クリスマスの夜
その日はクリスマスイブだった。
私は英語の宿題をしていた。
「かなでーッ」
父親が呼んでいる。
はーい、という返事をして私はノートの上にシャーペンを置いた。
リビングに行くと、明らかにいら立っている父親がいた。
怒っている理由はわかっている。
「奏、この成績はなんだ?」医者である父親は問い詰めた。
「数学は、学年で上位50位くらいじゃないとまずいんじゃないか。数学ができないと、医学部は絶対無理だ。」
そう言って父親が指し示す私の順位は100位。
確かに、私の数学の成績は下がってきている。それは火を見るより明らかだった。
もちろん、自分が勉強しなかったのが悪いのだから、まったく反論できない。
怒られるのが嫌だったら、夜遅くまで小説を読むのをやめて、ちゃんと勉強すればいい。簡単なこと。
そう、父親はいつも正しい。
正しいけど間違ってる、気がする。
端的に言えば、私が間違っているのは明らか。
しかし、父親も間違っているんじゃないだろうか。私は医者になんてなりたくないし、医者になるために勉強するなんてもっと嫌だった。
私は父親が軽蔑する文系の歴史、特に世界史が好きだった。医者と歴史学者を比べて、医者の方が偉いという保証はない。(逆も同じだけれど)したがって文系だから蔑まれる。というのはおかしいことだと私は思っていた。
私はそれを父親に言ったことがなかった。
人に物を伝える、ということが苦手なのだった。たとえ、それがたった一人の家族であっても。
間違いを指摘できない自分が、悔しい。とても悔しい。
私はうつむいた。
父親の視線を感じる。それは岩のように重く、ナイフのように鋭利だった。
「そうか、だまっているのか……。それなら、奏……ピアノをやめなさい」
「えっ……」
父親は私に死ねと言った。
それと同じことだった。
なら、死んでやる。
私はうつむいたまま、自分の部屋に戻った。
涙が頬をつたっていく。
死んでやる、消えてやる。
これまで、そういう気持ちになったときはピアノを弾いていたのに、父親はそれさえ奪った。
私は、ベッドと机と、ピアノしかない地味な部屋のドアを思いっきり大きな音を出して閉め、鍵をかけて、勉強机の引き出しを開けた。
中に入っているのは黄色のカッターナイフ。
カチカチと音をさせて刃を出す。
それを頚動脈に持っていく。
冷酷な刃が首筋に触れる。
冷たい。死の冷たさだ、と思った。
さあ、手を動かせ。そうすれば……死ねる。
手が震えた。
死にたかった。
けれど…………
死ぬのは怖かった。
手からカッターナイフが滑り落ちた。
それは床に当たってカツンという硬い音を立て、私の心の弱さを証明した。
私は、数学を理解しようと努力できる我慢強さも、父親に言い返す勇気も、死ぬ度胸さえも持ち合わせてはいなかった。
この世に神というものが存在するなら、私はそれを呪った。
床に落ちたカッターナイフを拾い上げた。
その刃は、蛍光灯の光を受けて銀色に光っていた。
カッターナイフを白い左手首に押し当て、切り裂いた。
鋭い痛みともに、鮮やかな紅の血が流れる。
流れた血の分だけ心が軽くなった気がした。
私はその時点では、それが悪夢のはじまりであることを知らなかった。