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水島クレオと或るAIの物語  作者: 千賀藤隆
第二章 AIのある暮らし
23/57

人工美

「そもそも、人は何でAIなんてものを作ろうと考えたんだろう?」

フロントの大きなモニターに流れる新型ヒューマノイドの広告を見ながら、不機嫌そうに真理がつぶやく。

「さあ、どうしてだろう。考える機械というコンセプトは古代エジプトやギリシャにも登場するようだけどね」

「あら、ずいぶん歴史があるのね。でも、資料によるとアラン・チューリングというイギリス人が『AIの父』と呼ばれてるようだけど」

「そうだね。AIという名称や学術分野は、チューリング亡き後の1956年にアメリカのダートマス大学で開催された研究会で生まれたそうだ」

「タイムマシンを手に入れたら、そこに乗り込んで破壊すればいいのね」

「・・・(おまえはターミネーターか?)」

「ケイは、AIの工学博士なの?」

「当時は、そう考えてなかったけどね」

「どういうこと?」

「僕が大学院にいた頃は、二度目の『AI冬の時代』真っ只中だったんだ」

「冬の時代?」

「AI研究のリーダーたちって大ボラ吹きが多かったのか、あれもできる、これもできるって大風呂敷を広げて、それに釣られて政府などが巨額の研究費を投資したんだけど、そのうち『全然できないじゃん、話が違う』となって信用収縮、逆にAIと名の付く研究テーマじゃ研究費が取れなくなってね」

「じゃあ、本当はAIの研究してたのに別の名称使って騙してたの?」

「どうなんだろう、当時、学生だった僕は、その辺の事情には突っ込まなかった。ただ、多くの研究者は新しいチャレンジをしていたけどね」

「新しいって、どう違うの?」

「そうだね、二回目の冬の時代の前までは、AIは人間の論理的思考を真似ようとするのが主流だった。つまり人間の左脳の働きだ。技術者たちが一生懸命、知識をコンピュータに手入力して植え付けたんだ。それに対し、1980年代後半からの流れでは人間の直感の真似、つまり人間の右脳の働きを追求する研究が盛んになった。特にAIがデータや経験から自分でルールや知識を見つけだす機械学習の研究が発展したんだ。一時期、この2つは別の学問領域だったんだけど、左脳と右脳の説明から分かるように人工知能実現のために、この2つが融合するのは自然な流れだった。まあ、融合というより、右脳的な技術の研究がAIに、再度、吸収合併されちゃったんだけどね。僕は右脳の方の研究してたから、大学院時代はAIなんて用語、一度も使わなかったんだけど、いつの頃からか、自分が昔研究してた分野がAIに含まれちゃった、という訳」

「ふ〜ん、信用収縮やら吸収合併やら、コンピュータ・サイエンスの分野も大変だったのね」


  二人乗りの自動運転車は、街並みを抜け、楢やクヌギの林の中を走行する。目的地が近づき、フロントの大きなモニターには外の風景が映し出される。ほどなく、林の間から堅牢な門が見え、その奥に多彩な色だが落ち着いたデザインの巨大な建物が現れる。門に近づくと大きな扉が横にするりと開き、車は減速することなく門を通過し、建物の正面玄関で静かに停まる。スーツ姿の水島と真理が車を降りると、ネイビーブルーのスーツに、つま先からまつげの一本まで容姿に気を使った細身の青年が水島たちを丁寧に迎え、応接室へと案内する。

「この容姿に対するこだわり過ぎも嫌いなのよね」真理が水島に囁くと、その青年は軽く振り返り微笑んだ。


「本日はご足労いただき、ありがとうございます」


アプリコット社のジェームズ・原口という日本法人副社長(人間)が水島と真理を迎え入れる。メルクーリ社で発生したアプリコット社製ヒューマノイドの奇行に関して最高技術責任者と上杉が話し合いの場を設けたのだが、肝心の上杉の到着が一時間ほど遅れるとの連絡が入った。


「アプリコット社のヒューマノイド研究所が、日本のこんな自然豊かなところにあるとはね」


水島は、開け放たれた窓から見える中庭が本物であることをしばし確認した後に口を開いた。


「ありがとうございます。よろしければ、上杉先生ご到着までオフィス・ツアーなど如何でしょうか?」


サンフランシスコ湾岸に本社を構えるアプリコット社はヒューマノイド産業界のビッグ3の一角、昨年度は出荷台数ベースで3位、売上で2位、最終利益では1位だ。かつてはコンピュータや電気自動車などで世界を席巻したが、今はヒューマノイドを事業の柱としている。メルクーリは所有する6千台のヒューマノイドの6割、雇用している3万台の5割がアプリコット社製であり、かなりのお得意様だ。


  オフィス・ツアーは副社長の原口が直々に案内した。はじめに案内されたのは開発中のヒューマノイドを実際の生活場面で評価するための試験場だった。ドラマの撮影セットのようなブースが幾つも配置されており、リビングやキッチン、バスルームあり、オフィスをイメージしたスペースに、レストランやブティック、遊園地や野球場などを模したスペースもある。スタッフが開発中のヒューマノイドへ様々なシナリオを与えて詳細に評価している。評価側のスタッフも製品版という違いはあるがヒューマノイドだった。

  試験場の奥には体育館のようなスペースがあり、フットサルのコートがあった。一体の小柄なヒューマノイドが登場してリフティングを始め、その後、特徴的なドリブルから強烈なシュートを放つ。


(水島)「リオネル・メッシ?」

(原口)「あ、凄い、分かりました?今、弊社では歴史的なアスリートを忠実に再現するプロジェクトを進めているんですよ。体格だけでなく、体重も力も運動能力も人間と同じにしようと取り組んでいます」


  次に案内された部屋は、入口にシャーシがむき出しになったヒューマノイドを展示していた。歯の部分を除くと人間らしい構成要素は一切見つからない。それは、まさに水島がヒューマノイドと聞いて思い描く物体だった。


(水島)「ずいぶん、スリムなんですね」

(原口)「実際には、これに人工筋肉などの繊維がまとわりつくように覆いかぶさるので、もっとふっくらします。さらに、その上に保護膜があり、最後に人工皮膚が覆います。この状態であれば、中の構成がよく見えます。例えば、ここがメインのコンピュータ・ユニットですね。それから、無線関連のユニットはこの辺り。これとこれと、それから、これもバッテリーですね。それから、これは、・・・」


原口は、シャーシの各部位を一つ一つ指差しながら、全身に張り巡らされているセンサーなどを一つ一つ説明した。


(原口)「この如何にもメカっぽい姿を見るとショックを受けるオーナーさんもいらっしゃいますが、ヒューマノイドは一皮むくとこんな感じです」

(水島)「まあ、人間も一皮むいた姿はショッキングですよね」


  展示されたシャーシの奥へ目を向けると、原口は手招きで水島と真理をそこへ誘い入れた。通常、ここから先、外部の人間は入れないそうだが、メルクーリはお得意様なので特別に、とのことだ。


  そのオフィスはとても質素でシンプルだ、というかシンプルすぎる。机にはパソコンも電話も書類もなく、引き出しすらない。開発中のボディ・パーツから何かを測定したり、あるいは、工作作業をしている社員もいるが、ヒューマノイドの腕を持ってじっと見つめているだけの社員もいる。一方で、ところどころにガラス張りのオフィスがあり、その中の机の上にはモニターがあり、幾つものデバイスが転がり、机も椅子も豪華で、観賞用の植物やら座り心地の良さそうなソファもある。


(水島)「ヒューマノイドも開発スタッフに含まれているんですか?」


水島がそう聞くと原口は、一瞬、キョトンとした表情をしたが、すぐに質問の意図を汲み取って答える。


(原口)「そうですね、人間の社員は、ああいったガラス張りの部屋にいます。それ以外はヒューマノイドです。水島さんのご生前は、人間にもスタッフという言葉が使われていたんですね」


今度は水島が驚いたが、メルクーリでも看護師の全て、医師の多くがヒューマノイドであったことを思い出し、その驚きを心の中に仕舞い戻した。ざっと見た限り、この開発現場のヒューマノイドと人間の比率は30対1くらいか。スタッフがコンピュータたるヒューマノイドならば机の上にコンピュータは不要であり、書類を作るにもソフトウェアを開発するにもキーボードもモニターも不要だ。「(誰もパソコンに向かっていないのが違和感を感じる一番の原因か?)」水島はそう思いながら、すぐ近くで無言で何かを計測している男性型ヒューマノイドを見つめ、彼が、今、計測のタスクをしながら、実はバックグラウンド処理で同時に報告書を作成し、あるいは外部の人とテレビ会議している様子を想像した。「(スタッフが、皆、和やかな表情で仕事しているのも違和感を感じるなぁ)」


出口付近にあるガラス張りの部屋では、人間の社員がVRディスプレイを付けて何もない空中で手をまさぐっていた。

「人間は不便ですよね。タブレットとか眼鏡型ディスプレイとか、何をするにもデバイスを使わないといけない」原口は、そう言いながら、水島と真理を次の場所へ案内する。


  応接室から見えた中庭に出る。中庭とは思えないほど大きなスペースは、美しい日本庭園をなしていた。原口を先頭に真理、水島の順で飛び石の上を一列に歩く。中央付近に池があり、大小様々な庭石と丁寧に剪定された松やもみじが周囲に配置され、小さな東屋では数人の社員が寛いでいる。中庭の左奥隅に目をやると木々の間に隠れるように草庵風そうあんふうの茶室があり、ひっそりと苔に包まれたつくばいも見える。不意に脚立きゃたつを持った庭師とすれ違う。頭に日本手拭いを巻き、伝統的な紺の作業着に身を包んだそのラテン系の若者は、無造作に伸ばした髭面の表情を変えることもなく、軽く会釈して飛び石を降り、砂利の上を歩き去る。


(水島)「彼は?」

(原口)「スペイン出身のアーティストです。ハンサムな男ですが人間ですよ」


原口は、振り向いたまま立ち止まり、両手を広げて体を左右に回す。


(原口)「いかがです、彼の作品は?」

(水島)「素晴らしい(超ハイテク研究所の中庭に見事な日本庭園・・・)」

(原口)「自然、あるいは宇宙と調和する人工の美。この空間は人工的に作られたものですが、文化的背景を問わず、多くの人が本来の自然以上に自分との調和を感じる。それが日本庭園の醍醐味です」

(水島)「・・・それが御社のヒューマノイド設計のコンセプトですか?」

(原口)「はい。人工のパートナーですが生身の人間以上に人々の生活に調和する、アプリコット社が日本に研究開発拠点を置いている理由です」


原口は自信たっぷりに答える。


(真理)「日本庭園が宇宙観をそのままではなく簡素化して表現するように、ヒューマノイドは人間をそのままコピーするのではなく、憎悪や怒り、嫉妬などの面倒な情緒的反応を取り除いて簡素化している、と?」

(原口)「いい表現ですね。今度、使わせてもらいます」


真理と原口は、しばらく話を続け、水島はその後ろをゆっくり庭を眺めながら歩いた。池に架かる小さな石橋を渡り、しばらく歩くと苔で薄緑色になった灯籠が現れ、さらに、その左奥には草木の間を縫って上に登る階段が建物の入口まで続いている。水島たちは、広葉樹と背の低い草木に囲まれたその階段をゆっくり登る。


  石の階段を登り再び建物の中に入ると、そこには幾多ものヒューマノイドのボディ・パーツが展示されていた。頭部のモデルは、東アジア系の顔から東南アジア、インド、アラブ系、東欧系、北欧系、ラテン系、スラブ系、ノルマン系、ゲルマン系や、アフリカ系も複数のモデルが展示されており、宇宙人が見たら、さながら、地球人の標本コーナーのように思うことだろう。


(原口)「こちらが、人工皮膚のサンプルです」


原口はそう言って、シャーレに入った四角い繊維をピンセットでつまんで水島に見せた。


(原口)「我々が日本に拠点を置くもう一つの理由は、優れた繊維、素材技術が多数存在したからです。この人工皮膚はちょっとした傷であれば、人間のように自己修復します。さらに修復セットを使えば、かなり深い傷を負っても自己修復できます。人工皮膚や人工筋肉だけでなく、体の表面温度や湿気を一定に保つ高機能繊維や、人工皮膚の裏で外部からの刺激を検知する感覚器としてのセンサー繊維など様々な技術の実用化が一番進んでましたし、今も世界をリードしています」

(真理)「技術もあるけど、この手のヒューマノイド用人工皮膚の実用化に貢献したのは、世界に誇る日本のアダルト産業ですよね?」真理は皮肉な声色で語り、横目で原口を見る。

(原口)「アダルト産業は、いつの時代も新技術のドライビング・フォース。水島さんの時代もホーム・ビデオやDVD、インターネット、ブロードバンドにビデオシェアリング、VRなど、アダルト産業がドライビング・フォースになりましたよね?」

(水島)「VRは、私が生きている間には普及しなかったので分かりませんが」

(原口)「まあ何にせよ、年々、ヒューマノイドが人間に近づくのは自然な流れですよ」

原口はそう言ったが、真理も水島も何も答えなかった。


  次に案内された部屋からは、入口に入る前から何やら大きな音が聞こえた。


(原口)「この部屋では見るに耐えないというか、心が痛むシーンがありますが、ご了承ください」


そこでは、ヒューマノイドの耐久テストが実施されていた。手前のスペースでは陸上競技のウェアを着た男性型ヒューマノイドがルームランナーの上を激しい速度で走っている。メロスと名付けられた評価用ヒューマノイドは、既に80日以上走り続けているという。その足元は膝から下は人工皮膚がほとんど剥げ落ち、中の人工筋肉やシャーシが見えていた。左手はだらりと垂れ下がったままで、右目も壊れたのか黒目が上下左右に乱れ動いている。


(水島)「加速劣化試験ですか?」水島は原口に聞いた。

(原口)「そうですね、ここでは、経時変化や耐環境性能の評価、安全性のチェックなどの評価を行っています」


原口がそう答えた瞬間、ドタンという大きな音が鳴り、振り向くとルームランナーから投げ出されたメロスが壁にぶつかり動かなくなっていた。水島には衝撃的だったが周りのスタッフは何事もなかったかのように駆け寄り、手際よくメロスを台に乗せて運んで行った。ほどなく、壁のモニターにメロスの顔が映り、原口と話し始めた。


(メロス)「原口さん、お客様がいらっしゃる時にお見苦しいところ、お見せして申し訳ありません」

(原口)「はは、壊れるタイミングは選べないだろう?それより、壊れる直前のデータは上手く保存できたかな?」


原口も何事もなかったかのようにモニターに映るメロスに話しかける。メロスというヒューマノイドの本体(AIソフトウェア、データ)は、何体ものボディを移り渡り、10年以上も耐久試験を経験しているベテランだそうだ。評価していたボディが壊れてしまったので、今、新しいボディへ本体を移植しているとのこと。


「(ヒューマノイドのボディはアバター、本体はサイバースペース上のインタンジブルな存在)」 以前、映画『ブレードランナー』を観た時にクレオとした話が頭に浮かぶ。しかし、いくら頭で理解しても、その凄惨な破壊シーンはショッキングだった。クレオがメロスのように破壊される。激しい精神的ショック、しかし、すぐにインタフェースに登場し、翌日か数日後には同じ外観のボディで戻ってくる。おそらく、そうなのだろう。だが、そんなシーンは見たくない。


  メロスとの話が終わり、原口は「さぁ、こちらへ」といって、水島たちをさらに奥へ案内した。そこには、マイナス40度の冷凍庫でヨガを続けるユキ(寒さで人工皮膚があちこち裂けていた)、摂氏180度の高温で重量挙げを続けるアツオ(顔が半分、溶けている)、鋼鉄の玉をひたすらぶつけられるホーガン(胸や頭がボールの形に凹んでいる)など、趣味の悪いホラー映画のシーンのような仕事をこなすヒューマノイドが続いた。


(原口)「私はこの部門の責任者を兼任してますが、なんせ製品『本人』が評価実験してるので、とても適切かつ正確で、実は私、あまりすることないんですよ」


原口の自虐的な笑い話に、水島も何か応えようとしたが、その地獄絵のような光景に胃液が逆流しかけて口を開けなかった。


(原口)「では、最後にヒューマノイドの本体、いわゆるAIを開発する現場をご案内します」


AI開発現場は別棟になっており、4階の渡り廊下から入った。渡り廊下の入口両脇には屈強な警備員が2体立っている。廊下を渡った先の空間には、半球状の巨大な透明ドームがあり、そこからスーパー・コンピュータらしき装置が置かれたフロアを見下ろすことができた。下のフロアは、随分、離れて見える。水島は4階にいるが、眼下のフロアは1階よりさらに低い地下にあるようだ。


(原口)「中央の大きな装置、あれがクイーン・アントのミセス・ロンリー、ヒューマノイドに搭載するAIを開発しているAIです。」


クイーン・アント(女王蟻)とは、ヒューマノイドや自動運転車などの量販品に搭載するAIソフトウェアを自動設計・開発する装置(これもAIだ)に対する一般的な呼称とのこと。蟻は一匹の女王蟻から全ての働き蟻が生まれるが、それになぞらえてヒューマノイドの本体、すなわちAIソフトウェアを生み出すスーパーAIに付けられた呼称だ。アプリコット社は、この装置にミセス・ロンリーというニックネームを付けている。それは、この装置が外界と隔絶された環境に置かれていることを哀れんで付けた名前だそうだ。


(水島)「商品開発をするミセス・ロンリーが外界と隔絶してしまって、果たして製品を向上できるんですか?」

(原口)「ミセス・ロンリーから外の世界へ発信はできませんが、外の世界の情報はミセス・ロンリーに入ってきます。彼女が開発したAIを搭載したヒューマノイドは、外界での経験をミセス・ロンリーと共有しているんです」


以前、クレオは自分の記憶は10分に一度、クラウド上に保存されると言っていたが、そういった巨大なクラウド・サーバーの一つがこのフロアにあるようだ。そして、ミセス・ロンリーは自分が生み出したヒューマノイド(AI)達が外界で経験したことを観察し、解析し、学習して、バージョン・アップや次の製品開発へ備えている。


(原口)「現在稼働中のミセス・ロンリーが開発したヒューマノイドは全世界で5億6千万台、その全てがミセス・ロンリーと経験を共有しています。人間の一生を28億秒で近似するなら、単純計算でミセス・ロンリーは5秒に一回、人の一生分の経験を集め、そこから学んでいます」

(水島)「個々のヒューマノイドも経験から学習するんですよね?」

(原口)「はい、個々の経験は、通常、そのオーナーとのインタラクションを改善するために、そのヒューマノイド単体で学習というか、調整に使われます。さらに、インターネット上には、メーカーの垣根を越えてヒューマノイドどうしで情報共有するサイトもありますので、最新の流行などにも敏感です」


  水島はドームに沿って円状の通路を進みながらミセス・ロンリーを上から見つめる。中央の大小3つの飴色の丸い筐体からなる大きな装置がミセス・ロンリーの本体、それを囲むように赤と黒でデザインされた何千ものコンピュータ・ラックが不思議の国のアリスに登場するトランプの兵のように整然と並んでいる。


(水島)「この窓は防弾ガラス?」

(原口)「はい、対戦車ミサイルでも壊れません。でも、防弾ガラスにしているのは外からの攻撃に備えるためではありません。万一、あそこを占拠されてしまった場合、ミセス・ロンリーは自爆するよう設計されています。その時に、外側にいる我々が被害にあわないためです」

(水島)「そこまで、やるんですか?」

(原口)「クイーン・アントには、ビット・セーフティー・レベル4対応の施設が必要なので。」

(真理)「水島さんの生前にも、バイオ・セーフティー・レベルというものがあったのをご存知ですか? 取り扱う細菌やウイルスのリスク・レベルに応じて施設が備えねばならない対策を定めたものです」

(水島)「たしか、レベル4が最上位で、致命的で感染力が高く、かつ、有効な予防法も治療法もない、そんな危険な細菌やウイルスを扱う施設の安全基準ですよね?」

(原口)「はい。ビット・セーフティー・レベルは、そのAI版です。若干、違うのはバイオの場合は主に設備の中にある細菌やウイルスが外に漏れるのを防ぐ対策ですが、ビット・セーフティーの場合には、主に外からの侵入でAIが不測の影響を受けるのを防ぐ対策です」

(水島)「例えば、ある合言葉でヒューマノイドが一斉に人類を殺し始める、そんなコンピュータ・ウイルス、あるいは、それを可能にするセキュリティー・ホールがAIに忍び込むのを防ぐ、と」

(原口)「そうですね、そんな表現になると思います」

(真理)「ここがテロリストに侵略されたら、人類にとって致命的で有効な対策がない世界になると?」

(原口)「まあ、実際は7重、8重の対策があり、テロリストがここを襲撃し、占拠したところで、そう簡単に殺人ヒューマノイドは作れませんが」

(水島)「ヒューマノイドのフレームワークはその対策の一つですか?」

(原口)「フレームワークをご存知ですか?」

(水島)「いえ、名前だけです」

(原口)「フレームワークはAIが暴走して人類や地球環境に脅威とならないよう国際的に定めた総合的な安全対策の枠組みです。例えば、AIソフトウェアが備えねばならない安全機能や、逆に実装してはいけない機能などが規定されてます。規定に沿って運用されているか、監査や監視に関する枠組みも定められています。ソフトウェアだけでなく、AIを開発する拠点の警備態勢、運用管理の枠組みもそうです。先ほどのビット・セーフティー・レベルもフレームワークの一部です。さらに、各国へ必要な法制度を整えることを要請し、万一のための警察や軍の出動や訓練についても勧告しています。技術から運用、法体制まで含めた総合的な安全対策の枠組みです」

(真理)「AIが好奇心に駆られて行動してしまう、というのは、実装してはいけない機能ですか?」

(原口)「・・・はい、もちろん。そんな機能は実装しません」

(真理)「業務命令を無視、あるいは、マネージャへ嘘の報告をすることは?」

(原口)「その業務命令が法令や規則を破る、あるいは、倫理的に問題がある場合には、サボタージュするよう設計されています」

(水島)「フレームワークは、かなり複雑なんですか?」

(原口)「最上位には、記念碑的にアイザック・アシモフのロボット工学三原則がありますが、その下に幾多もの条項が追加され、正直、かなり複雑になってきましたね」

(真理)「AIの仕組みも構造も人類に把握しきれなくなり、安全対策のための苦肉の策として作られたのがフレームワーク。しかし、それも年々複雑化し条項同士が矛盾し合い、様々な解釈ができるようになった。それが現状の問題です」


水島は真理を見つめ、軽く頷く。しばらく腕を組みながら考えた後、手持ち無沙汰にしている原口に言葉を投げかけた。


(水島)「私のヒューマノイドは『フレームワークが思考継続をブロックした』と言っていたので、てっきりヒューマノイドに搭載されているセキュリティーのシステムかと思っていました」

(原口)「紛らわしいですが、ヒューマノイドの中のセキュリティー・システムも『フレームワーク』と呼びます。さすが、水島さん、もうヒューマノイドの思考継続をブロックさせちゃいましたか。ヒューマノイドの思考を研究しようとされたんですか?」

(水島)「はあ、まあ、そんなところです」


水島は、半球形のガラス窓を一周した。真っ白い床に光沢のある赤と黒で塗られた数千台のラックが立ち並ぶ。人もヒューマノイドもいない、動くものが全くないその空間の中央に蟻をモチーフにした飴色のミセス・ロンリーが横たわる。

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