友人
桜が散り、若葉がそれに入れ替わった。
夏は刻一刻と近づいていた。一歩ずつ、でも確実に。
暑いのを我慢しながら、私はセーターを着続けていた。
私はリストカットをやめられなかった。
私は手首を切らなければ死んでしまう。
洗濯物を干すロープ、カッターナイフ、白い風邪薬の粒。それらが私を死へと誘った。
その誘いを断るためには、切ることが必要だった。
私は完全に中毒だった。病気だ。
つまらない国語の授業中、そんなことを考えていた。
昼食を食べながらでも本を開くほど、小説を読んでいれば、国語の授業で先生が話すことは、つまらないことばかりだった。
そもそも、何故、太宰治の生い立ちなんかを暗記しないといけない?
作品の背景に、その作家の人生があることはわかるけど、重要なのは作家の人生ではなく文章のはず。
別に、太宰治を否定するわけじゃないけど。
先生の声はお経のように響き、私の心を滅入らせる。
授業の終わりのチャイムが鳴った。
やっと国語から解放された。
次は音楽の授業だった。
少しばかり心が軽くなる。
早めに音楽室に向かうと、どうやら早すぎたようで、誰もいなかった。
グランドピアノが寂しげだった。
私は引き寄せられるように、ピアノの前の椅子に座った。
少なくとも、ピアノを弾いている間は、悩みを忘れられるような気がした。
父親にやめろと言われて、私の部屋からピアノが消えて以来、ピアノには触れていなかった。
ひやりとした鍵盤が懐かしい。
手が勝手に動き出す。
ビートルズのHey Judeを弾いた。
ピアノ教室で習った堅苦しい曲よりも、昔の洋楽好きの、今は亡き母親のCDラックにあったビートルズの曲を勝手にアレンジして弾くほうが好きだった。
左手が和音を刻み、右手がポール・マッカートニーのボーカルの音をなぞっていく。
ぜんぜん鈍っていない。それが意外だった。
自分の指で音を創り出す快感。久しぶりに味わう感覚だった。
私の頭の中では、ポール・マッカートニー
が歌っている。
伸びやかで、力強く、それでいて繊細な声だった。
ん?、頭の中?
なんか、とてもリアルな声なんだけど。
もしかして幻聴?
いや、誰かいるんだろう、後ろに。
私は振り向いた。
教科書を抱えて、驚いた、小柄な男子生徒がそこにいた。
端正な顔で、少女のような優しい眼差しの人だった。図書室で見たことがある気がするけど、名前は知らない。
そういえば、同じクラスだったっけ?
私と同じで、あまり目立たない生徒だった。
「ピアノ、上手いんだね」
「いや、そっちこそ歌、上手いね」
本当にその人の歌は上手かった。お世辞じゃなく。
たぶん声変わりがまだなのだろうけど、私より高い、澄んだ歌声だった。
「ありがとう、ビートルズは好き?」
「うん」私は反射的に答えた。好きじゃなかったら、学校のピアノでわざわざ弾くわけがない。
その人は静かに微笑んだ。
なんだか私と似通った雰囲気だった。微笑んでいるのだけれど、どこか悲しく、影がある。
漆黒の、どこか儚げな、瞳だった。
信じていいんだ、と思った。この笑顔を、
この眼差しを。
その日からだった。私と田中敬のふしぎな友人関係が始まったのは。