「匿名の通報者」
私は、あのアカウントを知っていた。
「stocking_night_0612」。
パンストの写真と、短い言葉。
孤独で、滑稽で、どこか切ない。
最初はただの暇つぶしだった。
仕事が終わって家に帰り、スマホを開く。タイムラインをスクロールしているうちに、そのアカウントにたどり着いた。
私はその投稿に「いいね」を押し続けた。
私は匿名が好きだ。誰かを応援できる。誰かを傷つけることもできる。そして、何より自分は傷つかない。
このアカウントへの「いいね」に、深い意味はない。ただの「見た」という痕跡。
関わる勇気など、欠片もなかった。
ある日、職場で小さな噂を耳にした。
非常階段で、誰かと誰かが密会しているらしい——
その「誰か」が、あのアカウントの主だと気づいた瞬間、私はぞっとした。
かねてより、自分と同じ会社の誰かではないかと思いを巡らせていた。
写真に時々映る風景。投稿の時間帯。仕事の愚痴の内容。だからといって、どうということはなかった。あの噂が流れるまでは。あの誰かが特定されるまでは。
私は怖くなった。
自分がそのアカウントを知っていることがバレたら。
自分の「いいね」が誰かに見つかったら。
でも、その恐怖と同じくらい、自分が何もしないでいることにも耐えられなかった。
だから、私は新しいメールアドレスを作った。
捨ててもいいアドレス。
そして、当事者と思われる女性に短いメッセージを送った。
『非常階段で見ました。噂のあの男性と女性が。』
それだけ。
名前も、証拠も、何も書かなかった。
送信した後、すぐに後悔した。
これは、誰かを傷つけることになるのではないか。でも、もう取り消せない。
正義感だと思うことにした。
……そう思わなければ、
あの送信ボタンは押せなかった。
その後、私はそのアカウントを見なくなった。
「いいね」を押すのもやめた。
フォローを外した。
アカウントを削除しようか迷ったが、結局できなかった。
「自分だけがいなくなっても、何も変わらないだろう」と思ったからだ。
数年後、あの小説が話題になった。
『彼女の計画』。
小説を手に取ることはなかった。
書店で平積みになっているのを見るたび、胸の奥がざわついた。
でも、私には読む勇気がなかった。
内容を少しだけ知ったとき、胸の奥が重くなった。
私が送った一通のメールが、物語のきっかけの一つになったのかもしれないと、薄々感じていたからだ。
私は今でも、あの時のことを思い出す。
匿名で送った一通のメールが、誰かの人生を、静かに、しかし確かに動かしたことを。
時を経た今では、善意ではなかったと言える。それが、自己満足だったのかすら、今でもわからない。
ただ、確かなことは一つだけだ。
私は、直接関わる勇気はなかった。
だから匿名になった。
名前を隠し、顔を隠し、責任を隠した。
それでも一通のメールは残った。
私の名前は残らなかった。
それが、私のしたことだった。
――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――
短編A-➁第1話「見ていただけの人」
https://ncode.syosetu.com/n9555mm/1/
短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」
https://ncode.syosetu.com/n9565mm/1/
短編A-➁第3話「匿名の通報者」
短編A-➁第4話「好意の裏返し」
https://ncode.syosetu.com/n9573mm/1/
短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」
https://ncode.syosetu.com/n9575mm/1/
短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」
https://ncode.syosetu.com/n9587mm/1/
また、「彼女の計画外伝」に同時投稿されます。




