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春を待つ人  作者: 楠木千歳
第2章 夏、変わる人
11/26

カレーのお供は水

「んー、やっぱり瑠衣ちゃんのカレーは美味しいー!」


 ひかるが満足げにため息を漏らした。


 今日は「あっちゃん」が仕入れで帰りが遅くなるとの事で、一緒に夕飯を食べることになった彼女。いるのといないのとではまるで騒がしさが違う。賑やかな晩御飯もたまには悪くない、と思いながら桃花はカレーライスを運んだ。

 

 今日のメニューは瑠衣の作ったカレーである。実家のカレーとは違い、ハルコのものは色とりどりの野菜をふんだんに使う野菜カレーだ。独特の甘みが美味しく、密かにカレー好きな桃花としてはレシピを盗みたい美味しさだった。

 今度作り方を聞いてみよう、と思った。意外と喜んで教えてくれるかもしれない。



「で? なんかあったの?」



 さりげなく全員のサラダを取り分けながら、将弥が尋ねる。そういう細かい気遣いに関して彼は誰よりも女子力が高い。


「なんか、って……あ、新作案なら」


「そっちじゃなくて」


 箸のおしりがにゅっと伸びてきて眉間をつついた。


「いだっ」


「いつもに増して険しい顔してるよ」



 はっとして額を押さえる。心配そうにこちらを見る四つもの顔があった。


「険しいっていうより、落ち込んでるっていうか……ねえ? ひかる」


 瑠衣に振られたひかるも唸る。

 

「んー、言われてみればそうかも。生気がない、みたいな感じ?」


「生気がないって……死人ですか」


「だって本当そんな感じだもん。影が薄いっていうか存在感が希薄っていうか」


 随分な言い方である。少々不貞腐れてしまう。


 しかし、自分の顔はそんなにわかりやすく出来ているのか。そういえば先程も秋仁に同じようなことを言われた。そして彼といえば……


 一層顔が暗くなった桃花に一同は顔を見合わせた。


「無理にとは言わないけど、さ」



 ためらいがちな将弥の続きをマスターが引き取る。


「人生の先輩がこれだけそろっているのですから、何でも聞いたらいいのですよ。自分の質問がつまらないことだ等と思ってはいませんか?」


「そうだよ、遠慮は無しだよ。どんなにくだらない事でも笑ったりしないから言ってごらん」



 




 分からなければ聞けばいい。




 その基本スタンスを繰り返されて、桃花の中で何かがゆっくりと外れた。



 吐いてしまえ。

 見栄も意地も捨て去って。







「皆さんは」




 一言も聞き漏らすまいと、全員の手が静かに止まった。桃花は俯いたまま……カレーのくっついたスプーンを見つめたまま、その問を口にした。








「どうして、それぞれのお仕事につくと決めたのですか」







 場違いにぼちゃん、と何かがシンクに落ちる音がした。だが誰も気にしない。彼らの間にあるのは言葉と心だけ。






 

「どうして、ねえ……」

 

 将弥が腕組みをして質問を反芻する。即答は期待していなかった。せめて理由を言わないと。





「今日、偶然本屋で会った人と少し話をしていたら、流れで将来の話になって。その人はマンガが大好きで、絵もとても上手で、進学しないでマンガ家になるそうです。そういうのを聞いてしまうと……自分が、向き合うことから逃げ出したただの馬鹿みたいな気がして」




 グラスに注がれた水までもが静かにそれを聞いているようだった。





「好きなことがある人とか、それを仕事にした人というのは……どうやってそれを見つけたのかな、と。好きなことも興味のある事もない私は、どうしたらいいのだろうと」


 思ったよりも素直に言葉が出た。普段なら尋ねられても「別に」で済ませているところだが、皆がきちんと耳を傾けてくれていると思えば怖くない。そしてなにより、きっと彼らはそれぞれ異なった答えを持っている。



「んーと、誰から答える? これ」


 真面目な雰囲気を壊さないようにしつつも軽い口調で問いかけたのは将弥の優しさだろう。



「じゃあ、あたしから!」


 名乗りを上げたのはひかるだった。豪快にカレーを一口頬張ったのは将弥に合わせるためのわざとに違いない。


「あたしはねー、特に好きなこととかなかったんだよね。ファッションとかおしゃべりは好きだったけど、じゃあアパレル業界とか洋服屋さんの店員になりたいかって言われたらそこまでじゃなくー、みたいな、中途半端な感じだったかな」



 そういう意味ではちょっとモモちゃんに似てるかもねー、と言ったひかるは懐かしそうに目を細めた。

 


「その点あっちゃんはちっちゃい時からものづくりが好きで手先が器用でね。将来は自分のお店持つってずっとそれが夢だったみたいなんだけど……」


 そこで将弥が吹き出した。

 


「あいつ口下手どころの話じゃないからね」

「そうなの! とにかく人と筆談レベルでしか話せないシャイなのに接客とか出来るわけ無いじゃない? 何言ってるのって将くんと瑠衣ちゃんに笑われたんだよね」


 筆談レベルのシャイというのはなんだ?!


 かなり気になるが取り敢えずそっちは放置、後で聞くとして……桃花はもう一つの引っかかった方を瑠衣に尋ねる。

 

「将弥さんと瑠衣さんってあっちゃんさんの昔からのお知り合いなんですか……?」


 彼女は野菜カレーの人参を口に入れながら頷いた。


「あれ、言ってなかったっけ? 三人とも同じ高校なの」


 あっちゃんは生徒会の一年先輩だったのだそうだ。学校で知らぬ者はいないくらい、三人は仲良しの有名グループだったらしい。



「眩しすぎる青春ですね……」


 確かに二人は美男美女であるし、きっとひかるの姉なのだからシャイが過ぎるとしてもあっちゃんも美人だろう。だが彼らがそんな華やかな学生時代を送っていたとは想像もしなかった。

 しかも生徒会って。妄想のネタにされても文句は言えません。

 ごちそうさまです。

 


「あの頃仲良かった三人が未だに揃っているのって、不思議な縁だよね」

「将くんがここの一階に店出さないかってマスターを説得してくれたお陰ですよ」

「ひかるちゃんが販売員やってくれるって話が無かったら完全に立ち消えてたけどね」



「ちょ、ちょっと待ってください……? 将弥さんがマスターを説得って……」


 また頭が混乱してきた。その話が成立する仮定はなんだ。


「ここは、マスターの持ち家……?」

「そうそう、持ちビルというか?」


 知らなかった。


 よく考えれば当たり前の話である。瑠衣や桃花が住むことを勝手に決められる権限。それをマスターが持っていたのだから基本中の基本概念だ。


「モモちゃんがそこまで鈍いとは」

「だから説明してあげましょーって俺は最初に言ったのに」


 ごめんなさい。悪気はありませんでした。



 萎れた桃花を思いやってか元気を出せとばかりにサラダが追加される。勢いをつけてミニトマトを放り込む。果肉が口の中でパチリ、とはじけた。




「あたしがあっちゃんのお店の販売員やろう! って思ったのは本当に偶然でね。ちょうどあたしが就職活動する前だったの、あっちゃんがお店を出すのを本格的に検討し始めたのは。就活とかめんどくさいし、あっちゃんの夢を叶えてあげられるならそれでいいや、って感じで」




 堂々と「将来探しがめんどくさかった」と切って捨てるひかるに唖然とした。



「その、後悔は」

「ないよ、全然! そりゃもうこれっぽっちも!」


 両親には一言「大学までせっかく行かせたのに兄弟揃って結局好きなことやって」と呆れられたそうだが、反対はされなかったようだ。

 


「この仕事ってやってみたら楽しいこといっぱいあるし、色んな人と出会えるし。フツーの会社でOLとして働くよりあたしには全然合ってるのかもね」

「そうだね、君もあいつも会社の車輪になっちゃうと潰されるタイプだな」



 でしょー、と明るく言う彼女には返す言葉もなかった。



「あたしの場合は」


 話は瑠衣にバトンタッチされた。


「ホントは音大に行きたかった。ピアノが好きで好きでたまらなくて、ピアニストになるんだって思ってた時期もあった」




 瑠衣のピアノ好きは有名な話である。店内のBGMが彼女の演奏によるものだと知った時にはびっくりを通り越して愕然としてしまった。休日には時折リクエストにも答えてくれる。聞いた曲をコピーして弾くのもお手の物だ。


 


「けど、両親が亡くなって、マスターと奥様に拾ってもらって」



 改めて聞くと胸が潰れた。瑠衣は好んで両親の話をしようとはしない。桃花の中では避けてきた禁忌の話題。



「マスターは本気でやりたいことならお金は出すって言ってくれてたの。だけど……ここで働いているマスターと奥様を見てたら、『あ、自分の仕事はこれだ!』って直感的に思って……」

「瑠衣って大事な決定打を直感に委ねるよね」

「悪い?」

「いや。むしろいいと思うけど」


 将弥のツッコミには冷たく返しながら、瑠衣の話は続いた。


「上手く言えないけど。もしあたしがピアノの道を進んでたら、自己満足で終わってたかも、っていうのは今でも思うんだ」

「自己満足?」

「うん。我が出ちゃうっていうか、傲慢になっちゃうっていうか。だんだん我流になっちゃう、みたいなのが近いかなあ」


 それってどんなに凄い技巧で演奏できても趣味の延長でしかないと思うの。



 手元は適当にカレーを掻き混ぜていた。






「『働く』っていうのはさ、傍を楽にすること、だから。凄いって褒めてもらうために仕事するのと、あなたのお陰で元気が出ましたって言ってもらえる仕事をするなら、あたしは後者の仕事の方がしたい」


 ピアノでもそれは出来る人もいるだろうけど、やっぱりあたしは評価が欲しくなっちゃう人間だから。

 

 マスターと奥様を見てたらそう思った、と瑠衣は締めくくった。





「じゃー最後は俺か」


 瑠衣の視線を受け、将弥が引き継ぐ。


「モモちゃんが気づいてるかどうか怪しいので、一応言っておきまーす」

「はい……?」


「俺は黒木財閥の跡取り息子でしたー」





「は?!?!」



 さらりと告げられた事実に思わずスプーンを取り落とす。動揺を隠しきれなかった桃花に将弥は「やっぱりね」と呆れて肩を竦めていた。


「黒木財閥って、あの、『デパートKUROKI』の……?」


「ご名答。ていうか、ご実家が提携してるくらいは流石に知ってるか」



 知らないはずがない。


「流石に、それくらいは……」


 それなら、桃花がここへ来る時に父が即決したことも肯ける。黒木財閥の元社長と父は懇意だったと小耳に挟んだことがあった。つまりはマスターが元社長……それなら瑠衣を音大に行かせられるという資金の話にも納得できる。


「ま、そんなご立派なお家に生まれた俺だけど、絶対跡を継がないっていって散々反抗して逃げ回ってたのね」

「将弥らしい話でしょ」

「瑠衣は余計なこと言うな」





 形勢逆転、今度は将弥が跳ね除ける番である。



「実を言うと……俺には二つ年下の弟がいるんだけど、そいつがモモちゃんのお兄ちゃんみたいにめちゃくちゃデキのいいヤツでさ。嫌になっちゃってたっていうのもあって。それでいっつもここに来ちゃ料理やって、逃げてた」


「兄を、知っているんですか」

「よーく知ってますよ。一時期目の敵にしてたからね」


 お互いに、とおどけてウィンクした彼に空いた口が塞がらない。別に、隠していたつもりは無いけれど一言も自分の出自を言ったことがないのに、将弥には全部知られていたなんて……





 動揺する桃花をよそに話は進む。


「安心して。今はそこそこ仲いいから。それで、瑠衣もここで働くとか言い出すし、俺もそれでいいやって思ってじいちゃんに頼んだら」

「次の日目が開かないくらいに張り倒されていた、と。今思い出しても酷い顔だねあれは。思わず吹いちゃったもん」




 瑠衣の言葉にぎょっとして桃花はマスターの顔を見た。





「そんなこと、ありましたかねえ」

「とぼけんなジジイ」



 小声で悪態をつくも大きい声で言う勇気は無いらしい。相当な衝撃だったのだろう。



「でも、はっとはしたね。『仕事を逃げ場にするんじゃない。やるからにはプロになれ』って言われて、ギクってなった」




 それから一度家族会議をきちんとして、将弥は改めてマスターに頭を下げたらしい。





「色々、あるんですね……」


「仕事というのは本当に、人それぞれですよ」



 マスターが穏やかに言った。



「私も若い頃に起業しまして、その時のモットーといいますか、信念といいますか、それは『より良いもの、より本物に近いものをたくさんの家庭に届けたい』ということでしたね」



 老いを感じさせない、キラキラと眩しい瞳が桃花を捉える。




「一線を引退した後は、妻の希望でカフェを始めることにしたのですが……その時も頭にあったのは、やはり『より良い商品でより良い時間を過ごしていただきたい』というのがありました」



 桃花は吸い込まれるようにしてマスターの瞳を見つめ続けた。



「簡単に言うと、結局私の願いというのは、出来る限りたくさんの人に幸せを届けたいという、その一点に尽きるのですね」



 嫌なことがあった時も、嬉しいことがあった日にも。


 お気に入りがそばにあって、そこで満たされるということ。




「『人を生かす』という言葉は、おこがましいかも知れませんが『人を幸せにする』に通じるものがあると思います。幸せには人それぞれの形があるでしょうが、一時でも『満足だ』と思っていただけるような時間とサービスを提供出来たら、これ以上私にとっても幸せなことはありません」





 桃花は、強く頷いた。






「人が生きる意味は、人を生かすことにあるような気がします。人生とは、人が生き、生かされることの繰り返しで成り立っている」





 難しい話になってしまいましたね、と笑ったマスターの目は、今まで見てきたどんな表情よりも希望に溢れていた。



「要するに、向いてる向いてない、好き嫌い、じゃ言いきれないんだよなあ、仕事って」



 大事なのは、自分が持ってる限りある人生を何に使うのかということ。


 将弥が腕を頭の後ろで組んで独り言のように呟いた。

 ひかるが桃花の顔をのぞき込んで言う。

 



「ねえモモちゃん。あたしが偉そうに言えたことじゃないけどさ、だって興味無いんだもん、ってシャッター下ろす前に、一通り何でもチャレンジしてみない? もしかしたらさ、そこに運命の出会いが転がってるかも知れないよ?」


 はい拭きな、と瑠衣がティッシュ箱を差し出す。それを見て初めて自分が涙を流していることに気がついた。




「え、どうして、私、泣いて……」



 ぼろぼろと膝を濡らす雫。それは止まることを知らない。






「感情能面のモモちゃんが人前で泣いた! うわああたしそんないい事言っちゃったかなあ」


「どう考えてもマスターか俺でしょうよ、少なくともひかるじゃないよ」

「自分で言うなアホ将弥」






 やいやいと言い合う声を聞きながら、桃花は心の中で首を横にふった。


 違います。どれも大事な言葉だったけれど。


 全員の暖かい気持ちが、ここの奥の方に流れ込んできたからです。










 ハルコに来客を告げるベルが鳴った。



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