心の海に歴史を見る
海を見ている間だけ、私の記憶は鮮明に思い出すことができる。
私の人生は、海と共に生きてきた96年だった。
90を超えて、体も頭も健康とは言い難くなった。近頃は物忘れもひどい。
キィと車いすの車輪を回して、一歩分海に近づく。海風が、気持ちよく肌に触れた。
目の前に広がる海に、遠く、心の中にある海を思い浮かべた。
その海は、70年以上前のものだ。
『扶桑』と呼ばれる戦艦の甲板に、若き私は居た。
昭和18年6月8日の事だった。
時刻は朝の10時過ぎ。
扶桑では、艦長が6月1日に代わる事になったが実際に変わったのは6月7日の事で、どこか緊張した空気が流れていた。
私は未だに、25mm機銃と高角砲しか撃てないようななりだったが、それでも良く気にかけてくれている艦長に「甲板に居ろ、色んな事が見えてくる。最後には、船全部が見えるようになる」そう言われていたため、何をするでもなく甲板に居た。
波が穏やかな日だった。停泊している扶桑も、どこか気が抜けたように波に揺られている。何の気なしに65㎜の厚さを誇る甲板を撫でてみた。頼もしさを感じた。
今、近くには駆逐艦四隻と戦艦の陸奥が居る。
呉のドックには旗艦の長門が居り、もうすぐ顔を見せるはずだ。
長門と陸奥。
言わずも知れた日本の戦艦であり、巷の噂では長門の方が人気があるらしい。
私は、陸奥の方が好きだった。と、いうのも艦長が少しだけ顔を知っているだけの縁なのだ。
人使いが荒く、だが、どこか憎めないおおらかな人だった。
あのインテリをして、何故ああも豪快な人柄なのだと何度も疑問に思うことがあった。それに、あの人に暇を与えると碌な事になった事がないのだ。
「上島二等兵!!士気高揚のため、飛び込め!!」
大声が飛んできた。
見ると、新しく来た扶桑の艦長と陸奥の艦長が並んで口元を緩めながらこちらを見ている。無論、大きく口を開いたのは陸奥の方の艦長である。ほうら、碌な事じゃない。
士気高揚という文句だけ付けていると聞こえは良いが、ようは私に海に飛び込めと言うのだ。
その大声に誘われてぞろぞろと見物人が集まった。
仕方がない、やる他は無い。
一瞬で服を脱ぎ棄てて、ストッパーを着けたのみとなる。
バッと駆け出し、弾みをつけて、恐れず、勢いよく海上へと飛んだ。
大砲の弾のように緩やかに上へと体が飛んだ。
その最高到達点に達する瞬間、腕をピンと後ろへと伸ばし顎は凛々しく上へと上げる。
この一瞬、この一瞬を形にすれば飛び込みは成功したも同然なのだ。
私はこの一瞬が好きだった。いつもより、形が良く決まった気がした。
ゆるやかに落下を始める体の体勢を入れ替えて、垂直に海へと飛び込む。
間もなく浮かぶと、大きな拍手が舞いあがった。
私は、飛び込みにだけは自身を持っていた。模範演技生として、何度も飛び込んだ経験がある。そこだけは、自慢だった。
吹けない口笛を汚く吹きながら豪快に笑う陸奥の艦長に、その横で静かに笑いながら拍手をしてくれる扶桑の艦長が居た。この艦長はまともそうだと思った。少なくともとなりの男よりは。
海に投げ入れられたロープを掴み、仲間に引き上げてもらう。
その様子を見た艦長は、私に近づいてきた。
「相変わらず、元気だな」
「大佐ほどではありませんよ」
「そう言うな。ところで、上島二等兵。一つ聞きたいが、扶桑で手癖の悪い奴は居ないのかね。夜中に物を間違って持っていくような輩だ」
「はぁ。そんな不届きな輩は、聞きません」
「そうか、そうか」と顎髭を触りながら大佐は頷いた。
「近頃、俺の船は物騒でいかんくてな。その相談を呉の方までしに行ってる奴が居るほどだ。いや、何、忘れてくれ。どうせそんなツマラン事、誰にも知られず処理される事だ。お前の飛び込みの方が、よっぽど面白い」
そういうと大佐は肩を二度叩き、扶桑の艦長室へ向かって行った。少し話をしたら、すぐに陸奥に帰っていた。11時ほどの話だった。
その後、飯を食って、一服しに甲板へと出ていた。
妙に風が吹いてきている。海が穏やかながらも、何か起こりそうな嫌な予感だけはしていた。
十二時を少し過ぎる頃だった。茫然と、陸奥を見つめていた。2000メートルほどしか離れていないので、全貌がよく見えた。
ピタリと、風が止まった。
ドカン、と嫌な音が空気を振動させた。
何の音かわからない。だが、見えてしまった。その様子を。
陸奥が、陸奥が煙を上げている。
中央部から黄色い煙が上がっていた。
ボコボコと、際限なく舞い上がっている。
「救助船用意!!」
扶桑の艦長が誰よりも冷静に、命令を飛ばした。
すぐに私も船に乗り込み、陸奥へと向かって行った。
陸奥は、艦尾が沈みだし、くの字に折れ曲がり艦首をわずかに見せるだけになった。
周りには、点々と陸奥の乗組員が浮かんでいた。
次々と、船に乗せて行く。
しかし、陸奥の艦長の姿だけは、一向に見当たらなかった。
後から分かった事だ。この事件の真相は掴めない。しかしながら、大佐の言っていた窃盗癖のある人物が自殺のために弾庫に火をつけたという説がある。私は不思議とこの説を支持した。決めつける要因は無い。しかし、これだという思いはあった。
数字だけを見ても凄まじい事件だった。1474人の乗組員の内353人を救助することができた。そのうち、救助できなかった一人は艦長だった。
この事件は、戦艦をただ一人の自殺のために使い多くの死傷者が出た、許され難き事件であったと思う。
その代償は、あまりに大きい。戦艦一隻を持って行ったのだ。本来の使い方とは大きく事なる使い方で。陸奥の事も、考えるだけで涙が出る。
実に、嘆かわしい。実に、腹立たしい。実に、実に、口惜しい。
忘れてはない事だ。決して。決して。
私の目に、涙が溢れていた。しわがれた肌に、涙が流れる。
私は生き残った。
しかしながら、もう余命が残されていない事は良く知っている。
できるなら、海で亡くなりたい。海に沈んだ仲間と共に、黄泉の道を歩きたい。
昔ほど、元気は無いけれど。
今一度だけ、私は海に飛び込むことはできるだろうか。
衰えた腕で、車いすを動かした。
助走をつけて、勢い良くッ――――
――――「おじいちゃんッ!!」
「そっち行ったら、海に落ちちゃうよ。何で海に行こうとするの?昨日も、一昨日もだったじゃないの!」
「んっ。おお、すまん、すまん」
「もう、それも忘れちゃったの?」
このところ、物忘れが激しくなっているみたいだ。
認知症という自覚も薄れている。
……はて。
私はなぜ、海に飛び込もうとしてたのかなあ。
「おじいちゃん。船の話をしてよ」
「おお、いいとも、いいとも。何の話がいいかな」
「陸奥のお話が良いな。最初から、最後まで」
「そうさなぁ。あれは、たった70年ほど前のことじゃった――――
お読み頂きありがとうございました。