家出
今日も田中は非常階段で本を読んでいた。
今日はドストエフスキーの罪と罰だった。
私は隣に座る。
「ねえ、家出しない?一緒に」田中は突然言い出した。
家出?
「え?家出?」
「うん、2人でどっか行こうよ。僕たちのこと知ってる人なんて、1人もいないところに」田中は静かに、言った。
罪の匂いがした。甘い匂いだった。
怖いような、でも開けてみたいような……パンドラの箱。
「いいね、行こう」
私は疲れていた、生きることに。
どんなに生きたって、この人生には楽しいことなんてない。人生は、砂漠。どこまでも続く道を、飢えて死ぬまで歩き続ける。
私はある種の諦観のようなものを持って、今にも自分の手で消してしまいそうな命の火を細々と燃やしていた。
「どこに行く?」
「どこでもいいじゃん。気の向いた方に行けばいいよ」
そう、どこでもいいんだ。東京でも、南鳥島でも、キリマンジャロでも、あの世でも。
列車は田園風景の中を進み、北へと向かっていた。
いつも通りの時間に、学校に行くふりをして家を出て、東京に行って、神保町の書店街で本を買って、上野から常磐線に乗って、田舎、茨城へと向かった。
学校に行くふりをしてきたのだから、学校のカバンに詰め込める分しか荷物はない。
数枚のTシャツと黒いパーカーと下着とジーパンと、あとはお金と東京で買った文庫本とウォークマン。
本とビートルズのない生活は私にとって相当の苦痛だから、最後の二つは私にとってはけっこう重要。
問題は泊まるところだった。
平日に中学生2人(しかも男女)を泊めてくれるホテルなんてあるのかな。
もう日は傾いていた。
延々と続く田畑の果てに山が見え、もうすぐ夕日がその陰に隠れてしまいそうだった。
隣の席では田中が規則正しい寝息を立てている。
空いている列車の席を夕焼けが赤く染める。 足の脇に置いた鞄が揺れる。
車掌の声が、次の駅が近いことを告げた。
田中を揺り起こした。
「次の駅で降りよう」
その駅は比較的大きな駅だった。
列車を降りるとうどんの出汁のいい匂いがした。行儀の悪いサラリーマンが数人、立ち食いうどん屋でうどんを食べていた。
ぐうぅ、とお腹が鳴る。
「ねえ、うどん食べない?」田中が聞く。
「私が今、何を食べたいか知ってる?」
「なに?」
「ロンドンのテムズ川が見えるカフェの、ハチミツをつけたスコーンとセイロン紅茶のセット。おまけにそのカフェのBGMはビートルズのAll My Loving」
こんな話ができるのは田中だけだった。
地理や歴史の授業を苦痛としか思っていないクラスの大多数の人たちは、おそらくテムズ川という川さえ知らないだろうから。
「ずいぶん贅沢な望みだね。
残念だけどここから見える川は霞ヶ浦につながってる下水みたいな川だし、そこのうどん屋のBGMは芸術性のかけらもない県議会選挙の演説だよ。それが現実。悲しいけどね」
結局、私と田中はうどんを食べた。テレビから流れる、どうせ実現しない、実現させる気さえないマニフェストばかり掲げた、薄っぺらな演説を聞かされながら。
そう、これが現実。悲しいけれど。
現実はきたない。
虚構はきれい。
だから私は小説を読む。
それはつまり、現実逃避。
スコーンにはかなわないけれど、コシがあってなかなか美味しいうどんだった。
うどんは意外に安かった。370円。
財布の中にはまだ5桁の金額が残っている。
改札を出ると、タクシーが列をつくっている向こうの、3階建てのビルにビジネスホテルの看板が見えた。
「あそこにしようよ」田中が言った。
タクシーの排気ガスにむせながら、夕焼けの残滓のなかを、その看板に向かって私たちは歩き出した。