目覚め
暗いのか明るいのか?感覚器官が判然とせず、視界も音もこもり、自分の肢体の存在を感じえず、かろうじて、その存在を知覚できるのは、顔の上半分だけだった。これが、水島敬太が生命体として蘇生した瞬間だ。手足は拘束具で固定され、鼻はふさがれ、口から太い管を挿入され、全身の血管に管が刺さり、乳濁色のジェル状液体に漬けられた状態で。
三日後、水島の身体は液体の中からベッドへ移されたが、相変わらず、身体は拘束具で固定されていた。ベッドの上で次第に取り戻しつつある動物としての記憶は、水島に恐怖心を蘇えさせ、未だ霧に包まれた視界や聴覚、臭覚が受ける刺激にただ怯えていた。
感覚器官が脳と連携し始めたのは、十日を過ぎてからだった。それとともに思考回路も機能し始め、人としての記憶も少しずつ取り戻し始めた。時折、聞こえてくる医師や看護師らしき人々の会話も、徐々に言葉として聞き取れるようになった。英語と、時々、日本語も聞こえる。「リストアリング・プログラム」という言葉が頻繁に聞こえた。「リストアリング(Restoring)」、つまり「復元」の意味だと思うのだが、それが何を意味するのか理解できなかった。が、それより頭を悩ませたのは、ここがどこで、自分がなぜこんなめにあって、そして、何よりも、その自分が一体何者なのか、分からないことだ。
二十一日目、背の高い白人の看護婦が一人でやってきて、優しい微笑みと流暢な日本語で一言二言話しかけながら、多くの拘束具をテキパキと外し、ベッドの上半分をリクライニング・チェアーのように起こした。次の瞬間、医者らしき男がベッドの足元から唐突に話しかけてくる。
「水島さん、聞こえますか?水島さん?聞こえては、いるようですね。言葉としても理解できていますね。あぁ〜、でも、まだお名前は思い出していないようですね。患者さんのお名前は水島敬太さんといいます。そうです、あなたです」
その男に人差し指で指されながら、そう言われても水島敬太という名前が自分のものだという記憶は全くない。
「私は担当医の上杉といいます。人間です。水島さんは2016年に亡くなられた後、冷凍保存されて3週間前の3月21日に蘇生しました。第二の人生のスタートです。おめでとうございます」
重要なことを相当あっさり言われた気がしたが、うまく咀嚼できない。自分が死んだと言われたような気がしたが、それより自分を「人間です」と紹介する上杉はふざけているのか正気なのか、はたまたマッド・サイエンティストか、その方が気になった。上杉と名乗るその男は、年の頃は50歳くらいか、小太りで大柄な体の上に白髪混じりの大きめの頭が乗っている。上杉は警戒する水島の気持ちはよそに、時々、手元のタブレットのような機器に視線を向けながらマイペースで話し続けた。
「あなたは、とても長い眠りから、お目覚めになったばかりです。今はまだ記憶が錯綜しているかもしれませんが、焦らず、ゆっくり自分を取り戻していきましょう。脳をスキャナーで解析していますが、水島さんの脳は驚くほど綺麗に保持されています。記憶がかなり残っているようです。素晴らしい!」
上杉が指差した先には3次元映像で表示された脳が、ゆっくりと回転しながらカラフルに点滅する無数の光を発していた。それは、今現在の水島の脳内活動をリアルタイムに表示したもので、『蘇生した人としては』とても正常に活動しているそうだ。脳の映像は花火のような光を頻繁に発しながらどんどん拡大され、最後はこぶし大に拡大された脳細胞が電気を発している様子が示された。上杉は少し興奮気味だったが、水島にとって、記憶は錯綜ではなく欠落としか感じなかった。そのことを上杉に訴えようとしたが、水島の口からは小さなうめき声すら出ない。
「会話をつかさどる脳の機能は正常に動いていますが、脳からの指令を声帯に伝える神経系がまだ完全には機能してないようですね。でも、薬剤投与とリハビリで、すぐに回復するでしょう。手は動きますか?右手を上げてもらえます?」
水島はベッドから右手を上げようとしたが、顔の高さまで上げたところで、それ以上、力が入らなかった。左手も同じだ。手を握ることはできず、五本の指を軽くほんの少し曲げることがやっとだった。上杉に言われるまま足を上げようと試みたが、足は1、2センチしか上がらなかった。それでも、上杉は「素晴らしい」と何度も感嘆した。一方、水島は自分の肢体に愕然とした。細い手足を包むきめ細やかな透明感のある白い肌はまるで少女のようで、意識が戻って以来、感じる大人の男としてのアイデンティティーとギャップがありすぎるのだ。
「えー、これから、幾つかお話しさせて頂きますが、口で答える必要はありません。脳波解析スキャナーで読み取れるので、はい、とか、いいえ、と頭の中で思って頂ければ結構です。イエス、ノーでもいいです。よろしいですかね?」
「(はい)」水島は言われたように心の中で短く答えた。ジタバタしても仕方ない。とりあえず、この上杉という男の言うことに、今は従うしかない。
「はい、では、水島さん、どうして、ここにいるか分かりますか?」
「(いいえ)」
「いいえ、ですね?では、さっそくですが、水島さん、ご本人が2016年に作成された水島さん宛のビデオ・レターをご覧になって頂きますね」
そう言うと上杉の姿は消え、ベッドに半分横たわる男の姿が代わりに現れた。あまりに自然な映像だったので気付かなかったが、上杉は、その部屋にはいなかった。壁全体がモニターになっており、そのモニターを通して遠隔で話しかけていたのだ。
上杉が消え、すぐにモニターに現れた男の顔は透き通るように白く、髪も眉毛もうっすらとしか生えていない。水島は顔を左右に動かし、手を頬にあてて口を丸く開け、モニター上で同じ動作をするその男を見とめることで、それがカメラで映された自分自身だと認識した。どこにカメラがあるのか目で探したが、それらしきは見当たらない。ほどなく、自分の姿は顔の部分だけが切り抜かれ、枠取りされて右下へ移動し、代わりに中央には頭髪が抜け、土色のいかにも血色が悪そうな、頰が激しくこけた男が現れた。病人用のベッドに置かれたテーブルの上で、この男がパソコンを自分で操作しながら撮影しているビデオだった。
「私の名前は水島敬太、2016年のあなたです」
そのビデオの男は、ぶっきらぼうに話し始めた。見覚えはある。右下に映る自分の顔と見比べると確かに似ている。しかし、その男の悲壮な面影は、それが自分であると受け入れるには現実離れして見えた。
「私は、今の時代では、余命幾ばくもない。膵臓癌だ。5ヶ月前に余命半年と宣告された。ご覧の姿は様々な治療を試みた結果だ。どうやら、この時代では生きられないようだ。そこで、自分自身を人体の冷凍保存技術を使って将来の医学に託すことに決めた。人体冷凍保存サービスで、技術的に最も進んでいると言われるアメリカのカルダシェフ財団のサービスを利用する。あなたが目覚めた場所も、カルダシェフ財団の関連施設か何らかの契約をしている施設だと思う」
ビデオの男は、次の言葉を探してか、一息つき、水を口元に運んだ。うまく言葉が見つからないのか、カメラから目をそらし、側にいる誰かにボヤく。
「このビデオが使われる日が果たして本当に来るのか?やっぱ、かなり疑問だ。まあ、もう返品できないし、やるしかないが。こんなサービスに大金使って死んじまったとなれば大笑いされるよ。このビデオは俺が間抜けだった証拠の品だ」
側にいる誰かが何か言っているが聞き取れない。時折、英語らしき声も聞こえたが、はっきりとは聞き取れない。ビデオの男は、机に右手のひらを乗せたまま左手で頭を前から後ろへ髪をすくように撫で、再びペットボトルの水を口元に運び、大きなため息をついた。一呼吸置き、視線をカメラに戻し、軽く深呼吸をし、観念したように話を続ける。
「私は、今、オレゴン州ポートランド市内にあるカルダシェフ財団と提携している病院にいます。この州は尊厳死、あ〜、安楽死が合法なので。・・・それに」
男は、またペットボトルの水を口に含みながら言葉を探す。
「・・・人生最後の日を過ごすのに、窓から見える景色は悪くない」
男は、しばし、カメラから視線を外し、その後、思い出したようにカメラに視線を戻し、軽く咳払いをしてから話を続けた。
「・・・財団は、明日、冷凍保存に最適な方法で、自らこの世を去る手段を提供してくれる。長い眠りにつく。あなたが運良く目覚めるなら、22世紀か23世紀か、あるいは、それより、さらに先の世界だろう」
喉が乾くのか、男はしきりにペットボトルを口元に運び、側にいる人物と一言二言、言葉を交わしてからカメラに向き直った。
「私の願いは、あなたが私の記憶を維持したまま蘇生することだ。カルダシェフ財団は記憶を維持したまま冷凍保存から蘇生できると主張している。眉唾とか詐欺とか言われているようだが、これに賭ける身としては信じるしかない。財団との契約には、蘇生後に記憶状態を調べ、必要に応じて記憶を回復させるプログラムも含まれている。フル・オプションで申し込んだ。面倒かもしれないが、財団から提供される一連の蘇生プログラムは、ちゃんと受けてくれ。それから、膵臓癌は、ちゃんと治癒されたかも確認してくれ。それから、あとは、...そうだな、我々の知り合いは、誰一人、いなくなった世界だろう。特に言い残すことはない。第二の人生を謳歌してくれ。21世紀の私からは、以上だ。Good Luck!」
ビデオの男はニヒルな表情で口元を結び、指でパソコンを操作しながら録画を終了させた。モニターには「リピートしますか?」の文字と共に、再び、鏡のように自分の姿が映し出された。水島はモニターのリモコンを探したが、その部屋にはベッド以外、何もなかった。おそらく音声認識に対応しているのだろうが、口のきけない水島に音声操作なんて意味がない。それにしても何もない病室だ。真っ白い空間の中央に水島が横たわるシンプルなデザインのベッドがあるだけだ。窓もないが明るい。おそらく壁が照明になっているのだろう。看護婦が出て行った右手の壁はドアになっているはずだが、ドアらしき把手も継ぎ目もそこには見えない。水島は、ふと、上杉が言った脳波解析スキャナーを思い出し、試しに頭の中で「(イエス)」と応えると、ビデオは初めから再生が始まった。2分余りのビデオを3回繰り返した。3回目の再生が終わり、自分のスカスカの記憶から何でもいいから思い出してみようと苦悩していると、モニターに再び医師の上杉が現れた。
「いかがでしたか、ご自身からのメッセージは?」
上杉の話では、水島が利用した冷凍保存サービスは、カルダシェフ財団が運営していたが、今はメルクーリ・リサーチ・インスティチュートという医学系の大学から病院チェーンまでを経営する医療コングロマリットが同サービスを引き継いでいるそうだ。また、上杉はメルクーリに雇われている医師とのこと。
「水島さんの冷凍保存前のご病気は膵臓癌でしたが、こちらは基礎蘇生プロセスの段階で既に治療済みです。それから緑内障も患ってらしたので、そちらも治療しておきました。視力は12.5だから、ええと、日本の視力の単位では両眼とも1.5にしておきました。それから、若い頃に何かスポーツをされていたのですかね、膝の腱がボロボロになっていたのでリプレースしておきました。血液は水島さんの元の血液型と同じA型を注入しておきました」
上杉は、蘇生後に施した処置を簡単に説明し、現在のところ、肉体的には特に問題はないとの所見を伝えた。また、今後も経過観察を継続しながら、リハビリや社会復帰の計画などを相談しながら決めていくが、その前に会話を何とかしようと諭した。現状、「はい」と「いいえ」しか伝えられない脳波によるコミュニケーションを、水島の脳波パターンをコンピュータに学習させて、もっと様々な言葉を伝えられるようにするというのだ。後で、メルクーリからロボットが贈られるが、そのロボットに脳波を使った会話のプログラムが入っているので、まずは、そのロボットの学習に付き合ってもらいたい、とのこと。上杉は手持ちのタブレット・デバイスで何かを見つけると声を弾ませた。
「へぇ、水島さんに贈られるロボットは、カンダのNSXシリーズだ。カンダのハイエンド・モデルですよ、これ。羨ましいですねぇ」
水島は、カンダという名前から日本の3大自動車メーカーの一社、カンダ・モーターズを連想し、同時にカンダのNSXというスポーツカーを買おうとしていた自分に関する最初の記憶の断片に遭遇した。しばし、記憶を探ろうと頭の中をまさぐったが、それを買ったのか買わなかったのかまでは思い出せない。しかし、この頭の中に自分に関する記憶が残っているとの感触は、水島に幾ばくかの勇気を与えた。話し続ける上杉に再び耳を傾ける。
「では、あとは、えぇと、クレオちゃん、彼女から詳しい説明があると思います。脳波学習と同時に体の方のリハビリも始めますので、彼女の指示に従ってくださいね。1時間くらいで到着すると思うので、それまで、寛いでいてください。では、また、お会いしましょう」
上杉の映像が消えると、小川のせせらぎと小鳥のさえずりが聞こえてきた。気がつくと、水島のベッドは、静かな湖畔の木陰に据えられていた。木漏れ日とそよ風まで再現されている。真っ白な壁に真っ白な床天井も、6面、すべてがディスプレイになっているようだ。ベッドのリクライニングが、ゆっくり倒され、桟橋で戯れる幼い子供達の映像を見ながら、水島は再び眠りについた。