prologue
青春なんて馬鹿みたい。
血が床に滴り落ちる。
血はフローリングの床の、少し前までピアノがあったところに小さな赤い水たまりを作り、私はカッターナイフの刃をティッシュでふいて、手首の傷を止血した。
度重なるリストカットのおかげで、止血がとても上手くなっていた。
動脈を指で押さえ、心臓よりも高い位置に手首を持ってくる。
これだけは、私がリストカットをするおかげで父が喜ぶ点かもしれない。
医者である父は、私を医学部に進学させて、診療所を継がせたいらしかった。
父親は医者として有能なのはわかるけれど、完璧なまでの合理主義者で、小説というものを無駄だと言って、それを読んでいる私を馬鹿にするつまらない人だった。
幼いころは、私がピアノで新しい曲を弾けるようになる度に喜んでくれたけれど、小学5年生のときに私に中学受験を強制してからは変わってしまった。
幼く、父や先生の言うことをハイ、ハイとよく聞くいい子だった私は、医者になることを夢だと言い、父に言われるままに中学受験をし、つくば市にある私立の中高一貫校に入れられてしまったのだった。
私立と言っても、学習院とか慶応みたいな、大企業の社長令嬢みたいのがたくさんいる学校ではない。茨城の地方都市の、少しばかり生活に余裕のある人々の娘や息子が通う学校。
その学校に入ったのは失敗だった。
なんだかその学校には、嘘の空気がただよっているようだった。
先生の微笑も、クラスメイトの友情も、みんな嘘。
それらが、見かけだけの、軽薄な、心の伴わないものだと、なぜかそういったことに敏感な私には思えた。
「あたしたち、友達だよね」
友達だと確認しなければいけない友情なんて友情じゃない。
こういうの、人間不信っていうんだろうな。
昼休みの教室で聞こえるのは、下劣な話しかしない男子の下品な笑い声。ひたすら流行を追いかけている女子の甲高い笑い声。いずれも価値のない、ただのノイズ。
だから私は中学校に入って2年間、ずっと誰とも必要最小限の会話しかしなかった。
そのせいで通知表には、もっと人と話しましょう。と書かれる始末だった。
青春なんて馬鹿みたい。
青春なんて、人生に疲れてセンチメンタルになった大人の感傷でしかないんだ。
8年前に亡くなった母が始めさせてくれて、唯一の楽しみだったピアノを取り上げられて、勉強とリストカット、それだけの生活。そのどこが麗しき青春の日々なの?
そんな誰も答えてくれない問いを、心のなかで繰り返しながら、床にたまった血をふき取っていた。
貧血で頭がくらくらしていた。
貧血とわかっているのに切ってしまう自分が、馬鹿馬鹿しかった。
絶望して切って、切って絶望して、そしてまた切って。その終わりなきループの始まりを、私は詳しく覚えていない。いや、あまりにも嫌な記憶だったがために、忘れたのかもしれない。
たぶん去年の十二月ごろだったと思う。
その時から積み重ねた傷跡は、もう容易には消えない。
人に見られたくなかったから、冬の間は学校指定のセーターで隠していた。
しかし、夏は目と鼻の先まで来ていた。
年明けに次をアップします。