消えた三百円の話
世界は理不尽に溢れている。人間は正当をコンクリートみたいに固めることで社会とか生活とかを維持しようとしているのに、いつまで経っても理不尽だと叫びたくなるようなことが世の中には溢れ過ぎている。しかしよく考えなくても、多くの理不尽を内包する人間が作り上げた社会なのだから、そういったものが溢れていてもなんら不思議はない。見方によっては理不尽を否定することの方がよっぽど理不尽だし、理不尽だってそんな理不尽なと呟きたくなってしまうことだろう。
思うに、人はもっと理不尽を受容すべきなのだはないだろうか。理不尽を嫌うのではなく、ときに自ら手を広げ受け入れてやる。それがもしかしたら、自分に変化をもたらすきっかけになるかもしれない。無論、保証はしないが。
さて、S県S市のS大学には宇津木という男がいる。彼は教授という肩書きに付随するひどく小規模な権力を存分に振るいながら生きているひどく矮小な人物だ。そしてなにを隠そう、彼は世の中にはびこる理不尽に四方八方からど突きまわされ精神的にボロボロなってしまっている一人だ。それは別に彼のメンタルが推理小説に出てくる警察の捜査能力並みに脆弱だからというわけではなくて、降りかかる理不尽を全て受け入れているからこその消耗だった。文句も言わず愚痴ることもなく、彼は実に日本人らしく振るまい、理不尽な要求や批判を笑顔で受け入れた。つまりはノーガードである。宇津木教授は人の罪悪感とか良心というものを信じていたから、いずれはあのとき理不尽なことを言って悪かったとみなが謝罪に来てくれるものだと思っていたが、それは大きな勘違いだった。
往々にして、人とはエスカレートするのだ。こちらがなにもしないと分かれば、相手は親の仇だと言わんばかりに延々と攻撃を続け、その攻撃も徐々に強力なものになっていく。ただ、今回宇津木教授ととある学生の間で起きた出来事に関して、そんな話は一切関係のないものなのである。あしからず。
ある日の午後、宇津木教授が自分の研究室でのんびり本を読んでいると、ゼミの学生が部屋に訪れた。そしてその学生はこんなことを言った。
「先生、この前お貸しした三百円、いい加減返してくれませんか?」
無論、宇津木教授は三百円なんて借りた記憶は微塵もなかった。それにその学生はお金がないお金がないと騒ぎながらも一週間に二回は飲み会をしているような信用ならない学生だ。宇津木教授は少しでも信用できないと感じた人からはお金はおろか、シャーペンの芯だって借りないし貸さないと心に強く誓っている。ゆえに宇津木教授は万に一つも、学生から三百円は借りていないと言い切れた。
「というわけだから、僕はキミから三百円は借りてないよ」
「なにがというわけか、俺には分からないんですけど」
そう言って、学生は溜息を吐く。
「先週の昼に学食で会って、財布を忘れたから三百円貸せとおっしゃったんじゃないですか。それで俺が嫌だって言ったら、先生は貸さないとゼミの単位出さないと脅したんですよ? まさか、ご自分の暴挙を忘れたんですか?」
「言っただけで、借りてはいないというオチだろう? それに単位ださないなんて、僕がそんな野蛮なこと言うわけない。それにそんなこと言ったら、パワーハラスメントだ」
常に紳士的でエレガントだと自負している宇津木教授は、とてもじゃないが学生の言うことが信じられない。おそらく彼は嘘を吐いているのだろうなと、宇津木教授はその類まれなる卓見性で見抜く。しかし凡人ならば、きっと騙されていたことだろう。なにせ重要文化財級の天才である自分ですら、一瞬確かにそんなことがあって三百円を借りたかもしれないと考えてしまったのだ。凡人ならここで三百円の損失を出していたに違いない。紙一重だったなと、宇津木教授は自分の額に滲んだ汗を手の甲で拭き取る。
「いえ、おっしゃってましたよ。先生なら本気で単位くれなさそうだったから、仕方なく貸したんです」
「まぁ確かに、僕なら本当に単位を出さないだろうね。僕の座右の銘は有言実行だ。やるといったなにがなんでもやる男だよ、僕は」
そう言って、宇津木教授は胸ポケットから煙草を取り出し火を点ける。
「ちなみに聞いておくけど、その話、学生課とかには話してないだろうね?」
「してませんよ。俺としては三百円をきっちり返していただければ文句ないですし、報告するにもあまりにも内容がくだらないですから」
ただ、と学生は続ける。
「先生が意地でも踏み倒すというのなら、パワハラ問題として大学に報告を入れるつもりです」
「ああ、好きにしてかまわないよ」
宇津木教授はニヤリと挑戦的な笑みを浮かべる。
「僕はキミに三百円を借りた記憶もなければ、パワハラ発言をした記憶もない。つまり公になり大きな問題になって困るのは、むしろキミの方じゃないのかい?」
気分は歴戦のネゴシエーターである。宇津木教授は煙草を煙を吐き出し、学生の次の一手を待った。しかしきっと、ぐうの音も出ないだろう。
「分かりました。それじゃあ、いまから電話しますね」
そう言って学生は携帯電話を取り出し、操作し始めた。しかし、その程度のハッタリで動じる宇津木教授ではない。涼しい顔をして、短くなった煙草を灰皿に捨てる。
「あ、もしもし、私はS大学の学生で戸谷幸助と言います。ええ、学籍番号と学部は」
本当はかけていないと分かっていても、少し不安になった宇津木教授は急いで椅子から立ち上がり、学生から携帯電話を取り上げる。
「あっ、なにするんですか」
抗議する学生を無視して、宇津木教授は携帯電話を耳に当てた。携帯電話の向こう側からは、いかにも能天気そうな女性の声が聞こえてくる。その夏の青空に匹敵するほどの能天気な声に、宇津木教授は聞き覚えがあった。携帯電話の通話を切って、宇津木教授は発信履歴から電話番号を確認する。ディスプレイに表示されている番号は、間違いなく大学のものだった。
「まっ、まさか本当に大学にかけるなんて」
「先生がかけていいとおっしゃったんですけどね。あっ、携帯返して下さい」
「だからといって本当にかけたらどうなるか、少し考えれば分かるだろう? 問題になったら、間違いなく僕は大学に入れなくなる。この大学はどうにも僕を追い出したいみたいだからね」
「問題になって困るのは、俺の方だと言ってませんでした?」
「もちろんそうだ。だけどそれは、この大学が普通の大学だったらの話だ」
「いや、普通の大学ですよ」
「キミがそうやって即答できるということが、ここが普通ではない証拠といえる。言い難いことだが、キミはもうこの大学に毒されているんだ」
純粋無垢で善良だった学生を大学の毒から守りきることが出来なかったことに、宇津木教授は目頭が熱くなる。彼は自分の不甲斐なさが情けないと思ったが、すぐに大学生にもなって誰かに守ってもらおうなんていうのは甘えた考え方だと思い直した。全ては学生の自己責任である。そもそも、目の前の学生が元から純粋無垢で善良な学生じゃなかったという可能性も高い。なんにせよ自分には一切の非がないというが分かり、宇津木教授はホッと胸を撫で下ろす。
「俺のどこが毒されているっていうんですか?」
学生が少しむっとしたようは表情で言う。
「仕方ない。教えてあげよう。自分の身体を蝕む病の名前知っておきたいという心理は、まぁ誰にだってあるだろうからね」
そう言いながら、宇津木教授は椅子に座り二本目の煙草に火を点けた。
「まず大前提として、この大学でまともなのは僕と助手の鳥羽くんだけということ念頭に置いて話を聞いてほしい」
「あっ、やっぱりいいです。聞きたくないです」
「まぁそう言わずに聞きなさい」
「嫌です。そりゃ鳥羽先生がまともだっていうのは大いに認めますけど、先生は……」
「鳥羽くんは認めるけど、僕はどうなんだ。きっちり最後まで言いなさい」
「先生はまともじゃないです」
「ずっ随分とはっきり言うなぁ。流石に、少し傷ついた」
「驚いた。先生ってそんな繊細な人だったんですね」
「いや、実はそれほど傷ついてはいない。僕くらいになると日に百回はまともじゃないと言われるからね。いい加減に慣れた」
「……危ない。俺としたことが、少し先生に同情してしまいました」
「しかしこれで、キミが完全に毒されているということが分かった。ふん、自らボロを出すとは間抜けなやつだ」
煙草の灰を灰皿に落とし学生を見る宇津木教授は、まさに探偵気分である。知的に洞察力に優れた自分にはピッタリな役割だなと、宇津木教授は一人で満足する。
「ボロって、なんですか?」
学生の間抜けな問いに、宇津木教授は思い切り溜息を吐きたくなる。まさか自分のゼミの学生がここまで頭の回転が遅いとは思ってみなかった。しかしそれを指摘するのは酷だろうと、宇津木教授は思う。自分という銀河級の天才の前では、人類のほぼ全てが頭の回転が遅いポンコツに見えてしまうからだ。学生に責任はない。全ては強大で絶対的な自分という存在の責任なのだと、宇津木教授は憂いを帯びた笑みを零す。
「キミは頭の回転の遅いね」
しかし宇津木教授は嘘を吐くことが嫌いだし、欠点はしっかり指摘してあげようというスタンスを貫いている。だからこれも指導者の責務だと割り切り、学生に事実を伝えた。
「それじゃあ、先生。次は法廷で会いましょう」
学生は踵を返し、部屋を出ていこうとする。
「あっ、待って。すまない。ごめんなさい。ちょっとした冗談だよ」
「俺だって暇じゃないんですから、話すならとっとと話してくれませんか?」
学生は疲れたように溜息を吐く。
「ああ、分かったよ。いま話す。それで、僕たちはなんの話をしていたっけ?」
「ここが普通の大学じゃないとか、俺が毒されているとか」
「ああそうね、そういう話だった。それで、なぜこの大学が普通ではないかというとだね。それは至極単純な理由だ」
宇津木教授は勝ち誇ったようにフフンと笑う。
「この大学がまともではない理由、それはたった一つ。僕がいまだにこの大学のトップ。つまりは総長になっていないということだ」
このなんの文句もつけられない理由に、おそらく目の前の学生も目が覚めた思いだろう。自分ほど超多次元級の天才がいまだにこの狭くて汚い研究室で、誰からも尊敬されずに、むしろ罵倒されながら日々を送っているというのはおかしな話だと宇津木はつねづね思っていた。普通の大学ならば自分はもうとっくに総長となり、みなから崇められているはずなのだ。しかしこの大学では違う。つまりはこの大学が普通ではない、というのが宇津木教授が達した結論だった。
宇津木教授の言葉を聞いた学生は目を丸くし、彼のことを見ていた。きっと学生はいま、あまりにも論理的すぎる発言に感動しているのだろうと、宇津木教授は思った。
そしれ宇津木教授には学生が次になんと言うのか容易に予測できた。きっと彼は、たっ確かに宇津木教授ほど顔も性格も頭も良い人なら、とっくの昔にその地位にいてもおかしくはない。いや、むしろなっていない方が不自然と言える。しかしそれなのに、宇津木教授がまだこの狭くて汚い研究室にいるのは異常だ。そうだ、これはきっと陰謀に違いない。この大学、普通じゃないなんて生易しい表現では物足りないくらいに腐ってやがる。きっと心理学科の木月先生が心理学の応用かなにかを使い、裏で他の職員たちを操っているに違いない。俺、木月先生の陰謀を突き止めて然るべき場所へ告発します。あと三百円の件は俺の勘違いでした。おそらく、学生はこう言うだろうと宇津木は予測した。
「先生が大学のトップだなんて、ゾッとします」
予測と大きくかけ離れた反応に今度は宇津木教授が目を丸くする。きっと学生は感動のあまり言葉を選び間違えたのだろうなと、宇津木教授は解釈する。まだまだ未熟であり愚かである彼ならば十分にありうることだ。誰にだって間違いはある。宇津木教授は彼の失言をパフェグラスよりも深い慈悲の心で許すことにした。
「どうせ下らないことを言うとは思っていましたけど、いまほど時間を無駄にしているなと実感できたことはありませんね。先生と過ごしているこの時間は俺の人生の中でトップスリーに入るくらいに無駄な時間です」
「本当にキミは、ズバズバものを言うね」
宇津木は咥えていた煙草を灰皿に捨て、新しい煙草に火を点ける。
「いまのは本気で傷ついた。なんだかもう今日はなにもしたくないな。戸谷くん、今日のゼミは鳥羽くんに指導してもらえ」
「えっ、本当ですか!?」
「本当だよ、僕は嘘はつかない。今日はもうゆっくり心を癒したい」
宇津木は溜息と一緒に煙を吐き出す。
「やったー! ラッキー!」
戸谷は指を鳴らし、心底嬉しそうな顔をして言った。
「正直言って、宇津木先生の指導って訳が分からないから、卒論がちゃんと完成するか不安だったんですよね」
「ちゃんと完成するかは、キミの能力しだいだと思うけどね」
そう言って宇津木は自分のパソコンの方に身体を向ける。
「ほら、さっさと出て行ってくれ」
「言われなくても出ていきますよ。それじゃあ先生、さようなら」
戸谷が上機嫌に研究室を後にしてから三秒後、扉がノックされ、宇津木は返事をする。扉が開き部屋に入ってきたのは、彼の助手である鳥羽だった。
「おや、どうしたの?」
宇津木は彼女の方に向き直り尋ねる。
「この間、先生が書いた論文に致命的なミスがあったので、それをお伝えしようと思いまして」
淡々とした口調でそう言う彼女の胸には、大量の赤が入った論文が抱えられていた。
「そういえば、なにやら嬉しそうにこの部屋から出ていく戸谷くんを見ましたが、なにかあったんですか?」
「さぁ、知らない」
宇津木は答えたあと、煙草の煙で作った輪っかを五つ吐き出した。
「あら、上手いですね」
鳥羽は宙を移動する輪っかを目で追いながら、珍しく宇津木を褒めた。
宇津木は微笑み、新たに吐き出した煙で輪っかを消し去る。
「煙の扱いには慣れているんだよ、僕は」
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