錆びついた記憶と雷(いかずち)の味
幕間:黄金の魔女と紫の試練
1. 氷雨の拾得物
北陸エリア、金国。首都・金沢。普段ならば、この街には「黄金の雨」と呼ばれる冷たい雨が降り注いでいる。だが今夜は違った。鉛色の空から落ちてくるのは、肌を刺すような冷たい霙だった。
カラン、コロン。
濡れたアスファルトに、硬質な音が響く。番傘を差し、優雅に歩く一人の女性。金国の社長秘書兼、債権回収人―― 雲母 だ。彼女が纏うのは、加賀友禅の艶やかな柄が施された特注のボディスーツ。足元は、サイバーウェアと伝統工芸が融合した、ロングブーツ仕様のピンヒール高下駄。定時退社。彼女にとって、時間は金よりも重い。社長の銭屋がどれほど残業を頼もうとも、契約外の時間は彼女の自由だ。
「……ミャア……」
ふと、雨音に混じって頼りない声が聞こえた。雲母は足を止め、視線だけで周囲をスキャンする。路地裏の軒下。泥水が跳ねる道端で、一匹の子猫が濡れ鼠になって震えていた。まだ生まれて数ヶ月も経っていないだろう。薄汚れた毛玉のような姿だ。
雲母はゆっくりと子猫に近づき、その冷徹な瞳で見下ろした。値踏みするような視線。命の値段を査定するかのような冷たさ。だが、彼女は躊躇なくその場に跪いた。
「……ミャ……?」
雲母は泥だらけの子猫を、自身の胸へと抱き上げた。高級な加賀友禅のボディスーツに、黒い泥のシミが広がる。クリーニング代だけで一般市民の月給が飛ぶほどの衣服だ。しかし、雲母は気にする素振りも見せない。それどころか、真っ赤なルージュを引いた口元に、不敵な笑みを浮かべていた。
「……運がいいわね、チビ。拾ってあげるわ」
2. 恐怖の査定
雲母が高級マンションの自宅に入室すると、柔らかな照明が自動で点灯した。
『お帰りなさいませ、キララ様。本日、セキュリティ上の問題は何も発生しませんでした』
「ええ、ご苦労様」
雲母はAIの報告を聞き流し、泥だらけの子猫を抱いたままリビングルームへと向かった。ドアを開けた瞬間。
「ニャーン」「ナァー」「グルル……」
一斉に、十数匹の猫たちが雲母に近寄ってきた。ペルシャ、マンチカン、三毛、ロシアンブルー。多種多様な猫たちが、主人の帰宅を出迎える。この冷徹な秘書の自宅は、実は猫たちの楽園だったのだ。
雲母はそっと、拾ってきた子猫を床に下ろした。新入りは、見知らぬ場所と先輩猫たちに囲まれ、ガタガタと震えている。
雲母は腕組みをして、それを見下ろした。そして、仕事中と同じ、債務者を追い詰める時の不敵な笑みを浮かべて言った。
「それでは 『査定』 を行いましょう。……うちの猫としてふさわしいかどうか」
ゾワッ!!
その言葉を聞いた瞬間だった。今まで雲母に甘えようとしていた十数匹の猫たちが、一斉に逆毛を立てた。彼らは何かに怯えるように、あるいは爆発から逃れるように、蜘蛛の子を散らす勢いで部屋の隅やキャットタワーの最上段へと逃げていった。
「……まぁ。相変わらず現金な子たちね」
雲母はフンと鼻を鳴らすと、キッチンへと向かった。震える子猫だけが、広いリビングの真ん中に取り残される。
3. 紫の湯気と神の味覚
キッチンに立った雲母は、引き出しから一本のナイフを取り出した。照明にかざし、刃先を睨む。その目は真剣そのものだ。子猫は本能的な恐怖を感じ、その場にうずくまって小さくなった。
窓の外では、いつしか霙が白い雪へと変わっていた。リビングの壁一面を覆う大型モニターには、臨時ニュースが映し出されている。アンドロイドのキャスターが無機質な声で原稿を読み上げる。
『――南の独立国家「天国」に対し、大規模な攻撃が行われている模様です。都市を覆うドームが崩壊し、現地では観測史上初となる降雪が確認されています……』
「……へぇ。あの引きこもりの皇子様、本当にやっちゃったのね」
雲母はニュースを一瞥し、興味なさげに呟くと、手元の作業に戻った。数分後。彼女は、加賀蒔絵が施された、人間用の食器よりも遥かに高価な猫用の器を手に、リビングへと戻ってきた。
「さあ、お食べ」
雲母は子猫の目の前に器を置いた。特製・雲母流猫まんま。だが、その器からは、なぜか ドス黒い紫色の湯気 が立ち上っていた。魚介の香りというよりは、化学実験室のような刺激臭が漂っている。
リビングの隅に逃げていた先輩猫たちは、ある者は瞳を固く閉じ、ある者は前足で必死に鼻を塞いでいた。彼らは知っているのだ。あの紫の霧の恐ろしさを。
「ミャ……!」
しかし、何も知らない新入りは空腹の限界だった。子猫は紫色の湯気に一瞬たじろいだが、意を決して猫まんまに顔を突っ込み、食らいついた。
ガツッ、ムシャッ……。一口。二口。
次の瞬間。
「ギャアアァァァァァァァッ!!」
子猫が、断末魔のような奇声を上げた。その体はバネ仕掛けのように1メートルほど垂直に飛び上がり、空中で痙攣し、着地するやいなや後ずさりして壁に激突した。毛は逆立ち、瞳孔は開ききっている。その後、子猫は一切、その器には近づこうとしなかった。
「……ふっ」
雲母は腕組みをして、心底残念そうに首を振った。
「お前も、私の 『神の味覚』 が理解できないようだな。……無粋な猫め」
金国の人間は、しばしば味覚がおかしいと言われるが、彼女の場合は破壊的だった。彼女自身は「栄養満点のスーパーフード」を作っているつもりなのだが、その色彩と味は生物兵器に近い。
「やれやれ。……仕方ないわね」
雲母は諦めたようにため息をつくと、ウォークインクローゼットの扉を開けた。そこには、ブランドものの服ではなく、金色の缶詰が山のように積まれていた。『極上フォアグラ入り』『天然キャビア添え』『黒トリュフの香り』。一缶で数千円はくだらない、超高級猫缶のタワーだ。
雲母はその一つを手に取り、プルタブに指をかけた。
パカッ。
開封の音が響いた瞬間。部屋の隅で死んだふりをしていた猫たちの耳が、ピクッと反応した。次の瞬間、彼らは紫の悪夢を忘れたかのように、一斉に雲母の足元へと殺到した。先ほどまで悶絶していた子猫も、高級食材の香りに釣られてよろよろと近づいてくる。
「……まったく。お前たちは本当に、金のかかる悪い子たちね」
雲母は呆れたように言いながらも、その表情は慈愛に満ちていた。窓の外では、雪が激しくなり始めている。南の空が紅く染まり、世界が崩壊に向かおうとも、黄金の魔女の家では、今日も優雅で残酷な晩餐会が開かれていた。
(幕間:黄金の魔女と紫の試練 完)
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第15章 錆びついた記憶と雷の味
1. 野ざらしの産声
俺が「俺」という存在を意識した時、戦の後の野戦場にいた。見渡す限りの死体。地面が見えないほど重なり合った肉の絨毯。鼻をつく血と臓物の臭い。そして、それらとは対照的なほど澄み渡った、抜けるような青空。
(……ああ、もっと...もっと欲しい...)
俺は地面に突き刺さっていた。まだ言葉も、思考すらも曖昧だったが、根源的な飢えだけがあった。ふいに、小さな顔が俺の目の前に現れた。垢じみた着物を着た、痩せこけた少年だ。死体から鎧や銭を剥ぎ取る「追い剥ぎ」だった。少年は泥だらけの手で俺の柄を掴むと、力任せに引き抜き、高く空にかざした。
太陽が眩しい。その光を反射する俺の刃は、まだ鈍い輝きを放っていた。
「……た、助けてくれ……」
足元で声がした。戦で俺を手にしていた男だ。喉を槍で突かれ、虫の息だったが、まだ生きていた。こいつが俺の最初の所有者だったのか、あるいはただ拾って使っただけの雑兵だったのか、それは覚えていない。
「頼む……水を……」
男は少年に助けを求めた。少年はビクリと震え、恐怖に顔を歪めた。だが次の瞬間、少年の瞳に宿ったのは慈悲ではなく、生存本能という名の狂気だった。
「……あ、あぁぁぁッ!!」
少年は悲鳴のような声を上げながら、俺を振り下ろした。ズブッ。俺の刃が男の首筋に食い込む。温かい。熱い。鉄の味がする液体が、俺の刀身を伝い、乾いた喉を潤していく。男が絶命し、少年は肩で息をしながら、血濡れた俺を抱きしめた。
それが、俺の最初の食事だった。
2. 呪いの産声
やがて少年は成長し、足軽となって戦場に立った。俺は彼と共にあり、多くの血を吸った。だが、所詮は雑兵。少年はある日の合戦で、名もなき矢に射抜かれて死んだ。俺は泥の中に落ち、また拾われ、あるいは回収され、誰かの手に渡った。
そんなことが数回繰り返された頃――そう、百人ほどの血を吸ったあたりだろうか。俺の中に「自我」と呼べるものが芽生え始めた。
しばらく戦がないと、俺は乾きに耐えきれず、鞘の中で震えるようになった。
『……ウゥー……ウゥー……』
風切り音のような、あるいは獣の唸り声のような共鳴音。持ち主たちは気味悪がり、俺をこう呼び始めた。「呪われた刀」と。それでも、世は乱世だ。幾度となく戦は行われ、俺はその度に戦場で血の味を堪能した。血を吸えば吸うほど、俺の刃は鋭さを増し、持ち主の腕に関係なく、触れるだけで肉を裂く妖刀へと変貌していった。
3. 暗殺者の系譜
時代が流れた。いつしか大きな戦はなくなり、俺の耳に「廃刀令」なんて言葉が聞こえるようになった。武士たちは刀を捨て、魂を売った。だが、そんな時代でも、俺に血を与え続ける者がいた。暗殺、闇討ち、要人殺害。そんなことを生業とする男だった。
その頃には、俺はすでに千人以上の血を吸っていただろう。俺はただ血を啜るだけでなく、使う人間の「心」を乗っ取り、手足を操る術を得ていた。
しばらくして、男が人を斬らなくなった。俺は苛立った。腹が減る。血が欲しい。俺は男の心を乗っ取り、無理やり人を斬るように仕向けようとした。
(……待てよ)
その時初めて、俺はその男の顔をまじまじと見た気がする。いつの間にか、男はシミだらけの老人となっていた。手は震え、足元もおぼつかない。俺は考えた。俺は迷った。血の味に飢えてはいる。だが、この老体では、ターゲットに返り討ちにされるのが関の山だ。もし失敗して捕まれば? 廃刀令の元、回収され、溶かされてただの鉄塊に戻されるかもしれない。
(……それは御免だ)
俺が迷っている時、目の前に若い男がいることに気づいた。老人の息子だ。親の家業を継ぐべく、厳しい訓練を受けてきた若者。俺は迷わず、ターゲットを変えた。
『……俺を……握れ……』
俺は老人の手から離れ、息子の意識へと侵入した。若く、強靭な肉体。そして、殺しへの忌避感と功名心がないまぜになった、御しやすい精神。息子は魅入られたように俺を手に取り――。
ザンッ。
躊躇なく、目の前の老人を斬り捨てた。久しぶりに味わった血の味は、どこか懐かしい、老人の血だった。こうして俺は、新たな、そしてより長く使える「鞘」を手に入れた。
4. エレキテルの衝撃
家業を引き継いだ若者の元で、また俺は血の味を堪能することができた。だがある夜、運命が変わった。ある西洋かぶれの商人を闇討ちした時のことだ。
商人を切り裂いた後、その背後の柱に打ち付けられた奇妙なロープのような「何か」に俺は触れた。
バチバチバチチチッ!!
「――ッ!?」
その瞬間、俺の中に血ではない、別のものが流れてきた。それは後に「エレキテル」と呼ばれるものだと知った。血は、俺の中にヌルっと流れ込み、腹を満たす汁のようなものだ。だが、その刺激はまるで別物だった。
(……なんだ、これは……!)
痛い。熱い。だが、堪らない。青白い閃光が、俺の鋼鉄の身体の中を暴れ回りながら駆け巡る。それは、俺の魂にこびりついていた数百年分の錆や、凝り固まった血の穢れを、強引に剥がし取っていくような感覚だった。
『……もっと……!』
俺は震えた。血では味わえない、より激しいエネルギー。それから俺は、その刺激を渇望するようになった。人を斬ることよりも、雷を喰らうことを望むようになった。
しかし、それは叶わなかった。時代は変わり、戦が変わり、刀そのものが必要とされなくなったのだ。持ち主は捕まり、あるいは死に、俺はただの「遺物」として世に放り出された。
5. 長い眠りと再会
いつしか俺は、とある古物商の店先で、傘や杖なんかと一緒に、安売りの籠に入れられていた。
「なんだこの刀、錆だらけじゃないか」「縁起が悪そうだ」「こんな物店先に並べて大丈夫か?」
人々は俺を見ては顔をしかめ、通り過ぎていく。俺は半ば諦めていた。このまま朽ち果てるか、溶かされて鍋釜になるか。もう二度と、あの温かい血の味も、脳髄を痺れさせるエレキテルの刺激も、味わうことはないのだと。
そして俺は、心を閉ざした。死んだふりをした。錆の衣をまとい、ただの薄汚い鉄屑になりすまして、眠りについた。
――どれくらいの時が流れただろうか。
ふと、世界が騒がしくなった気配を感じて、俺は微睡みから目覚めた。目を開けると、世界が変わっていた。空には見たこともない鉄の鳥が飛び、夜の街は昼間のように明るく輝いていた。そして何より、街中に溢れていたのだ。かつて俺が渇望した「エレキテル」の光と、一度は滅んだはずの「刀」たちが。
(……なんて……美味そうな世界だ……)
そこは、俺にとっての理想郷だった。ネオンの洪水、電子の網。空気そのものが電気の味を帯びている。俺は声を上げた。
『……求む……主を……』
俺の飢えを満たしてくれる、新たな共犯者を。
古物商の店主が震えて目をそらす。
ある日、その男は現れた。くたびれた制服を着た、目の死んだ学生。だが、その心臓の奥底には、俺と同じ「世界への渇き」が渦巻いていた。
男の手が伸びてくる。俺は歓喜と共に、その手に吸い付いた。
『……契約だ……小僧……』
第15章 錆びついた記憶と雷の味(完)




