Part3
「沼の中心を目指す。主であるマカラは、その近くにいるはずだ」
「では、私は先に行っています」
ガンダルヴァは、空中に舞い上がり、移動を開始した。
持国とピシャーチャも、沼に入って、走りはじめた。
遅かれ早かれ、沼の《魔》は現れることになるだろう。走った方がいい。持国は、そう考えた。
上がったしぶきが落ち、沼の水面に幾重もの波紋を広げてゆく。
沼は、浅瀬が続いていて、彼らの足取りが緩むことはなかった。
しかし──。
沼の深さが、持国のすねの半ばまできた時、状況は一変した。
彼らの周りに、突然いくつもの小さな渦が現れた思うと、《魔》が飛び出してきた。
百羽水玉──たくさんの小さな羽で浮遊し、爪をはやした二本の触覚を持っている。
耳に痛いほどの羽音が、あたりに満ちた。ゆらゆらと蠢く、そやつらの触覚。
「ピシにまかせて。時をかせいで」
「わかった。まかせる」
持国は、百羽水玉の集団に飛び込んだ。
剣は円を描くように動き、そやつらを両断してゆく。沼の水で薄汚れた球体が割れ、血が吹き出し、死体と共に地に落ちる。
やや後ろにさがった小鬼は、素早い動きでめちゃくちゃに踊りはじめた。
その動きが止まるつど、水面に落ちている影がピシャーチャから離れて立ち上がる。影は、生まれては離れ生まれては離れして、あっという間に数十体になった。
小鬼は、今度は直立不動になって瞑想をはじめる。
すると、影の群れが一斉に百羽水玉どもに襲いかかった。
悲鳴と悲鳴、爪と爪が交錯し、血しぶきが飛び散る。
百羽水玉が、持国の周りからいなくなり、沼の中央への空間がひらけた。
「後は頼んだぞ。殲滅してくれ」
そう言いながら持国が振り返ると、ピシャーチャは、小さな傷だらけになって立ちすくんでいた。見ている間にも、次々に新たな傷ができ、血が水面に流れ出す。影といえども分身。影が傷つけば、生身も傷つくのだ。
「ピシは┄┄だい┄┄じょう┄┄ぶ。行って」
「すまない」
持国は一礼すると、沼を疾走した。ピシャーチャの無事を願いながら。
┄┄走り続けるうちに、しだいに水かさが増してきた。持国は走るのが困難になり、歩きはじめた。息の切れる音が、自らの耳に届く。
突如、水しぶきが上がり、新たな《魔》が二体現れた。
漆黒牙蟹──爪の他に獣のような鋭い牙を持つ背高い蟹。
そやつらは持国の前に壁のように立ちふさがり、行く手を阻んだ。
一体ならば、なんとかなるが二体か、持国は思った。挟み撃ちにされたら、牙が彼の体を確実に貫くだろう。
ブオーム!
漆黒牙蟹の背後から法輪が飛んできて、片割れの頭部にめり込んだ。
空には黄金の翼を持つガンダルヴァ。持国の到着を待っていたのである。
残った一方の蟹がひるんだ隙に、持国はいったん膝を折り、下から思いっきり腹を切り裂いた。
間髪入れずに水中から足を高く振り上げ、蹴りを入れて突き飛ばす。
倒れたところで、持国は頭部目がけて、剣を乱舞させた。
やがて、そやつの頭部は牙だけ残してあらかた無くなってしまった。
持国は振り返って、残る漆黒牙蟹を見た。
そやつは梵字まみれになって、既に絶命していた。
さらに持国は、沼の中央に向かって、進む。腰まで水につかってきて、思うように前には進まない。
もう出てきても、いいはずだ。我の考えは間違っていたのか、持国は思った。
その時。
水面が揺らいだ。沼の底から激しい振動。
デュボボボボボボ┄┄。
──来る!
大量の水しぶきが上がり、そやつが姿を現した。
マカラ──小さい牙に覆われた長い鼻、大きく広がった耳、くねくねと伸びた体。全身が硬い鱗によって守られている。その異形は巨大化したことによって、持国の胸にさえ恐怖の影を落とした。
ブオーム!
ガンダルヴァの法輪が、マカラの顔の真ん中にめり込んだ。
マカラは、反射的にのけぞった。
まずい、と持国は思う。これではマカラの命は絶えてしまう。彼はガンダルヴァにマカラを生け捕りにしたいという意志まで話していなかった。ただ、倒すとだけしか伝えていなかったのだ。
しかし。
持国の心配は無用だった。法輪は梵字を一文字も浮き出すことなく、消えてしまった。
宝珠を宿すマカラの法力は、ガンダルヴァのそれを、はるかに上回っていたのだ。
「うおおおお」
持国は剣を振りかざし、沼の中から跳躍した。
彼は、わずかに水面を離れただけだったが、マカラを刺激するには充分だった。
そやつは、体を素早い動きでくねらせて水流を作り出し、襲いかかろうとする持国にぶつけた。
持国はもとにいた位置より、はるか後方にふっ飛んだ。
マカラは続いて目を閉じた。
すると沼から次々に氷で出来た槍が出現し、マカラの周りを取り囲んだ。十本は優に超えている。
マカラは目を開けた。それが合図となっていたかのように、氷の槍は全て持国を目指して、かすかに間をおきながら、次々と勢い良く飛び出していった。
持国は、急いで立ち上がると、位置をずらしながら空から降ってくる槍を剣でさばいてゆく。一本、二本、三本┄┄。
しかし氷の槍の何本かは、確実に彼の頭をとらえていた。
急速度で迫りくる何本もの透明な槍の先を見て、持国は死を覚悟した。
その時、彼は兜に焼けるような熱を感じた。
──なに。
次の瞬間、頭に衝撃が走った。だが刺さったわけではない。兜に触れる直前、槍はただの水に変わり、次々と飛び散ったのである。
千手観音から賜った兜は、持国の命を守り抜く加護を秘めていたのだった。
マカラの氷の槍攻撃は、結局、持国の鎧をいくつか掠めただけで終わった。