ピンク・ハウス
七月二十二日(木)、停電発生から七日目。いまだ他地域からの支援はない。なにせ三千万人を抱える関東全域を含む地域が停電し、日本だけでなく世界各地が停電に陥っている。さらに、地震や台風などの災害と違い住むところはあり、水もトイレも使えるので、さほど危機感を煽らない。電力供給も移動手段も買い物(支払い)する手段もない状態が続き、そして、まもなく多くの家庭で非常食が尽きる。
夕方、再び渡辺からバイクを借り、小物屋のヒューマノイドを充電のためハイウェイのランプ下まで送り迎えしたのが一日の活動のすべてだった。マンションの階段で待ち構える花玲奈の姿もなかったので追い出す手間もない。手持ち無沙汰の真理も水島も暗くなる前にシャワー(水しか出ないし、非常灯しか点灯しないが)を浴びた。水島がバスルームから出ると外はもうだいぶ暗い。真理は書斎で非常灯の明かりを頼りにクレオの顔のスキンケアをしている。
「(女性型ヒューマノイドはケアが大変だなぁ)」水島はそう思いながら、キッチンの収納から2人分の非常食を、電気の入ってないワインセラーからジンファンデルを一本取り出す。水島が非常食を発熱剤で温めていると、真理は長い髪をタオルに包んでキッチンにやってきた。
「あら、今日はカレーライスね?」
「見える?」
「いいえ。でも、カレーの匂いがするわ」
「昔、インド人の友人がカレーにはジンファンデルが合うって言ってたので、今日はこのワインを飲もう」
水島が暗いキッチンでワインオープナーを探していると、リビングの片隅に置いてあった玩具の照明がふわりと夕陽色の明かりを灯した。海からの風が吹きはじめてベランダの小さな風車が回りはじめたようだ。
「素敵ね、ロウソクのともしびみたい」
水島はオープナーを見つけてテーブルに戻り、ワインの栓を開けてグラスに注ぐ。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
グラスを合わせ、一口飲むと、水島はカレーライスに集中して一気にたいらげた。
「意外と美味しいわ、この非常食のカレー」
「うん・・・」
「何か考えてる?」
「うん。・・・先日、渡辺さんの家の前に集まってきた奴らのこと」
「電気のことばかり言ってた連中?」
「うん、奴らのこと」
「ちょっと怖かったわ、あの連中」
「同感。電気を求めてさまようゾンビみたい」
「電気ゾンビ、『電気〜、電気〜、電気〜』、目付きがヤバかったわ」
「電気を奪うためにメルクーリを襲ったりしないよね?」
真理は真剣な顔で考える。薄暗い部屋の中、夕陽色の照明で真理の目元と銀のスプーンが金色に光る。
「あの体たらくでは、ここから、メルクーリまで歩いていく体力ないでしょう」
「そうだよね」
水島は、空になったグラスにワインを注ぎ、いつもはグラス2杯でワインボトルを下げてしまうクレオがいないことを寂しく思いながら、今日は3杯飲もうかとも考えた。そして、真理がカレーの残りを平らげようと非常食の容器を傾けていた時だった。外で人が叫ぶ声が聞こえた。はじめは、酔っ払い連中が騒いでいるのかと思ったが、次第に声の主の数が増え、怒鳴り声も聞こえだす。水島は、何事かとベランダに出る。ジメジメと蒸し暑い夜に喧嘩のように言い争う声。普段より真っ暗な街、右側から時々、懐中電灯の光がチラチラする。すると、今度は『ガシャン』と窓が割れる音が響き、女性の悲鳴が上がった。
「どうしたの?何が起こってるの?」
「分からない。隣の野菜工場からだと思う」
そういうと水島は玄関へ向かった。
「今は行かない方がいいんじゃない?」
真理の言葉には耳を傾けず水島は部屋を飛び出し、真理も水島の後を追った。
水島のマンションと細い路を挟んで反対側にある野菜工場は、外からは歴史のありそうなレンガ造りの倉庫に見える。工場 兼 野菜の直販オンラインショップであり、水島は多くの野菜をここから購入している。お洒落な木の扉があり、その左右にアンティークなデザイン・フレームのウインドウがあり、少量だが、店舗でも加工食品を販売している(手作り高級加工食品のショールーム)。その右のウインドウが大きく割れていた。木の扉が開け放たれ、十人くらいの人影が懐中電灯やランタンを手に室内を物色している姿が見える。ドアの左へ目を向けると暗がりに女が一人、握った両手を口元にあて茫然と立ち尽くしていた。水島には見覚えのある女だ。この野菜工場の関係者で散歩の時に何度か挨拶したことがある。水島は、脅かさないよう、ゆっくり女に近づき声をかける。
「何があったんですか?」
女は涙を流し、悲壮な顔を浮かべながら、一瞬、水島へ顔を向け、手のひらを開き顔を覆いながら再び左側の窓から室内を見つめた。
「わた、わたしの工場が・・・」
すると、数人の男が何かのタンクを抱えて扉から出てきた。ショールームの奥では、寝ている小柄な女性を椅子に座らせている男がいる。その女性はヒューマノイドだろう。扉からは女性をおぶった男がまた一人、中に入っていった。中からは、喧嘩している声が聞こえる。
「これって、・・・こいつら、電気を強奪してる?」
「電気がないと野菜たち、明日には死んじゃうわ・・・」その女の声はかすれ、最後の方は何を言っているか聞き取れなかった。水島は、中の輩へ向けて叫んだ。
「おい、今、重要なのは食料の確保だぞ。そのためには、この工場を動かす電気が必要なんだぞ!」
しかし、水島の叫びに耳を傾けるものはいない。なおも叫ぶ。
「これは強盗だぞ、犯罪だぞ!ここの電気は、食料維持に欠かせないんだぞ!」
唯一の返事は2、3秒後に届いた。
「うるせぇ」
大きなタンクを担いだ男が扉から出てくる。それを奪おうと後ろから別の男が飛びかかり、二人が喧嘩している間に、三番目の男がタンクを奪って駆け出した。喧嘩をしていた男たちは、慌てて、その男の後を追った。タンクのラベルから、それは燃料電池のタンクと分かる。ショールームの中を覗くと、4人の男がヒューマノイドを充電していた。彼らは一様に興奮した表情をしているが悪びれた感じはない、それが水島には不気味だった。
「真理、この人を連れて僕の部屋に避難してくれ」
「ケイはどうするの?」
「何が起こってるのか見てくる」
「何言ってんのよ、危険だわ!」
真理の言葉は聞かず、水島は野菜工場の中に入った。電気強奪犯が灯す明かりで室内は十分明るい。水島という異分子が侵入してきたのだが、強奪犯は気にすることなく電気を奪い続け、今使ってる場所を奪われないよう電源(有線と無線、両タイプある)の前で見張っている。水島は、店の奥へ進み、そこにあったドアを開けてさらに中に進む。すると、もう一つ扉があり、その窓からは、赤紫色の光に照らされた幾重にも並ぶスチールの構造物が見えた。野菜の育成に適したピンク色(赤と青のLEDの混色)の照明を用いることから、野菜工場は『ピンク・ハウス』とも言われるが、そのメルヘンチックなエリアからは殺伐とした空気が漂う。水島が、扉の前で佇んでいると、短髪で浅黒い顔をした大柄な男が大きなタンクを抱えて『ピンク・ハウス』から現れ、すれ違いざま水島を一瞥したが、何も言わずに店の方に去って行った。水島は意を決して『ピンク・ハウス』の扉を開けて中に入る。
薄い赤紫の照明で照らされた空間には野菜が植えられた棚が整然と並んでいる。パッと見は整頓された空間に見えるが、電源のあるところには、どこも男女(男が人間、寝ている女はヒューマノイド)が陣取り、側でそれを待つ男が並んでいる。おとなしく並んでいる男もいれば、順番を待ちながら口汚く他の男を罵っている輩もいる。取っ組み合いの喧嘩もあったのだろう、一部の棚が崩れて野菜とともに水が床に撒き散らされている。時折、罵声が聞こえる。隅の通路を警戒しながら歩いていくと曲がり角に階段があり、水島は一番上の3階まで登った。
3階ではトマトが栽培されていた。水島が敷地の真ん中の道を進むと、男が一人、手を広げて水島の侵入を阻止した。その男の後ろを見るとやはり女が寝ている。そこに電源があるのだろう。水島がおとなしく踵を返して戻りかけた時、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「コントローラ見つけたぜ!電気、もったいねぇから、照明もセンサーも給水もロボットアームも、全部、オフにするぜ!」
そう叫ぶ声が聞こえると、まもなく『ピンク・ハウス』の赤紫色の照明が消え、男たちの持つ懐中電灯やランタンがあちこちで光りだした。
「(この階だけで十二、三人かぁ)」
水島は、暗闇を手探りで来た道へ戻り、階段のところまで辿り着いた。そして、もう一度、振り向いてフロアを見届けようとした時、背中に鈍い衝撃があり、飛ばされた勢いで階段近くの棚にしこたま額をぶつけた。水島は振り向き、目の前の暗闇を睨みつけたが何も見えない。十秒ほどそのままの体勢でいると右の闇から誰かが走り去って行く音が聞こえた。気付くと右手にトマトを握っている。突き飛ばされた時に無意識に手を出した先にあったのだろう。
「(こいつら、この非常時に食料には無関心かよ)」
左頬に額から液体が流れるのを感じ、水島はとにかく、ここを出ようと決めた。
水島が部屋に戻ると、ソファでは、真理が野菜工場の女を慰めていた。
(真理)「遅いんで何かあったのかと、・・・えっ、血?それ、血じゃない?」
水島は手に持っていたトマトをキッチン・カウンターに置き、テーブルにあったグラスの水を一気に飲み干した。真理は急いで駆けつけると、額の傷口を確認し、水島から救急箱の置き場所を聞き出し、それのあるバスルームへ向かった。水島もバスルームへ向かい、洗面台で顔を洗う。
(真理)「暴動に巻き込まれたの?」
(水島)「いや、・・・暗闇で誰かに突き飛ばされて、・・柱に頭ぶつけた」
(真理)「そいつ、わざとやったのかな?」
(水島)「わからん、みんな興奮状態だったから」
水島の額の傷は流れた血の割には軽症だった。真理に何やらスプレーを傷口にかけられただけで、包帯もバンドエイドも貼ることなく治療は終わった。
(真理)「だから、今、行かない方がいいって言ったのに!」
(水島)「行かないと何が起こってるか分からないだろう」
(真理)「何が起こってるの?」
(水島)「・・・奴らの目、正気じゃなかった。それから、奴ら、仲間というわけではなさそうだった」
(真理)「強盗団ではなく、・・・停電で起きた暴動ってこと?」
(水島)「うん、見ず知らずの人々が共通の不満を口にしているうちに暴挙に出た、たぶん」
水島と真理はバスルームからソファへ向かい、真理は女の隣へ、水島はソファ・テーブルを挟み真理の正面、女の斜め前に座った。女は野菜工場のオーナー経営者で山本と名乗った。年の頃は40代半ばだろうか、華奢な体に気の弱そうな表情で水島に礼を言った。山本の自宅は、野菜工場のすぐ横にあるそうだ。山本の話では、電気強奪犯は、当初、数名で山本の家を訪れ、唐突に野菜工場を解放するよう要求した。山本は、最初、何を言っているのかよく分からず、閉店後なので、明朝、また来てくれと頼むと、突然、怒鳴り始めたという。集まった人の数は、あっという間に数十名に増え、そのうちの一人が山本の家のドアを激しく蹴ると大声でわめき散らし、それをきっかけに囃し立てるように山本に罵声を浴びせ、隣の野菜工場からは店舗の窓ガラスが割れる音が聞こえ、目を向けると窓から侵入した輩が内側から扉を開け、そこにいた人々が次々と室内へなだれ込んで行ったという。
(真理)「一体、どんな連中なの?ゴロツキ?」
(山本)「・・・」
(水島)「・・・僕が見た限り、どこにでもいる、ごく普通の人たちだった」
水島は、ゆっくり話し続けた。
(水島)「奴ら、ヒューマノイドの充電のための電源を争っていたけど、僕が帰る頃には割と秩序正しく充電していた。『ピンク・ハウス』の中も見てきたけど、喧嘩で幾つかの棚が壊された程度で野菜は無事だった。奴ら、節電のためと言って『ピンク・ハウス』の照明もセンサーも給水もオフにしやがったけど」
(真理)「・・・奴ら、まだいるの?これから、やってくる輩もいるのかしら」
(水島)「まだいる。まだ、たくさんいるし、新しくやってきた連中もいた」
(真理)「山本さん、この近くに避難できる親類や知り合い、いますか?」
山本は、小さく頭を振り、両手で顔を押さえて泣き出した。
(真理)「ねぇ、山本さんをクレオの部屋に泊めさせてあげていいかなぁ?」
(水島)「ん、ああ、そうだね」
(山本)「あの、・・お気遣い、ありがとうございます。でも、家そこですし、・・・、うっ、・・・あの、やっぱり怖い」
(真理)「いいのよ、あんな怖い思いしたんだもの」
パジャマに着替え、ダブルベッドの右の枕に頭を乗せ、仰向けになっていると、ネグリジェ姿の真理が水島の寝室にやってきた。開け放った窓から差し込むオーロラは、四日前より明るく、優しく包むような淡い光が寝室の奥まで浸透している。
(真理)「クレオのパジャマ、山本さんに貸してあげたわ」
真理は、ベッドの左側に打つ伏せに倒れ込むと枕に顔を沈め、水島の方に顔を向けながら両手で枕を抱えた。水島は、真理の方へ向いて横になって肘枕をすると、左手で真理の顔を覆っている長い髪を後ろへ梳いた。真理は目を閉じたまま、結んだ口の角を上げて微笑んでいる。
(水島)「真理は優しいね。災害の中、みんなを勇気付けてる」
(真理)「私、不謹慎かも。災害の中、とても幸せを感じてる」
(水島)「ふむ」
(真理)「あっ、忘れてた」真理は、そういうと上半身を起こし、横になった水島を押し倒すように覆いかぶさってキスをした。
(水島)「クレオに頼まれたの?」
(真理)「ええ、寝る前にしてあげてね、って」
真理は、水島がしていたように横を向いて片肘をつき、頭を手のひらに乗せる。水島も、再び、横になって肘枕をしながら真理と向き合う。
(真理)「私、ケイに抱かれたい。でも、今はダメ」
(水島)「うん、僕も真理を抱きたい。でも、今はダメ」
(真理)「私もクレオのオーナーになりたい」
(水島)「・・・?それは、どう理解すればいいんだろう?」
(真理)「求婚よ」
(水島)「・・・キューコンって、・・極楽鳥が羽を広げてダンスする、あれ?」
(真理)「ええ、そうよ。こんな感じ」
真理は、オスの極楽鳥が羽を広げるようにネグリジェの裾を持ち上げ、「ピーヨ、ピーヨ」と言って笑わせようとする。
(水島)「出逢って、まだ5週間だよ?」
(真理)「私、5年も待ったわ。あなたのこと、20年前から知ってる」
(水島)「ふむ」
(真理)「形には、こだわらないわ。あなたと一緒にいたいだけ。ゆっくり考えて。じゃあ、お休みなさい」
そう言うと真理は仰向けになり、夏布団を鼻まで引き上げて目を閉じた。
(水島)「ふむ」
水島は、両手を頭の後ろに組んで天井を見上げ、怪しく揺れ動く光に、中西の言葉を思い出した。
《この時代、いつもヒューマノイドと一緒にいるでしょ?そうすると、あの寛容性が当たり前だと思っちゃうのよ。素敵な人に出会っても、付き合い始めるとすぐに『どうして、この人、こんなに心が狭いの?』ってお互い思っちゃうわけ》
(水島)「ふむ」