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2話:須磨子が店長と結婚

 一方、弟の宗田恒夫は姉・須磨子の勘の良さを信じて1997年

11月4日、初値の200万円で1株、200万円買い、残金が

800万円になり、念のため須磨子も1株200万円で買い残金が

300万円となった。その後、上昇を続け、更に2回の2分割をして

株数が4株に増え、とんでもない金額になった。しかし姉を驚かそう

と思い誰にも言わなかった。そして2000年1月18日、1億円に

近づき1億円の指値で売りを入れ見事に売れて、税引き後利益が

31400万円、残金を加えて31800万円となった。その後、

下げ始めたら成り行き売りを考えて目を離さなかった。やがて

2000年が空け、宗田家の4人で近くの神社に、初詣でに行き、

商売繁盛、家族の健康と祈願して来た。


 その後、ヤフー株の話を宗田恒夫が家族に話すと目を丸くし信じられ

ないと言った。その後ヤフー株が下がり始めた。その後ネットバブル

が崩壊し、日本株は値段の高い株から大きく崩れた。父の宗田健蔵は

本牧で飲み屋を継続し母も一緒に、夜、店に出て、つまみや、水割り

を作ったりして手伝っていた。宗田恒夫のヤフー株の事を聞いても

ピンとこなくて、にわかに信じられないという表情だった。しかし母は、

でかしたと、笑顔で宗田恒夫と宗田須磨子の肩をたたいた。その頃、

有隣堂の本店・店長の鶴見辰男と宗田須磨子は仲良くなり休みの日は

映画を見たり食事をした。そして宗田須磨子に大金が入ったと聞くと、

どうだ一緒に独立して好きな本とCD、レコードを売る店と今流行の

カラオケ店を開かないかと言った。


 いくらかかるのと行くとビルの部屋の敷金、礼金で500万円、月々

18万円の家賃だと言い、店を改装費用はと聞くと500万円で初期費用

が合計1000万円と言った。少し暖かくなり桜木町駅周辺を散歩してる

とシティバンクと書いた派手な看板が見え気になったのでそのビルの地下

のシティバンクに入って見ると米国の銀行で外貨や投資信託に強い銀行だ

と説明してくれた。大きな金額なら特に有利ですとゴールドメンバーの説明

を始め聞いてると新しく1000万円以上の大口新規顧客には特別サービス

とボーナスとして数万円相当の商品を差し上げ、その上ゴールドカードの

無料サービスなどがあり夫婦2人のご加入なら旦那さんが奥さんを紹介

したという手続きをすると数万円相当の商品が更にもう一つ2人で3つ

もらえると説明された。


 須磨子は、すっかり、その気になってしまい加入しましょうと旦那さんを

誘い1000万円ずつを入金すると言いメインバンクのYKの銀行から

シティバンクへ入金処理をした。そしてシティバンクへ行くと15分後、

入金が確認されましたと言われ、所定の用紙に必要事項を書き込むと数日後

、高価な商品3点とシティバンク、キャッシュカード、ゴールドカード、

ドルカードが自宅に送られてきた。その後、毎月、有名ホテルで日曜日の

無料で勉強会の招待状が届き昼食もついてると書いてあったので宗田夫妻

は出かけた。その後、この話を弟の宗田恒夫にも知らせゴールドメンバー

を奨めて紹介者として高価なフランス製の圧力鍋の景品をもらい家で

使い始めた。


そして2000年10月、豪ドル円が下がってきたので買いだと

シティバンクのスタッフから言われ、シティバンクの口座を増やし

6000万円ずつに増額した。2000年10月26日にシティバンク

の担当者から電話で1豪ドル56円で買うと良いと言われ、直ぐ買い

、為替手数料1円入れて57円で10万豪ドルずる宗田須磨子と恒夫で

2850万円ずつ20万豪ドルを合計11400万円で買い資産の残金が

約2億円になった。父の飲み屋から30mと直ぐ近くでありカラオケ屋

の小料理なら、うちから持っていくよと母が笑いながら言った。

そうして2001年4月4日、不動産屋と契約して5月1日から営業

開始した。その時「ゆず」から開店祝いの花輪がとどいて5月5日、

横浜での仕事に来た「ゆず」が店に顔を出してくれることになった。


 前もってチラシやインターネットで宣伝しておき当日は満員御礼で

混み合って、それでもマイクをセットし、「ゆず」の名曲「飛べない鳥」

を生で歌ってもらうと大歓声に包まれた。その後も繁盛していった。

 その後、5月16日水曜日、店の定休日に一緒に仕事している鶴見辰男

33歳と宗田須磨子31歳が身内だけ5人で店のカラオケルームで簡単な

結婚式をした。その日の夕方、結婚届けを役所に提出し宗田須磨子は正式に

鶴見須磨子になった。鶴見辰男さんは新潟市出身で実家には祖父母と両親

と兄弟3人の6人の大家族で暮らしていると話した。その後、鶴見須磨子

は新刊本を読んでは、その解説を紙に掲げて売る方法で本を売った。

もちろん、近流行のコミック本も並べて売った。


その他、旦那さんも本と音楽好きで自分の気に入った作品の宣伝を入れた

ポスターを作り販売促進に活躍していた。2001年は芥川賞の

玄侑宗久作の「中陰の花」を読んで鶴見須磨子で考えたキャッチ・

フレーズを書き販売した。可愛い絵本も鶴見須磨子が選んできては若い

ママさんに勧めた。しかし2001年4月からは損益分岐点ギリギリ

まで売上が落ち遂に店をたたむ決意をせざるを得なくなった。それ

以外にも新しい企業の名前を言っても姉は、わからないと答えた。

すると、ありがとうと言って本を数冊とCDを数点、気を使って

買っていった。


 2002年以降はスマートフォンの普及と共に何故か本屋は下火に

なり売れなくなった。仕方なく本とCDの場所を半分にしてカラオケの

部屋を4つ作り、そちらをメインにして商売をしていくと昼間は暇に

なった。そこで店を全部、個室に分けて10つの個室にして飲食可能な

会議室として営業時間を朝8時から夜22時までとして2時間2千円、

または4時間3千円で貸す様にすると、中高年の人達のカラオケ、会議

、講習会、勉強会での利用が増え、昼と夕方は食事付きの会議、カラオケ

で赤字にはならないが従業員を雇う程でもない位の収支まで回復した。

そして2003年を迎えて両親も居酒屋経営が厳しくなってきて店

を閉めると決めた。鶴見辰男と須磨子も店の家賃を払うのがやっとの

状態になり2003年2月18日店を閉めることを決意した。そして

祖父母が住んでいた本牧の屋敷跡のアパートも地区40年を越えて建て

替えてアパートを経営するか、更地にして土地を売るか自分達の家を

建てるかの3つから選択しなければならなくなった。この件について

4人で家族会議を開くと自分達の家を建てようという意見が3人いて

、これに決まった。

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