後編
おれが声を掛けに行くと、ニューロは丁度、応接間の掃除をしているところだった。家庭用アンドロイドの本領発揮と言わんばかりに、はりきって綺麗にしてくれている。
「ニューロ」
「あれ、トール。どうしたんですか?」
「ああ、いや……」
あの胸のもやつきを感じて、おれはまた言葉を詰まらせる。彼と散歩に行くとき、どうやって声を掛けていたのか思い出せない。
ニューロは俺をじっと見つめて、微笑みかける。
「トール、ちょっと掃除を休憩してもいいですか?」
「ん? これだけしてくれたんだし、別に構わないけど……どうした?」
「ちょっと、トールとお話がしたくて」
言いながら、彼はおれに席を勧めた。おれはソファに深く腰かけて、背もたれに体を預ける。いつの間にか胸に溜まっていた息を吐き出して、おれは背もたれに沿って思い切り身体を反らす。
おれが座ったのを確認してから、ニューロは机を挟んで向こう側に座る。脚を揃えて手を膝に。相変わらず行儀がいい。
「それで、話って?」
「……あの。ご負担ではないですか?」
ニューロはおっかなびっくりおれに訊ねた。彼は口元に手を当て、伏し目がちになる。
「それは声のことか? それなら……」
「いえ、それもありますが」
彼は首を横に振って、おれへ視線を戻す。
「良いのですか? わたし、ここにいて」
「ああ、そういうことか……」
Neuromancerは、別におれの側に侍らせることを目的として造ったわけではない。元はといえば、事務仕事用にして、対話をすることでストレスを緩和するセラピー用にと頼まれたものだ。
しかし、雇い先が倒産。行き場を失った彼を、再びこちらへ呼び戻すことになった、というのが、彼がここにいるいきさつだ。彼はそれを、負い目に感じているらしい。
「何度も言うが、おれはお前がいて困ることはない。確かに、お前にはまだ解析しなきゃいけないことがあるけど、そんなの、苦に思ったことはない」
おれは姿勢を戻して、やや猫背気味になり、指を組む。
「お前はいつまでも、ここにいていいんだ」
分かっている。おれがこうした言葉を掛けても、結局彼を許すのは彼でしかない。おれが彼の頭を弄ってどうこうというのは、あまりにナンセンスだ。
おれがこういう言葉を出すと、彼は決まって、少し寂しそうに笑う。おれの胸のもやつきが、一番大きくなるのがこの瞬間だ。
「じゃあ、おれからも」
自然とおれから声が出る。 ニューロは小首を傾げて、おれの言葉を待っている。
「最近のおれ、変か?」
「はい。とてもおかしいと思います」
同じ姿勢のまま、思いのほかきっぱりとニューロは言い切った。
「今、この部屋に入ってきた時も、おかしかったです。何をそんなに、悩んでおられるのですか?」
彼は首を戻す。彼の褐色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。瞬きをしないアンドロイドの瞳は、おれに嘘をつけなくさせる。観念して、おれは口を開く。
「……分からないんだ」
「悩んでいるのに、分からないのですか?」
おれは静かに頷いた。
「そう、分からない。お前の声と同じだ、ニューロ。……お前から見て、おれはどうおかしい?」
彼はゆっくりと頷く。彼の頭から演算の音が聞こえる。きっと、おれに分かりやすいように言葉を検索してくれているのだろう。
「まず、散歩に行かれなくなりました。外に出て、庭の様子を見ることもなくなっています。いつも、わたしの資料とにらめっこばかり……食事も、あまりおいしそうには見えなくて」
彼は膝の上の拳を、きゅっと握る。
「わ、わたしそれで、何かしてしまったのかなって……」
「そんなことはない」
思っていたよりもニューロを怖がらせてしまっていたようで、おれの良心はじくじくと痛む。彼の言ったことを否定して、おれは必死に言葉を探す。
「ニューロ、今から暇か?」
「今から、ですか?」
それでやっと、彼を散歩に誘う口実を見つけたのだ。伏せられていた褐色の瞳が、こちらを見る。その透き通る、硝子質の瞳に、おれが映っている。
「ミッドが来るまで、もう少し時間がある。少し、気分転換に付き合ってくれ」
「……はいっ」
彼の柔らかい笑顔を見ると、おれのもやつきは少しずつ、小さくなっていく。
おれが心配しているのは、本当に彼の起こす現象だけなのだろうか。いや、そうではない。
おれの作り上げた、彼の繊細な性分が、彼自身を苦しめてやいないだろうか。
中性的に、と造ったことで、彼は拠り所を失ってはいないだろうか。
彼は――この世界に生まれて、楽しいのだろうか。
おれは最近、意識の外で、どうにもそんなことを考えているらしい。
ニューロが支度をしに出掛けた後で、おれは髪を掻き上げて、深いため息をついた。
自分が造った存在なのに、おれは彼のことが分からなくなっている。そのことについて、おれはただ、彼に心配を掛けたくないな、と思った。
◆
――さてはついに恋の華が咲いたかな。
クラクの言葉がふと脳裏に蘇る。彼だって本気で言っているわけではない。だが、この異様なもやもやを表現する他の感情を、おれは理解できない。
(自分で造ったアンドロイドに惚れた? おれが?)
おれは背もたれに体を預け、目を閉じる。
実際、おれは恋というものを実体験した記憶はない。なんとなく、周りがやっているから、おれもした方がいいのかなと思ったことはあるが、それは真似事でしかなかった。そのおれが、機械相手に恋をしたというのなら。
(おれはクラクと同族なんだろうか)
結局、おれの頭の中で回答はついぞ出なかった。
しばらくして、三度のノックの後でドアが開かれる。目を開けてそちらを見ると、小さなバスケットを持った笑顔のニューロが、いつものスーツ姿で立っていた。
「お待たせしました!」
「ん、行こうか」
「はいっ」
彼の元気のいい返事を聞きながら、おれはソファから立ち上がった。
扉をくぐり、二人して玄関へ歩いていく。こうして肩を並べるのも久しぶりだ。おれよりほんの少しだけ身長の低い、黒髪の頭が横目に見える。後ろ手を組んで、彼はゆるやかに歩いている。
「もうすぐカラフルベリーの収穫の時期ですよ」
「あれ、もうそんな時期か」
七色の実をつけるこちらの原生植物の話題に、おれも時間の経過を自覚する。
「いつもはジャムですが、今年はシロップ漬けも作ってみましょうか」
「いいな。あれのシロップ漬けは見栄えもいい」
「ふふ、領主さまのご子息のイチ押しスイーツですからね。楽しみに待っていてください」
笑いながらニューロが扉を開くと、眩い日差しが差し込んでくる。軽く目を細めて、おれは目が慣れるのを待つ。ほどなくして、花の咲き乱れる庭が視界いっぱいに映り込む。花の香りが、おれの鼻をかすかにくすぐる。
色とりどりの花びらを眺めながら、おれは彼と一緒に、庭を歩いていく。
家庭菜園の様子もだいぶ様変わりしていた。地球由来の赤い野菜が、丸く、色鮮やかに実っている。ニューロはそれを見つけると嬉しそうにバスケットの中に収穫する。彼はおれに振り向いて、バスケットを見せる。
「トール! 今日はトマトの冷製パスタなんてどうですか?」
「あ……美味そうだな。頼んでもいいか?」
彼は頷くと、楽しそうにカラフルベリーの実るところへと歩いていく。おれはその後を、ゆっくりとついていく。
丸く整えられたカラフルベリーの樹は赤、青、黄に橙と、様々な色の実をつけていた。ニューロはおれに手招きをする。おれも近づいて、木の実を何気なく一つ取って、掌の上を転がしてみる。トマトにも負けない赤みを帯びた果実が、俺の手の中できらめいている。
「丁度いいですし、一緒に収穫しましょう」
「そうだな。色はどうする?」
「均等になるようにすると、シロップ漬けにした時に見栄えがいいと思います」
「分かった」
おれたちは一緒になって、カラフルベリーの収穫をする。バスケットを草の上に置いて、果実の数と色をバランスよく整えようとする。
「あっ」
「……ふふ、同じ色ですね」
それなのに同時に同じピンク色の果実を取ってしまっていることに気づいて、二人して思わず吹き出してしまう。
「トールが久々に楽しそうで、良かったです」
「そうか?」
「そうですよ。こんな怖い顔していたんですよ!」
ニューロがぐぐっと顔をしかめるのを見て、おれはまた笑ってしまう。
「そんなに!?」
「そんなにです!」
自信ありげに言う彼の表情が和らぐ。おれはその表情を見て、何となく幸せな気持ちになる。表情も、ほころぶ。
「よし、これぐらいでいいだろ」
「クラクさんにもおすそ分けできそうですね」
赤、黄、青、ピンク、橙に紫、様々な色のベリーがバスケットを埋め尽くしていく。果実の親玉みたいな顔をして、トマトがカラフルベリーに埋まっている。
満足するまで木の実を収穫した頃には、トマトはヘタを残して見えなくなっていた。
一仕事終えた顔で、ニューロは額の汗を拭う仕草をする。実際に彼が汗をかくことはないが、周囲の湿気で肌や髪が湿ることはあるからと、そうした仕草も入力したことを覚えている。
「なあ、ニューロ」
「どうしました?」
おれは彼の仕草を見て、声を掛ける。
「声のこともそうなんだけど、駆動部には問題はないか? ちょっと痛いとか、違和感があるとか」
「いえ、大丈夫です。トールのメンテナンスは完璧ですから」
そう言って、彼はおれにバスケットを差し出す。ずっしり重たくなったそれを受け取りながら、おれは家庭菜園を抜けて、また花畑の方へ歩いていくニューロを見つめる。
色とりどりの花畑を歩く、モノトーンの後姿。黒いスーツも、白手袋も、いつもきちんと身に着けて、行儀よくしている彼に、おれは思わず問う。
「今の言葉は、最適解として弾き出したものか?」
「どうなんでしょう? わたし、自分がどう考えているかなんて説明できないです。でも……」
「でも?」
「今のは、回路の一番奥から出た言葉です。いつもありがとう、トール」
不思議そうな顔をして、ニューロはゆっくりと俺に振り返る。温かな日差しと色合いの中、切り取られたように彼だけが黒く俺の視界に映り込んでいた。
彼は、何よりも鮮烈だった。
◆
「で、どうだったの。ニューロ君とのお散歩は」
「……悪くなかった」
「そう、それはよかった」
散歩から戻ってしばし。クラクからはからかわれるかと思ったが、そんなことはなかった。
おれはやっぱりいつも通りに資料を漁って、ニューロの魔法めいた声について調べている。少なくとも、彼の歌声からは機械の類を共鳴させ、破壊する音が出ていることが分かった。
この奇妙な現象を、おれは定義づけておきたいと思った。
「なあ、クラク。ブルーノートって知ってるか?」
「何だっけね、聞いたことはある。精密機器を壊す方法だっけ?」
「そう、地球の保存装置がHDD時代だった頃にあったものだ。コンピューターから音を出して、その音で振動させ、物理的にコンピューターを破壊するって手法のことを指す。ニューロが起こしてるのは、それに近い」
おれは資料の一枚をクラクに差し出す。
クラクは小難しい文章を、時折軽く音読しながら読み込む。
「だからおれはあの現象を、仮に『ブルーボイス』と定義しようと思う」
「名称がないと不便だもんね」
「それ。ニューロにも伝えるつもりだ。声帯パーツを換えないといけないかもしれないし」
おれは手近な工具箱を引っ張ってきて、金属の板を取り出す。
声帯パーツ。これだけは、おれの手作りだ。設計図はおれの頭の中にしかない。そうでなければならない。
同じ声は一つとしてない。だから、取り換えてしまえば、本来の声は戻ってこない。
「……できれば変えたくないんでしょ」
クラクの言葉に、おれは視線を逸らす。
「好きな相手の声を取り換えたいだなんて、思わないよ」
「……」
「そうでなくても、トールはアンドロイドに肩入れしてるからね。異常でない限りデータを弄るのは違うって思ってるでしょ」
「お前ほどじゃない」
そっけない返事をして、おれは工具箱を閉じる。
「おれは技師だ。やることは、やる」
――トール。
あの青空に溶けていくような、柔らかな声で呼ばれなくなる。そう考えると、寂しいと思う自分がいる。
おれは資料も金属の板もそのままに、目を閉じて、椅子の背もたれに身体を預ける。
「強がっちゃって」
「強がってなんかない」
笑いながら、クラクが部屋の外に歩き出す。おれは片目だけ開けて、彼を見送る。
「まあ、じっくり向き合いなよ。時間はたくさんあるんだからさ」
ひらひらと手を振って、クラクは部屋を出た。
深くため息をついて、おれはまた目を閉じる。うとうとと、日差しに誘われて眠りの気配が近づいてくる。
「……笑って過ごせるように、してやりたいなあ」
おれは誰に言うともなくぼやいた。
仕事場を失って怯える彼が、ほんとうに笑ってくれる日は来るのだろうか。
何が彼の幸せなのだろうか。そんなことを考えながら、おれは思い返す。
――あなたにだって、大事に使われたいです。
道具である機械と、人らしさの入り混じった瞳が蘇る。ほんのりと熱と艶を帯びた眼差しが、おれを見つめている。微笑んでくれている。果実の入った籠を持って、青空の下を歩いている。
彼のことを、どう思っているか。不意に焦点が合う。
(ああ、そうか。もっと、シンプルなことだったのか)
おれの感情が恋かは分からなくても、これだけは分かる。
『おれは、彼を幸せにしてやりたい』。
最初からそれだけで、十分だったのだ。好きとか、恋とか、愛だとか。そんな難しい言葉など要らなかった。
(いつも考えすぎなんだな、おれは)
彼は人を超えるかもしれない。そうしたら、おれは彼を抑えなくてはならない。
その酷なわがままが横たわろうとも、おれは彼の笑顔を守ってやりたいなと思っている。
そう、それだけでよかったのだ。
結論が出た瞬間、おれはすっかり安堵して、深い深い眠りへと入り込んでいった。
温かな陽が差し込む、昼下がりのことだった。
これは銅の月の主人公が目を覚まして旅を始めるより、少し前の出来事です。