26 バイター
イーファたちが倒した巨大魚は『バイター』と名付けられた。槍の持ち手の硬い木まで一度で噛み切ったからである。
バイターは冒険者たちの手によって引き上げられ、鎧部分と皮を剥がされ、乾燥と腐敗防止を兼ねて香油の木のおが屑を詰めて仮縫いされ陰干しされた。
「こいつはギルドの入り口から見えるところに飾るよ」
ギルド長が笑って言う。
「しかし、これ一匹ですかね。最後の一匹ならいいが、他にもいるとなると大ごとだ」
マイクが心配そうに言う。
「少なくともここ六十年は人が湖で食われた事はない。この区域は漁場からも遠い。湖の水を全部空にでもしない限り、真相はわからない。したがって、このまま様子見だ」
堅実かつ現実的な意見を述べ、ギルド長は続けてイーファたちに話しかけた。
「それで、王宮動物管理局のことだが、報告は上げねばならん。規則なんだ。後からバイターのことが知られてギルドが罰せられてはかなわん。だから、事情があるならしばらく旅をして来い。いつでも好きな時に、ここを故郷と思って帰って来ればいい」
「はい」
申し訳なさそうな顔で返事をするイーファだったが、ジーンは笑っている。
「しばらく他のギルドで依頼を受けて働きますよ。いつか戻ってきたらまたよろしくお願いします」
ジーンは旅立つことに不満はないようだ。
二人は常宿にしている白猫亭に戻り、荷造りをしている。淡々と作業を進めるジーンに比べ、イーファの手は止まりがちだ。
「ねえジーン。本当にこのまま私と旅に出ていいの?」
「どういう意味だい?」
「私と一緒だと、この先どこへ行ってもいろんな動物が寄ってくる気がする。そしてジーンはいつも巻き込まれることになる。申し訳なさすぎて私、気が重いの」
ジーンが「ははっ」と笑う。
「イーファの気が重くても、俺は一緒に旅をしたいけど? それともイーファは独りで気ままに旅をしたくなったのか?」
「ううん。私はジーンと一緒にいたい。でも……」
「ずっと不思議だったんだけど、海で暮らしてた頃、君は鮫や大型の生き物に食われずに済んでたのはどうしてだい? いつもいつも相手を倒してきたのか?」
イーファが頭をフルフルと振った。
「海獣たちを狩るのは陸地だったから。海獣は陸では動きが鈍いし、繁殖期に陸に上がるから、私より繁殖相手を探す方に夢中だったみたい。それと、船村は鮫や大型の肉食魚を避けるために丈夫な網を周囲に張り巡らせていたから、そこを出た時だけ、狙われた」
「狙われてたんじゃないか。網の外で漁をする時は?」
「網の外では必ず船人たちが一緒だったから。逆に便利だって言われてた。私がいると獲物が増える、ってね」
逆に便利という言葉に、ジーンはぞっとする。
「そうか。いつも船人たちと一緒だったか。今は船人もいないし不慣れな陸地だ。俺は泳ぎは得意じゃないが、陸のことならお前より詳しい。俺はイーファと旅をしていきたいよ」
「ほんとにいいの? 私は心強いけど」
「いいさ。もともと俺は死ぬまであちこちをフラフラするつもりだったんだ。つまらない時間潰しの人生になるはずだったんだ。でも今はイーファと旅をすることが楽しいよ」
そう言ってジーンが笑った。本心だった。
国を追放され、生きる目標を失い、いつ死んでもいいと投げやりだった日々に気力が戻ってきたのはイーファのおかげだ。
「迷惑をかけるだろうけど、ジーンが嫌になるまで、じゃあ、旅をしよう!」
「ああ。そうしよう。イーファと一緒なら、俺はじいさんになって死ぬまでずっと楽しめるよ」
結構はっきりと気持ちを伝えたジーンだったが、イーファは抱き上げたチルダに顔を舐められて笑っていて聞いていなかった。
ジーンは苦笑して荷造りを再開する。
二人は少ない荷物を馬車に積んだ。猫のチルダはイーファが抱いた。
「ジーン、どこに行こうか? 私はどこでもいい。知らない世界を見られるならどこでも!」
「草原を超えて山も越えると国境を越えることになるが、行ってみるか? 大都市があるはずだ」
「大都市って、ナーシャより大きいの?」
「広さで言うとナーシャの十倍以上は大きい。人も数百倍はいると聞いている。アルズール帝国は多民族国家で賑やかな国だ」
イーファは子供のように目をキラキラさせ、両手を組んで想像しているらしい。
「私、そんな賑やかな場所、見たことも聞いたこともないわ。行きたい。行ってこの目で見てみたい!」
「ああ、二人で行こう。きっとまた楽しいさ」
こうして二人は隣国、アズール帝国へと馬車の旅を始めた。
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ソトナギルドで仕上げられたバイターの剥製は見せ物として人気となり、しばらくの間、ギルドは町の人々のみならず近隣の村人まで集まって、ちょっとしたお祭り騒ぎになった。
コルビーは時の人だ。
海の民と共にバイターと戦った人として、コルビーは何度その時の話をさせられたことか。
今夜も酒場で数人の若い漁師たちとコルビーが酒を酌み交わしている。
「コルビーさん、イーファさんはまた帰って来ますかね?」
若い漁師が尋ねた。
「気が向けば帰って来るだろうよ」
コルビーがエールを飲みながら返事をした。
「で、その、コルビーさんは彼女の水着を見たんですよね?」
「ああ、見たぞ」
「それで、あの、噂で聞くような海の民の水着でしたか? あの日に参加した四人の奴らが色々言うんですけど、ほんとかなって。ホラ吹いてるんじゃないかと思うんですけど」
「いいや。噂で聞いてたよりよっぽどアレな水着だったぞ」
コルビーが笑って答えると若い漁師たちががっくり肩を落として嘆く。
「ええええ! あの美人がそんなアレな水着を? 俺たち、なんで参加しなかったかなぁ」
この辺りは夏でも女性は肌を見せないのが常識だ。ふくらはぎでさえ、人に見られれば若い女性は慌てるし、見てしまった男はドギマギするものだ。
若者たちは巨大魚討伐に参加しなかったことを長いこと後悔したのだった。




