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海の娘と砂漠の男と猫の旅  作者: 守雨


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38 後ろ盾     

 砂漠猫の涙を採取してからひと月が経った。


 ベラード王子は今日から歩く訓練が始まった。

 その姿を眺めながら涙ぐむ皇帝と皇后、少し離れてワドル、その後ろにジーンとイーファ。


 砂漠猫の涙は、文献のとおりに著しい効果があった。

 最初の一本を飲んですぐにベラード王子は「手足の指がむず痒い」と言い出し、血流が良くなったことを実感したという。


 侍医長は早速手足を温め、オイルでマッサージをした。今までは無理に触ると酷い痛みがあって触れられなかった。だが今回は「気持ちがいい」と王子が喜ぶのを見て、長年心を痛めていた侍医長が嬉し涙を流しながらマッサージをした。


 次の一本をいつ飲ませるかで皆が頭を悩ませたが、一週間後、王子の手足の指の皮膚がまるで脱皮するように剥がれ始めた。それを見た侍医長が、大切に保存されていた二本目を使うべきと決心した。


 二本目の涙を飲んだ翌朝から、王子の手足は一層血の巡りが良くなった。固まっていた手首足首も痛むことなく滑らかに動かせるようになり、半月を過ぎる頃にはベッドの上で運動が開始された。


 寝てばかりいた体は筋肉が落ち心臓も肺も弱っていたが、そこは若さのおかげで運動するごとにメキメキと筋肉がついてくる。そしてひと月後の今日から歩く練習となったのだ。


「ベラードが歩いている」


 皇帝が涙した。皇后は言葉にならないほど泣いている。最初から号泣していたワドルは言うに及ばずだ。

 十才で石化の病に罹患してから、少しずつ死に近づくように動きが悪くなる体。どれほど本人は苦しみ悲しんだか。元気盛りをベッドで寝ている少年時代はどれほど苦しかったか。

 それを想像すると、二度しか会っていないイーファやジーンももらい泣きした。


 王子が両手で杖を突きながら、両親に向かって歩き出した。そろそろと足を運び、両親に近寄る。見守っていた皇帝と皇后が立ち上がり、我慢できずに両手を差し出した。

 王子がついに両親の手が届くところまで歩くと、皇帝と皇后は息子を抱きしめて嗚咽した。


「父上、母上、歩けるようになりました」

「うむ、頑張った。こんな日が来るとはなあ。父はずっと……この日を夢に見ていたぞ」

「私はもう、何も望むことはありません。これ以上嬉しいことがありましょうか」


 ひとしきり親子で抱き合い、うれし泣きをしていたベラード王子は、後ろに控えているイーファとジーンに目を向けた。


「ジーン、イーファ。心から礼を言う。まさか手に入るとは思わなかった砂漠猫の涙、手に入れてくれてありがとう」

「お役に立てて光栄でございます」


 イーファがそう答えると、皇后もうれし泣きの涙を拭いながらイーファに声をかけた。


「イーファ、そなたの笛の音のおかげだと聞きましたよ。そなたが望むことはなんなりと叶えてやりましょう。さあ、なんでも望みを言いなさい」

「私たち二人でよく話し合ったのですが、お願いが決まりました」

「なんだ。なんでも言うてみよ」

「今借りているワドルさんのあの借家に、この先もずっと住み続けたいと願っています。それと、私たちの名前は公にしないで欲しいのです」


 思いがけない願い事に、皇帝が戸惑う。


「そなたたちの名は出さぬ。それは承知しておるが、褒美がワドルの貸家だと? あまりにささやかな願いではないか。もっと大きな家に召使いを付けて褒美として与えよう」

「いいえ。私たちはあの家で、ワドルさんの隣で暮らしたいのです」


 皆がワドルの顔を見た。ワドルも困惑している。


「お前たちはまたなんと珍妙な願いを……。家が欲しいならもっと……」

「大きな家が欲しいのではありません。私たちは二人とも家族も親戚もいない身の上です。ワドルさんは大家さんであり、失礼ながら祖父のように思えるのです。なのでぜひ、ワドルさんのあの借家に住み続けさせてください」


 ジーンがそう言って二人で頭を下げた。


「いいだろう。ワドル、そなたの貸し家を一軒買い上げるぞ」

「かしこまりましてございます」

「父上、私からも何か礼をしたいです」

「王子様、もう私たちは十分です」


 イーファが慌ててそう答えると、王子は笑って首を振る。


「イーファ、銀の髪の娘よ、では私から頼む。これからは私をそなたたちの友として扱ってはくれないか。遠い土地の話もまだ二つしか聞いていない。またそなた達に会って遠い土地の面白い話を聞きたいのだ」

「ベラード、それは礼ではなくて願いになってしまうぞ」

「あっ、そうですね。でも本当に彼らの友になりたいのです。そしてまた、イーファのオカリナを聴きたいです」

「オカリナでしたら、いつでも吹きます」


 皆が温かい気持ちになっている所に宰相が入って来た。


「陛下、ワドルが見つけて来たルビーの鉱脈のことでご報告がございます」

「うむ。ここにいるのは皆関係者ばかりだ。報告せよ」

「洞窟の奥、モウハツヒルの群れの奥で人骨が三体発見されました。残されていた服装や持ち物からどうやら旅人らしく、当時は今以上にモウハツヒルがはびこっていたため、あの水場が封印されたのではないかと思われます」

「モウハツヒルは駆除出来るであろう?」

「は。現在はあの手のヒルに効く駆除薬が開発されておりますゆえ、洞窟全体に噴霧すれば問題なくルビーの採掘が可能でございます」

「そうか。早速そのように手配を」

「はっ」


 宰相が下がり、皇帝陛下がジーンとイーファに改めて礼を述べた。


「砂漠猫の涙にルビーの鉱脈。そなたたちの功績は途方もなく大きい。この先、そなたたちの後ろ盾はこの私だ。私が亡き後はベラードが二人の後ろ盾となろう。何人たりともそなたたちを害すること、利用することは余が許さぬ。この国で自由に暮らすが良い」

「ありがとうございます!」


 翌日、陛下から国民に向けて、王子が死の病から生還したことが発表された。

 さらにこれから一週間、国を挙げてのお祭りとなり、人々は帝国の明るい未来を喜んだ。名前を公にしないという約束は守られていて、発表には砂漠の涙のこともイーファのことも触れられていなかった。

 

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