31 満月夜のオカリナ
美しい音色にワドルが目を見開く。今夜の曲は穏やかで、低く高くゆったりとしている。
目前に広がる広大な草原は静かにオカリナの調べを吸い込んでいるかのようだ。
やがて、あちこちの草陰から小さな黒い影が動き出した。草原ネズミだ。
ネズミたちは後ろ足で立ち上がり、鼻をヒクヒクさせてオカリナの音色を聴いている。
しばらくすると低い丘の向こう側から緑色の草原山羊の群れが現れた。山羊たちは丘の上に立ち、ジッと聴き入っている。
(なんだこれは)
ワドルは生まれて初めて見る光景に驚いて動けずにいる。御伽噺の一場面を見るようで、自分が身動きしたら御伽噺が終わるのではないかと微動だにせず、動物たちを見つめた。
最初の曲が終わり、二曲目になると、遠くから犬のような影が近づいてくる。おそらく紅狐だ。
頭が良く用心深いはずの紅狐が五匹、草原山羊の後方で黒いシルエットとなってこちらを見ている。
いつのまにかジーンが静かに草原山羊に歩み寄っている。しかし山羊たちは逃げない。ジーンが背中に手を置いても一瞬ピクリとしただけで触らせていた。
(なんとなんと)
最初の感動と興奮が落ちつくと、ワドルはベラードのことを思った。
(ベラード様にもこの光景を見せてやりたい)
若く元気盛りのはずの若者が、来る日も来る日も天井を見つめて最後の日が来るのを待っているのだ。
(天井ではなく、こんな夢のような景色を見せて差し上げたい)
そう思うと教え子の不憫さに鼻の奥がツンとなり、乾いてシワの深い頬を涙が流れた。
ワドルはオカリナの優しい音色を聴きながら静かに涙を流し続けていた。
イーファのオカリナは五曲を奏で、静かに終わった。
「もう遅いから私は帰るね」
優しい声でイーファが告げると、動物たちは魔法が解けたかのように身じろぎしてゆっくりと元いた場所へと帰って行った。
「面白かった?ワドルさ……」
振り返り話しかける途中でイーファが固まった。およそ涙と縁遠そうなワドルが頬をぐしゃぐしゃに濡らして泣いていたからだ。
「どうしたんですか?」
ジーンも驚いていた。
「わしが勉強を見ていた方が、二十才の若さで病にかかっていてな。毎日ベッドで天井を見つめて暮らしているのだ。一度でいいからこんな景色を見せて差し上げたいと思ったら、もう、涙が止まらん」
「んー。猫とか鳥とかでもいいなら、その人の部屋でオカリナを吹きましょうか?街中でも猫と鳥は来ると思うから。殺気を放たなければジーンみたいに触らせてもらえるし」
「おい、イーファ、そんなことしたらまた町を離れなきゃならなくなるぞ?」
「あー。でも、吹いてるのが私だってバレなきゃいいんじゃない?それにここ、アルズール帝国だから王宮動物管理課の人もいないわけだし」
「なんじゃ、その動物管理課とは」
「俺たちがいた国の王宮にある課でね。イーファのことを追いかけて来る人がいたんだよ。そいつに見つかると王宮で働かされるかもしれないからあちこち移動して逃げてたんだ」
「なあんじゃ、そんなことなら問題ない。人払いをしてイーファの姿を他の人間に見せず、無事に家に帰るまで隠してやる」
「そう?じゃあ、その病気の人の部屋でオカリナを吹くわよ。そうね、明るい時間の方が鳥がたくさん集まって楽しいかも」
ワドルは喜び、明日には必ず青年の親に了解を得るから頼む、と張り切った。
そして今である。
「ねえ、ワドルさん。まさかと思うけど、青年の親って、皇帝陛下じゃないわよね?」
「皇帝陛下だが」
「えええー。普段着で来ちゃったけど私たち大丈夫なの?」
「服装なんぞ、どうでもいいわい」
「来てしまったからには諦めるけど、こういう事は最初にちゃんと話しておいてよね」
イーファは皇帝一家の私的なエリアに入る段になっても言うほどには緊張していない。
何回も身体検査をされ、武器を隠し持っていないことを確かめられ、やがて衛兵が立つ背の高いドアの前に到着して、ワドルがドアを叩くと、中から「入れ」と若い声がした。
三人が中に入ると、豪華で巨大なベッドに青年がいた。背中にクッションを何個も当てて起きていた。
「ベラード様、ご機嫌麗しゅう」
「麗しいものか。退屈しているさ」
そう言って笑った顔が優しい。
「その者たちか?お前がぜひ会わせたいと申していたのは」
「はい。私の店子たちでございます。この娘イーファが実に素晴らしい特技を持っているのでございますよ」
「ほお。それは楽しみだ。美しい娘、どんな特技だ?」
「殿下、私は冒険者のイーファと申します。こちらは冒険者仲間のジーン。二人で旅をしています。これから、面白いものをお見せ出来ると思いますよ。どんなものか、見てのお楽しみです」
そう言うとイーファは部屋の窓際に立ち、オカリナを取り出した。
「王宮はお庭の緑が豊かなので、多分大丈夫です。では」
そう述べてオカリナを吹き始めた。