ネバーランド
そのホテルは少し古いけど、悪くないホテルだった。フロントで鍵を受け取ってそう思った。
すんなりチェックインできたことに驚きながら、重い荷物を持ち上げる。
絨毯がやわらかい、廊下を進む。
105…………あった。
鍵を開けて中に入る。田中もついてくる。
電気をつけると部屋は以外に広かった。
入ってすぐの右側にドア(たぶんバスルーム)があって、その奥にベッドが二つと机が並んでいた。
荷物を床に置いた。
「僕、シャワー先に浴びていい?」田中が聞いた。
「いいよ」そう言って私は荷物の中から文庫本とウォークマンを取り出し、ベッドに寝転んだ。
「そこの棚のなかに紅茶があるよ」私がバスルームから出ると、田中は言った。
机の脇の棚の引き出しを開けると、紅茶のカップと、赤い紙に包まれたティーパックがあった。
その赤い包み紙には滑らかな筆記体でDarjeeling teaとあった。
カップにティーバッグを入れ、備え付けのポットでお湯を注ぐと、純粋な紅茶のいい香りがした。
ペットボトルに入れられ、売られている紅茶は甘ったるく、嫌いだった。
紅茶のカップの中が段々と、夕日のような色に染まっていく。
寝巻の代わりのTシャツを着た私は、濡れた髪を真っ白なタオルで拭きながら、紅茶が冷めるのを待った。
ふと、哲学じみたことを考えた。
紅茶と読書とビートルズはとてもいい組み合わせ。紅茶と本といい音楽があれば、私はそれ以上なにも要らない。
机の上には数枚のビスケットと、田中が飲んでいる紅茶があった。田中はビスケットを齧りながら、サン・テグジュペリの星の王子さまを読んでいた。
私も椅子に座ってビスケットを手に取った。
バターと砂糖のほのかな甘いにおいがした。
紅茶を少し飲んでみる。
まだ熱い。
私は机に紅茶を置いて、ぼうっと、そこから上がる湯気を見ていた。
しばらく、田中がページをめくる乾いた音だけが聞こえていた。
紅茶のカップに口をつける。紅茶の控えめな香りと、かすかな苦味が口に広がる。
「ねえ、大人になるって、どういうこと?」
突然、田中が聞いた。田中が話し始めるタイミングはいつも唐突。
「嘘が上手くなるってことじゃないかな。
大人って、騙すの上手いじゃん。
自分を騙して、言い訳して。
都合の悪いものは見えないふりして。
虚勢を張って、意地を張って」
「大人、なりたくないなあ。ずっと中学生がいい。本を読んで、授業受けて、少し笑って、たくさん泣いて」田中は口元を歪ませて、
悲しく笑って、そう言った。
私もそう思う。
中学生は辛くて嫌だけど、中学生でいたい。
大人になんてなりたくない。
かなり矛盾してる、私たち。
上手く言葉にならないけど、言ってみれば、
そう、中学生は矛盾に満ちた混沌、醜くて美しいカオス。
「大人に、勝ちたい。その力がほしい」
ビスケットをかじりながら、私は言った。
クスッ、と田中は笑った。
「それが大人になる1番の近道かもね」
「え?」
「大人を超えたい、超えたいって思ってがんばっていて、気がついたら自分が大人になっていた。短編で、そんなオチの小説があったよ」
月日が流れて、
混沌は冷えて、固まって、
なにか一つのものになる。
大人になるとはそういうこと。
生きている限り、絶対に避けられないこと。
そうなんだ、よくわからないけど、きっと、そうなんだ。
「要するに、
この世界の何処にもネバーランドはないってことだよね」
紅茶のカップを傾ける。さっきより苦く感じるのは錯覚?
「ずいぶん難しい表現だけど。まあ、そういうことなんだろうね。」
それが現実、悲しいけれど。
紅茶が苦い、とても苦い。
この苦さは大人にはわからない。冷えて固まった大人にはわからない。わかった振りなどもされたくない。
不安で、心細くて、自信が持てなくて。
今、目に見える今しか信じられなくて、未来なんてどうでもよくて。何か、得体の知れない何かに怯えて、ふとした拍子に死にたくなって、全て捨ててしまいたくなって。愛という言葉の意味なんて知らなくて、家族なんて馬鹿馬鹿しくて。
そう、それが混沌、カオス。
カチ、カチ、と時計の秒針の音がする。
こうして紅茶を飲んでいる間にも、私の中の混沌は固まっていく。大人に近づいていく。
カチ、カチ……
あぁ、時は過ぎていく。容赦なく、残酷に。
時間が流れるということが信じられない。
いつまでも、このままのような気さえする。
いや、それは願望かな?
私も、歳を取るんだろうか。
田中も、歳を取るんだろうか。
大人になって、結婚して、子供を生んで、枯れて、死んでいくんだろうか。
嫌だ。
歳なんて取りたくない。
ずっと少女のままで、美しき混沌のままで、
いたい。それがいくら辛くとも、それがただの願望に過ぎなかったとしても。
気がついたら、紅茶のカップが空になっていた。
「ねえ」私は言った。
「コンビニ行かない?」
「何を買いに?」
「風邪薬」
「うん、行こう」