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1話:須磨子、本牧で生まれ「ゆず」と出会う。

 宗田健蔵は1948年7月29日に本牧、三渓園の近くで生まれた。米軍住宅が多く外人さんの多い地域で多感な青春時代と送った。1968年10月、本牧のバーで同じ年の奥さんになる緑川織絵と知り合い、同棲し、宗田須磨子と弟の宗田恒夫が生まれた。宗田須磨子は物心ついた3歳の頃には好き嫌いが激しく人の心を読める不思議な才能をもっていた。 母の織絵が買い物に行ってくると言うと笑って、嘘、パチンコ屋に行くのでしょと言い当てることが、しばしばあり気味が悪いほど当たった。そして小学校3年の時にはジプシーと言うあだ名がついた。


 その頃、ジプシー占いというのが流行っていて何でも当たる占いとして有名になった。しかし自分しか、わからないと悟ると何か寂しい思いになり友達ができない独りぼっちの子になった。その代わり興味のある本を読んだり洋楽、邦楽を聞いていた。両親が誕生日プレゼントに何が欲しいと聞くと、ラジカセと言うので買ってもらった。その後、グループサウンドが好きになり地元のゴールデンカップスが一番のお気に入りとなった。その中でもデイブ平戸の大ファンだった。


 次に柳ジョージとレイニーウッドのコンサートにも出かけた。地元の中学で成績優秀で余り努力せずにクラストップになり特に英語と数学は抜群だった。その後、高校は神奈川県立緑が丘高校を卒業し橫浜市大経済学部を卒業した。一方、弟の宗田恒夫は小さい頃から足が速く中学からサッカーを始め足の速さを利用しフォワードをして多くの点数を上げ女の子にもてた。しかし勉強の方は今ひとつであり、また、それ程、好きではなく中学卒業後、橫浜商業に入った。


 宗田恒夫は女の子にもててバレンタインデーの時は大きな袋に一杯のチョコレートを家に持ち帰ると母と姉が紅茶を入れ、おいしそうにチョコレートをいただいた。やがて宗田恒夫は橫浜のYK銀行に就職し、宗田須磨子は大学に入り真面目に授業に出て、本を読み、その頃、大学合格祝い両親にウオークマンで買ってもらい多くのアメリカ、ヨーロッパの音楽を聴いた。そして大学卒業すると仲間が競争して良き就職先を奪い合っている時でも落ち着いていた。よく行く有隣堂書店で仲良くなった店長さんに雇って下さらないと聞くと別に大学生でなくても大丈夫ですと、やんわりと断られた。


 しかし、この職場の雰囲気は好きなのと言うと採用しても給料は高卒の人と余り変わらないが、それでも良いなら採用すると言われ入社した。入社後、伊勢佐木町の本店で本売り場の場所を変えたり○○フェアーと銘打って多くの企画を立て販売数量を上げて店に貢献して店長からも社長からも喜ばれて基本給は高くないがボーナスは他の人の2倍以上もらう様になった。そして彼女のすごいのは新刊本を読んで、これは○○歳の女の子の乙女心をくすぐる。


 そのため、ここに置き大々的にキャッチフレーズを書き込んだ横断幕を貼り売り込むと、売り切れ続出し、この本は、こんな感じの○○歳位の男性、高齢者にはこれとか、的確にヒット商品を作り出すと評判になり有名な作家も新作を大量に売って欲しいもので、お土産を持ってくるようになった。しかし須磨子にも欠点があり、それは集中力があるが長続きしない直ぐ疲れて店の奥で休む時間が多かった。それでも貴重なヒットメーカーなので上司からは大事にされた。


 特に社長が気に入り年に1,2回、家族旅行に特別に招待してくれた。夏のイギリス湖水地方、北欧3国、カナダ、冬のラスベガス、ハワイ、オーストラリア、ニュージーランド。そして1996年入社4年目の26歳には本店の副店長に抜擢された。店の近くには松坂屋があり宗田須磨子は松坂屋パーラーでコーヒを飲んだ時、夕方、フォーク・デュオのストリートミュージシャンが目にとまった。この子達は将来売れるよと多くのサインをもらった。


 しかし当初、観客は少なく可哀想で新曲のカセットテープを5百円で買った。 そして徐々に観客が増え出した。そんな時、弟の宗田恒夫は真面目にYK銀行に勤め営業成績が良くなかったので内勤の経理の仕事をした。そしてインターネットで株取引をして儲けてやると息巻いていた。もちろん姉の勘の鋭さをよく知っていて株の雑誌を見せて、どんな株が上がるかなーと漠然と聞くとヤフー新規上場の記事が載っていてって面白いと言った。

 

 またソニー・ウオークマンの愛用者でもあったのでソニーの下げた所も買いと言いソフトバンクと言う名前も面白いと言った。宗田恒夫は、その話をしっかりと手帳に書き込んだ。宗田恒夫が姉に貴重な情報ありがとうと言い、もし姉ちゃんの言った株でも儲けたら儲けの半分やるよと笑いながら言い部屋を出た。その後、宗田恒夫はN証券橫浜営業所に証券口座を開いて将来、投資を始めるため、無駄なお金は使わずにしっかりため込んでいて6年間で1千万円を貯めた。


 ちなみにその頃、宗田須磨子も株投資するから弟の宗田恒夫と同じN証券橫浜支店に口座を開い。この頃、宗田須磨子の興味がある事は横浜中華街のおいしい店と関内周辺の旨い洋食と元町通の素敵な洋服屋だった。そのため、お金は500万円と弟の半分程度だった。しかし本人は仕事が終わると松坂屋の前で「ゆず」のストリートライブを聞き楽しい人生を過ごしていた。1998年には最初のシングル「夏色」2枚目のシングル「少年」を2人のサイン入りレコードを買うとサービスですと5枚くれて有隣堂でも置いてくれるように、お願いしますよと言われた。


 その後「ゆずの家」という最初アルバムをも同じようにして須磨子に手渡した。この頃、急にブレイクして有隣堂の一角に「ゆず」と書いてレコードを置いた。レコードが、すごい勢いで売れ売り切れた。その後、急に須磨子の働く店に来て「ゆず」がサイン会をしてくれると言う話となり来ると店に入りきらない程の、お客さんが殺到した。そして「からっぽ」が売れはじめ、売上が4位になり「いつか」、「サヨナラバス」も4位「センチメンタル」が3位、「友達の唄」が2位、「嗚呼、青春の日々」「飛べない鳥」で、ついに念願の1位を獲得して「ゆず」の人気に火がついた。

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