引きこもり
何日も、学校に行かずに1日3冊という恐ろしいペースで本を読んでいた私を父親は、車に乗せてつくば市内にある病院に連れて行った。
久しぶりに見る家の外の景色が妙に眩しかった。私が黙々と本を読んでいる間にも、私の家の外では今までと変わらない人々が生きている。
消毒液の匂いのする廊下を歩き、階段を上った。受付を済ませると、すぐに名前を呼ばれた。
診察室の前で、父親は、外の椅子で待っていると言い、私は一人で診察室のドアを開けた。
狭い部屋の四方の壁が本棚になっていて、医学書、辞書、絵本、源氏物語の現代語訳、芥川龍之介全集、マンガ、ファッション雑誌。
なんですか?このカオスな部屋は。
部屋の中央には大きめの机が置かれ、自殺未遂の時の医師が椅子に座っていた。
「おはよう」その医師は言った。おはようございます、と答えると、椅子を勧められた。
私が椅子に座ると、その医師は、
「本が好きなんだってね、どんな本が好き?」
馴れ馴れしく私に言った。
私は何も答えないでいた。
その医師は一方的に話し始めた。
「とりあえず、自己紹介。ええと、わたしは江田といいます。江戸の江に田んぼの田で江田。
わたしはあなたのお父さんと大学で同じサークルだったのよ。数学研究会。数学は面白いわよ、わたしは関数が好きで……」
数学研究会!吐き気がする。
その江田という医師は数学の面白さを語り始めた。まったく理解できない。
ビブン?セキブン?なにそれ?
「学校の授業はどう?わからない問題があったら、わたしのところに持っておいで。
これからよ、数学が面白くなっていくのは。
あ、ところで、奏ちゃんは部活は何やってるの?」
奏ちゃんって呼ぶなっ!
「科学部、ですけど」私は煮えたぎる怒りを抑えて、小さな声で言った。
「ほう、科学部!
解剖したり、顕微鏡使ったり、科学は楽しいよねえ」
ええ、そうですね。と適当に相槌を打っておいた。
科学部がどんな活動をしているのか、私は知らない。だって、幽霊部員なんだから。
「奏ちゃんは、彼氏とかいる?」
なんでこの人はこんなことを聞くのだろう。
そんなこと、ここにはまったく関係ないと思うんだけど。……腹が立つ。
「……いません」
私がそう答えると、江田という医師はカルテらしき紙に何か書き込んだ。
「友達とかは?」
「一人、いますけど」
そう、私はその友達と心中したんだ。
恋人じゃないよ。友達。
「できれば、名前を教えてもらえるかな?」
「田中、敬です」
また医師が紙にこのことを書き込んだ。
「部活動では?」
「部活、行ってません」
「じゃあ、家に帰って何をしてるの?」
「紅茶とかコーヒーとか飲みながら、本を読んだり、音楽を聴いたり、ですね」
手首を切ったり、とは言わないでおいた。
「じゃあ、そろそろ、お父さんを呼んで、奏ちゃんは外で待っていてくれるかな」
私は椅子から立ち上がった。
ドアを開け、父親を呼んだ。父親は窓の外の雲を見ていた。
病院の廊下は閑散としていた。
今は8月。たぶん。
正確な日付はわからない。
私はずっと家にひきこもっていた。
黒いパーカーを着て、カーテンを閉め切った、エアコンの聞いた部屋に閉じこもっていた。こうしているとなんだか魔女みたい。
いつか、教会の司教とかがやってきて、私を連れて行って、異端の罪で火あぶりにするのかもしれない。
私の暮らしは、魔女と呼ばれても反論できないような暮らしだった。
簡潔かつ自嘲的に言ってみれば、
引きこもり。
食欲がなかった。生理も止まっていた。
リストカットもしなかった。
傷跡の薄くなった手首は、青白く、細くなっていった。
漠然と、死にたくて、逃げたくて、
本を読んでいた。現実から逃げていた。
起きたら紅茶を入れて、本を読んで、ビスケットを齧って、本を読み終わってたら、部屋の隅にあるダンボールの中の買ったけれど未読の文庫本を漁る。父親が帰ってきたら、スーパーで買ってきた、味のしない夕食を少しだけ食べて、シャワーを浴びて、本を読んで、寝る。
その繰り返し。
学校もあれ以来行っていない。たぶん退学で、公立の中学に転校だと思う。
行きたくない。学校なんて。
どうせどこだって同じなんだから。
どうせどこだって私は死ぬのだから。
どうせこの世界の何処にもネバーランドなんてないのだから。