終わり
今日も、椅子に腰掛けて本を読んでいた。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」
イヤホンから流れているのはモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク第1楽章」
赤い絹の表紙が心地よい手触りだった。
冷めた紅茶を飲んだ。冷めると紅茶は苦くなり、香りも姿を消す。
私は本を閉じて、紅茶のカップを持って立ち上がった。
部屋のドアを開け、キッチンへ向かった。
父親はもう帰ってきていて、スーパーで買ってきた惣菜などをテーブルに並べていた。
このごろ、父親の帰りが早くなっていた。
たぶん、私を死なせないためなのだろう。
夕食はごぼうのサラダと、唐揚げだった。
ご飯はない。どうせあっても食べない。
「おかえり」私は言った。
「ああ」父親はそう言って、ビニール袋から缶ビールを出した。
私は適当にキッチンの棚から箸を取って、ごぼうのサラダを食べた。不味かった。
唐揚げは、食べる気がしなかった。
食器棚から紅茶用の網を取って、紫色の茶葉の缶を開け、スプーンで二杯、網に入れた。
カップにポットでお湯を注ぐ。
やっぱり紅茶は値段が香りに比例する。
安物は、香りが薄い。
病院で飲むように言われた白い錠剤を紙の袋から出し、飲むふりをして流しに捨てた。
網をカップからはずし、流しに置いて、私はカップを持って自分の部屋に向かった。
いつまで続くんだろう、この生活。
このまま中学校に行かず、高校も行かず、私は完全に引きこもりになるのかな?
就職できないだろうな。
結婚は、そもそもしたくないし。
未来のことはわからない。
五里霧中。
わかるのは、私は本を読み続けるだろうということだけ。
赤い絹の装丁の「はてしない物語」を再び手に取った。
やっぱり、きれいな装丁の本っていい。
なんていうか、書物をよんでるって感じがする。ちょっと自惚れ。
ビスケットを齧る。ふんわりとした甘さが口に広がる。
バッハの小フーガト単調を聞きながら、太宰治の人間失格を読んでいるときだった。
私の部屋のドアが開いた。
父がいた。
イヤホンをはずす。
「病院の先生が来てるから、下に来なさい」
私は、あんただって医者じゃん、と思いながら、しおりを挟んで本を閉じ、下の、リビングへ向かった。
うちには客間というものがない。そもそも客が来ないからだった。
リビングのテーブルの椅子には、あの医師が座っていた。
私は椅子に座った。なんだか居心地が悪かった。父親がリビングの外に出る。
私は医師と向かい合った。
「薬はちゃんと飲んでる?」医師が聞いた。
「飲んでます」嘘を吐いた。
「どう?気分は?まだ……死にたい?」
「いえ」また、嘘を吐いた。
医師は少しうれしそうになった。
「そう。じゃあそろそろ学校に行ってみましょうか」
「いやですっ!」
これだけは嘘を吐けなかった。膝の上に置いた両手が震えていた。
「そう。行きたくないなら、無理して行くべきじゃないわね」
「今、何の本を読んでるの?」
「太宰治の、人間失格です」
「へぇ、どんな話?」
この人、人間失格を知らないんだ。
「大庭葉蔵って人が、心中したりして、最終的にモルヒネ中毒になる話です」
私は笑ってそう答えた。
その後、何度かその医師は来た。
私の治療は一向に進んでいないようだった。
私と医師が話した後、父親と医師がリビングで話し合っていることがよくあった。
夏は終わったようだった。
階段を歩いていると、ひぐらしの声が聞こえてくるようになった。悲しげな声の、一週間の命。
また江田という医師とどうでもいい話をした後だった。紅茶の種類とか、今読んでいる本とか。当たり障りの無い話を。
たぶんもう外は夜だった。
田中に借りていた車輪の下を、机に座って読み返していた。
足が寒いので毛布をかけていた。
ああ、われはいたく疲れたり。
ああ、われはいたく弱りたり。
さいふに一銭だになく、
懐中無銭なり。
この本の中に出てくる、ラテン語の詩だった。
もうこの本を返すこともないだろう。
紅茶のカップが空になったので、階段を下りて、キッチンに向かった。
リビングのドアを開けると、
私の知らないセカイがそこに広がっていた。
オトナのセカイ。醜いセカイ。
父親と江田という医師が抱き合っていた。
醜い光景。
キィンと耳鳴りがする。
吐き気がする。
頭が痛い。
階段を駆け上った。
二人が追いかけてくる足音が聞こえる。
自分の部屋でカッターナイフを取り出した。
頚動脈を、切った。
手首も、切った。
温かい私の血がどんどん流れ出ていく。
ドアを蹴破ろうとする音が聞こえる。
耳鳴りの音が小さくなってくる。
消えゆく意識の中で、死ぬんだ、と思った。
今度こそ、やっと、死ねるんだ。
田中から借りたままの、血で赤く染まった車輪の下の文庫本が最期に見えた。
最後まで読んで下さり、有り難うございました。
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