ピラミッドプロジェクト
あの不思議な出来事は、一九九八年初春、庭で遅い朝食をとろうとしていた私の左の親指に綺麗な黄色の斑点のてんとう虫が留まったところから始まり、そして、私の腕時計のベルトの所まで、そのてんとう虫が移動した、わずか七、八秒の時間の経過の間で終わった。しかし、私の記憶の中ではその出来事は六ヶ月に及ぶ出来事であった。現実に経過した時間と記憶の中で経過したはずの時間とのあまりにも大きな「ずれ」を、私の中で、どう説明したらよいのか今でも困惑している。
現実の時間と記憶の中の時間との「ずれ」を、夢、幻想、妄想、何とか私自身の中で説明し、納得しなければ、私はもはや現実の時間の経過の中では生きていけないような気がしている。
現実に経過した時間と記憶の中で経過したはずの時間の「ずれ」。これを現実の時間に嵌め込まないと、それをいつまでも引き摺って生きていく。まるですべてのパーツを嵌め込んで完成したはずのジグソーパズルに、数十枚のパーツが余ってしまって、いつまで経ってもジグソーパズルは、終わらないといった不条理な重苦しさを感じでいるのである。私は今、もう一度、記憶の中の時間を一枚一枚確認していくという作業を始めないわけにはいかない。現実の時間では七、八秒。そして私の記憶の中では、少なくとも六ヶ月間に起きた不思議な出来事である。
第 一 章
現実の時間と記憶の中での時間の接点。分岐点。あの黄色い斑点のてんとう虫が私の親指に留まった「瞬間」からすべてが始まった。
私はあの頃、都内にある中堅の広告代理店の営業マンとして、数社のクライアント(取引先)を担当し、連日深夜の帰宅が続いていた。あの日も、前日明け方に家に戻ったため、十一時まで熟睡してしまい、恋人の真里子からの電話で目が覚めた。
「祐介。もう本当にいい加減にしてくれない。昨日、何時間待っていたと思うの。一時間半よ。九十分。五千四百秒よ。忙しいのはわかるけど何で電話してくれないのよ。」
真里子はもともとある雑誌社の専属モデルだったが、どんなきっかけだかはわからないがいつの間にか、その出版社の正社員として採用され、今は編集の仕事をしている。
「ごめん。電話したんだけど。」
「三人の男の人から声をかけられたわよ。千四百秒に一人の割合。あと三秒待って四人目の素敵な人が現れてたら祐介とは今こうして話してなかったかも。祐介は私をいつもほっといて、心配じゃないの?」
「心配していたら切りないし。」
「あ。祐介。私のこと心配しているんだ。」
「心配してたら切りないから、心配してない。」
「もういいわよ。じゃ、さよなら。」
千四百秒。あと三秒・・・・・・。
私は真里子との電話の後、晩い朝食をとるために庭のガーデンテーブルに腰掛けて、もう一度、昨夜の会議のメモを見ながら企画書に手を入れていた。その時、あの黄色い斑点のてんとう虫が私の左の親指に留まった。今、思い出しても今まで見たこともないような本当に綺麗な黄色い色であった。そして何故か、懐かしい思いがしたのを覚えている。それは黄色い色に懐かしさを覚えたのか、或いは、てんとう虫に対してであったのか、てんとう虫を介在にした何かの出来事に対しての私は懐かしさだったのか。いずれにしても遠い過去の忘れてしまった記憶に対しての懐かしさであった。あの、「瞬間」てんとう虫の黄色い斑点を見ていると、まるで映画のようにズームアップから、フェイドアウトし、フェイドインするように月が見えてきたのである。そして、私は、早川満の鎌倉の高台にある眺めの良いマンションのバルコニーに居た。そう、あの不思議な出来事は、そこから始まり、その時から私の嵌め込むことの出来ない「瞬間」に迷い込んでしまったのである。
満月。もしかしたら、あの出来事は、一九九八年の秋から始まったのかもしれない。だとすると私の記憶の嵌め込むことの出来ない時間の「ずれ」は一年程だった事になる。今、私が記憶の中で覚えている六ヶ月あまりの時間―。それは、あの出来事が記憶されているので六ヶ月と記憶の中の時間を認識しているのにすぎず、あと七ヶ月間は、記憶の中で忘れてしまった認識することの出来ない時間が経過していたのかもしれない。いずれにしても今となっては、一年であろうと六ヶ月であろうが、七~八秒の現実の時間と記憶の中での時間の経過との大きな「ずれ」が問題である事には、変わりはない。
「祐介、オレ最近すごく気になる事があるんだ。」
早川満は、私より五歳年上の三十八歳。グラフィックデザイナーである。五年程前に知り合い、仕事を越えた付き合いをしている。私は彼が好きで、そして、どこか尊敬している。
「気になるって、何が気になるんですか? 早川さん。」
「『山』だよ。『山』。」
「『山』って、あの富士山の『山』ですか?」
「そう、その『山』だ。」
「でも気になるって、どういう意味で気になるんですか。」
「わからない。とにかく気になるんだ。『山』が。」
早川満は、デザイナーとしてのデザインの才能より、アイデアを出す事には、天才的な才能を持っている。彼曰く、彼のアイデアは、ある時、突然誰かが囁くようにして頭に浮かんでくるそうである。
「早川さん。『山』というのは何か仕事と関係あるんですか?」
「仕事とは、全然関係ない・・・。多分。ただ気になるんだ。『山』が。」
「あの、すみませんけど、昨夜のA社の雑誌広告の展開の打ち合わせに入りたいんですけど、いいですか?」
「あ。そうか。祐介。お前今日は、そのために来たんだっけ。わるい。わるい。」
確かにあの時、私は早川満とあの黄色い斑点のてんとう虫を見た前日の夜、仕事の打ち合わせをしていた筈である。という事は、黄色い斑点のてんとう虫を見たその瞬間に三月の昼から、十月の夜に時間がずれたことになる。その七ヶ月間の記憶の中での時間の経過は、私には認識する事が出来ない。一体私は、記憶の中で認識できない七ヶ月程の間、何処で何をしていたのだろうか。
早川満があの時に、『山』が気になると言った事で、あの出来事のすべてが始まってしまった。いや、私が、『山』と言う事を考え、あの事を思いつかなかったら、恐らく迷い込んだ時間の中から、現実の時間に戻れた筈であったに違いない。しかし、私はあの事を思いついてしまったのである。
「もしもし。祐介。少しはこの前の事、反省している?」
「ああ。真里子。反省しているよ。これから遅れそうになったら、必ず電話するよ。真里子、わるいけどこれから企画会議なんだよ。終わったら電話する。」
「あっ、ちょっと待って。少しだけいいかしら?」
「ああ。少しだけなら。」
「私、はっきり言って迷惑なんだけど。」
「何が?」
「今日、朝早くに早川さんから電話があって、登山家の石黒一郎を紹介しろって突然言うのよ。確かに先月号でうちの雑誌で登山家の特集やって、私、彼を取材はしたんだけど。」
「紹介ぐらいしてやればいいじゃないか。」
「そりゃ。早川さんのお願いならそのぐらいの事はするけど、『どうしてですか?』って聞いたら早川さんたら、『別に』って言うのよ。『別にって言われたって、どういうふうに、石黒一郎に紹介すればいいんですか?』って聞いたら、彼、何て言ったと思う。『山が気になるから彼と会ってゆっくり山について話を聞いてみたい』って言うの。凄く有名な方なのよ。石黒一郎は。山が気になる人がいるので、ご紹介しますのでお話しして下さいなんて、言える訳ないでしょ。」
「・・・・・。」
「祐介。あなた、聞いているの?」
「ああ・・・。聞いてる。真里子、本当に悪いんだけど会議始まるから・・・。今夜、イル・バローロで食事でもしよう。その時、話をゆっくり聞くから。とにかく、僕の方から早川さんには電話しとく。」
「わかったわ。今夜ね。遅れちゃダメよ。」
早川満は、二十代でACC賞を取り、それ以来デザイナーとして陽の当たるところで仕事をしてきた男である。彼のアイデアはデザインのレベルで優れているだけでなく、かならずマーケティングプランにまで応用出来るもので、そのアイデアは常に計算されているものであった。私は早川満と組んで仕事をしてきたことでクライアントと社内から、絶対的な信用と評価を受けてきた。その早川満とは、五年の付き合いになるが、今迄決してアイデアから私に説明した事は一度もなかった。時代分析から始まり、マーケティング分析、ポジショニング分析といった論理的な長い説明の後に、だからこのアイデアだ。といった具合に説明し、そのアイデアは常に論理的で説得力のあるものであった。そんな早川満が、『山』が気になるんだと言うのは、一体どういう事なのだろう。私はその好奇心から早川満に電話をする事にした。
「早川さん。あまり真里子に無理言わないで下さいよ。彼女、困っているみたいなんで。」
「何の事だよ。祐介。」
「石黒一郎の件ですよ。訳もなく突然『山』が気になるなんて言いだすなんて、一体どうしたっていうんですか? 早川さんらしくないですね。」
「俺らしくない事はわかってる。でもどうしても『山』が気になるんだ。」
「いつ頃から『山』が気になり始めたんですか?」
「一週間ぐらい前からだ。突然、『山』っていうのが頭に浮かんできて、それ以来、思考すると必ず『山』が浮かんでくるんだ。」
「でもまたなんで『山』なんですか。早川さん、いつもの様にもっと論理的に話して下さいよ。」
私は、たたみかけるように言った。
「なあ祐介。俺は、今迄デザイナーとして一流の仕事をしてきたが、その基本は俺の天才的なアイデアだ。突然、頭に浮かぶアイデアだ。しかし、アイデアといってもそこらのデザイナーがふと浮かぶ安っぽいデザインのアイデアとは質が違う。俺は、しっかりとクライアントの市場環境から、商品の特性、競合状況、訴求ポイントを徹底的に調べ上げ分析し、考え抜いて初めてアイデアがふと浮かぶ。だから、俺のアイデアには、しっかりとしたアイデアが生まれた根拠がある。」
早川満は、しっかりとした口調で言った。
「早川さん、私は早川さんと付き合わせてもらって五年ですよ。そんな事は誰よりも私がわかっていますよ。だから『山』っていう発想をもっと論理的に説明してほしいんですよ。」
「祐介。『山』だよ。『山』。これは、天才的なアイデアなんだ。自信がある。でも今回は、そのアイデアの根拠が情けないんだけど、俺自身わからない。寝た覚えの無い女に子供を産ませたって感じだ。もっとも『山』だけじゃアイデアにもなってない。でもキーワードは『山』だ。間違いない。」
早川満はいつともなく混乱していた。
「わかりました。ちゃんと会って話ましょう。今夜、真里子と食事をする約束しているんですが、よければ一緒に食事をしませんか?」
「何処で、何時だ?」
「八時にイル・バローロです。」
「わかった。」
「それじゃ。八時に。」
「あ、祐介。」
「何ですか・・・。」
「わるいな・・・。」
「えっ。」
「・・・こんな事お前にしか話せない。」
「いいんですよ。早川さん。」
私は、早川満が根拠ない発想といいながらも『山』という発想に絶対的な自信を持っていることに大きな好奇心と興味をいだいていた。