに気取られるのは出来れば避けたい。この顔で出たところで意味は無いかもしれないが。


 蒸しタオルを目に当てながらうう……と唸っていると、寝ぼけ眼の瑠衣が降りてきた。寝起きは悪いくせに、朝ごはんに遅刻したところは見たことがない。ハルコの七不思議のうちの一つかもしれない。

 ……他は聞いたことないけど。



「おはようございます」

「おは……何、朝から何泣かせてんの将弥」

「そうやって全部俺のせいにすんな」

「目が腫れてたから蒸しタオルもらっただけです、将弥さんは悪くないです」

「いいんだよモモちゃん、遠慮しなくて。あたしがとっちめてやるからね」

「いや嘘じゃないです……」



 ちょっと将弥が可哀想だった。



「じゃあ逆にどうしたのよ」

「私が悩む必要はどこにも無いんです……」


 そうだ。自分がこんなに凹む必要は無い。


「ただちょっと、ああ、これが罪悪感というものなのでしょうか」

「何ひとりで負のオーラしょってるの。順を追って話してくれないと分からないよー?」

「うわ、ひかるさん」


 振り返るといつ来たものかひかるがいた。ここのところ時々顔を出すようになった敦も手を上げる。


 

 ひかるの言葉はもっともである。


 別に言いづらい話ではない。全員既に知っている話だろう。そう思って簡単に昨日の夜の話をした。



「と、言うことで。何も言えなくなってしまって」



 一様に皆押し黙った。



「朝から、すみません。重い空気にしてしまって」

「モモちゃんは悪くないよ。そっか、じいさんが……」


 将弥は頷いた。きっと皆、昨日の桃花と同じ気持ちを抱えている。



「こればっかりはなあ……時間が解決するしか、無いよな」

「そう、ですよね」


 だがやりきれない気持ちも事実だった。




 その日は重い気持ちのままそれぞれが仕事へ向かった。



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