ナポレオンがでてくるマッチ売りの少女
「マッチはいかがですか。マッチを買ってください」
雪の降る寒い大晦日の夜、少女が街路でマッチを売っています。
籠一杯のマッチ、つぎはぎだらけの貧しい服、靴さえなく、足は赤くかじかんでいました。
道行く人々は年越しを祝うために足早に少女の前を通り過ぎ、目を合わせようとすらしません。
夜が更けてきても、マッチは一つも売れず少女は寒さと空腹に必死に耐えていましたが、とうとう寒さをこらえ切れずマッチを一本擦って火をつけました。
すると少女の前の前には暖かい暖炉に七面鳥のごちそう、クリスマスツリーが現れました。少女は空腹を忘れてその楽しく温かい光景に見入ってしまいます。
しかし火が消えるとその幻も消え、また暗く寒い現実が現れます。
「ああ、こんな風に温かい家でごちそうが食べられたら……」
少女は星の輝く空を見つめます。ひときわ明るい星が瞬いて、そして流れ落ちていくのが見えました。
少女は昔、大好きだったお婆ちゃんが言っていたことを思い出します。
「輝かしくもちなまぐさい流星、善悪入り乱れた混合物だったナポレオンは世紀の奇蹟といえた。しかし後に残ったものはただ空しい煙だけであり、もっと悪いことには、人類は完全には幸せにはなれないという絶望的な確信だけである」
少女はマッチを擦りました。
そこに現れたのは二角帽子を被り、灰色のコートを着た中年の男。ナポレオンでした。
「こんなところで何をしているのかね」
ナポレオンは現れるなり尊大な態度で少女に話しかけました。
「マッチを売っているのです」
「マッチとは何か」
少女はマッチを擦って火を起こしました。
「なんと! 擦るだけで火を起こせるのか。なんと便利なものを持っているんだ君は」
ナポレオンは大きな薄青色の瞳を見開いて驚きました。
「マッチがそんなに珍しいのですか」
ナポレオンは少女をつま先から顔まで取り調べるように少女を見ました。
「靴も履かずに、一日中ここに立っていたのかね」
「そうです。マッチを全て売らないと、家に帰れないのです」
「そうか。この寒さの中でも立っていられるのは素晴らしい事だ」
少女はナポレオンに言います。
「あなたもこのマッチの火が生んだ幻なのでしょう? 火が消えると、さっきの温かい暖炉や、ごちそうのように消えてなくなってしまうのでしょう?」
ナポレオンは答えます。
「確かに私はこの火のようなものかもしれない。大きな戦争を起こして、ヨーロッパの国々を焼いてしまった。しかし同時に温めもしたのだ。革命で分裂したフランスを癒し、商業を興して、橋を作り、しっかりとした憲法と政府を残した。人々は無秩序と貧困から救われたのだ。私の火は消えることはないだろう。永遠に灯ったのだ」
少女は話が噛み合っていないことに気が付きました。
「私が聞いているのはあなたの歴史上の評価ではなく、マッチが消えたらあなたも消えるかどうかです」
「多分消えるだろう。だがその前にこれを持っていきたまえ」
ナポレオンは大急ぎで懐から紙を取り出すと走り書きをして少女に渡しました。
「これを持ってパリの徴兵事務所に行くといい。私の事を覚えている者がいれば役に立つだろう」
少女がそれを受け取るとちょうどマッチの火が消え、ナポレオンも姿を消してしまいました。
少女は教会の片隅で震えながら夜を明かすと、その足でパリの徴兵事務所に行きました。
徴兵事務所に入ると人々はみずぼらしい恰好の少女を見て怪しみました。
眼鏡をかけた神経質そうな男が話しかけます。
「ここはお嬢さんのような人が来る場所ではない」
少女はナポレオンに貰った紙切れを見せました。
「なんと汚い字だ。だが、これには見覚えがある。皇帝陛下の文字だ」
それからしばらくして、街の人々は通りをパレードする兵隊の一団を見ました。
その中には、あのマッチを売っていた少女の姿もあります。彼女は寒い大晦日の夜に一晩中立っている忍耐強さと空腹への耐性を見込まれて兵隊になることになったのです。マッチを扱って火の扱いに長けている事から、彼女は砲兵隊に配属されて新品の軍服とぴかぴかの靴を履き、黄金色に輝く大砲の後ろを誇らしげに戦友たちと歩いていきました。
少女の居る部隊は戦場に出て戦うことになりました。ところが、敵の罠にはまって囲まれてしまい、流れ弾に当たって指揮官まで倒れてしまいます。部隊は混乱状態です。
「このままでは、我々は全滅してしまうぞ」
仲間の危機に少女はマッチを擦ってみることにしました。
するとそこにはあの大晦日の夜のようにナポレオンが現れたではありませんか。
「無事に入隊できたようだな。私に何の用だ」
どうやらナポレオンは寝起きだったようで不機嫌でした。
「私たちは敵に囲まれてしまいました。どうすればいいでしょうか?」
少女は幻のナポレオンに問いかけます。
「まっすぐ味方のほうへ戻ろうとしてはいけない。その逃げ道は敵も承知で待ち構えているだろう。思い切って、敵のほうへ大砲を向け、大声を上げて突進するのだ。敵は慌てて守りを固めようとして後退するだろう。その隙に撤退するのだ」
少女はナポレオンの言葉を聞いて奮いたち、仲間たちを集めて立ち向かうように説得しました。
作戦は見事に成功し、少女の部隊は全滅の危機から救われます。
少女は部隊を救った功績で表彰され、指揮官に任命されることになりました。
ところが少女は字も読めなければ軍隊を指揮したことなどありません。
そこでマッチを擦ることにしました。
ナポレオンが現れます。
「私をなんだと思っているのだ」
何度も呼び出されてナポレオンは不機嫌です。
「どうかお助け下さい」
ナポレオンはしぶしぶと言う風に少女に作戦を授けてやりました。
それから少女はナポレオンのアドバイスを受けて部隊を指揮し、着々と功績を立てていきました。
そしてとうとう敵国との最終決戦に挑むことになります。
少女は、もはや少女ではありませんでした。立派な将軍になっていました。
いつものようにマッチを擦ってナポレオンを呼び出そうとしたところ、マッチがもうありません。代わりに別のマッチ箱からマッチを取り出して、火をつけてみてもナポレオンが現れることはありませんででした。
「もう私は一人で戦わなければならないのですか」
少女は途方にくれます。
しかし、少女はもう寒空の下でマッチを売っていた少女ではありません。
幾度も戦場を往来して手柄を立てた歴戦の指揮官です。その元には、頼りになる戦友たちもいました。
彼女はナポレオンという火が生み出した影ではありません。彼女こそ、新しい火なのです。
部屋から出てこない少女を心配して副官が呼びに来ました。
「閣下、指揮官たちが集まっています。そろそろ」
少女は二角帽子を被り、灰色のコートを纏って両手を後ろに組むと、颯爽と砲声鳴り響く戦場へ歩みだしました。