第四話「ピンポンダッシュ」
○
給料が不定期な「素敵な白樫探偵事務所」だけのバイトで生活することは極めて経済的に困難だ。
そういう理由で僕はバイトを掛け持ちしている。
働く場所はどこでもよかったのだが、適度に家から近いという理由で大手ハンバーガーショップに決めた。
ある意味実力社会のこの現場は僕の性分にとても合っていた。
今日も裏方でひたすら肉を焼く作業に徹する。
ここの肉を焼く作業は余所に比べると非常に楽だ。なにせ両面焼きができる作りになっていて、わざわざひっくり返す工程を省いている。
が、しかし意外と手の休まる時間がない。
今日もバイトの日だった。
わいわいがやがやと店内で騒ぐ客人の声が気に障る。うるさいな。こっちは忙しいというのに。
しかしお客様は神様と誰かが言った。忙しいというのはその分この店が繁盛している証。喜ばなくては。
でも暑い。
動き回るたびに決して広くない厨房の作りはよく分からない機会が運転して出す熱が、肌をねっとりとした汗に塗れさせることになる。
これで僕だけならそこまでストレスは感じないだろうが、厨房には結構人数がいる。人とぶつかる度に僕のやる気はどんどん消えていく。
がんばれ、それでもがんばれ。僕は自分を鼓舞しながら腕時計を見た。
12時14分。
忙しい原因はこれか。お昼のラッシュ時。主に高校生を主体とした客が押し寄せてくる。
『バーガー3つにダブル2つ、チーズ2つー』
クソ! またオーダーか。
椎柴梢19歳。元気でバイトに勤しんでいます。
○
僕は自分のシフトの時間が終わったので、奥の更衣室で着替えを済ませていた。道行く人には適当に「お疲れさまでしたー」と声を放っておく。
今が大体5時を回ったくらいだから、芳人さんの所に行くのは6時前くらいかな。なんて事を考えていたら誰かに肩を叩かれた。
「よ、椎柴。今帰り? 俺もなんだよ。一緒に帰ろうぜ」
酷い話だと思わないでくれ。
今まで語ってきた話の中で僕がどれだけ誠実で、また謙虚な男かは知っているはずだ。
しかしこれが僕の本心。
この男、誰だ?
いや勿論同じバイトのメンバーだということは分かっている。実際厨房で何回か見かけたことはあるし、シフトが重なったこともあるだろう。だがこんなにフレンドリーに会話をする間柄ではなかったはずだ。
「おいおい。俺が誰か分からないって面やめろよ。地味に傷つくぞ」
「ああ、そうだね。ごめん。じゃあ失礼ついでに名前なんだっけ」
「お前マジかよ……。水楢だよ。水楢殻斗」
ふうん。冷たく聞こえるかもしれないけど、聞いたところで訊き覚えのある名前じゃないな。周りが言ってても多分耳から通り抜けてたんだろう。
そもそも僕はちょっと不良っぽい感じの人が苦手だ。
なんていうの? 自己主張が強いっていうのが気にくわない? まあ僕の器が小さいと言われればそれまでなのだけど。
それで、だ。水楢なんてその典型なのだ。
ツンツンに逆立てた金髪を横だけ刈上げていて、見様によっては黄金の剣山だ。
着ている服も気にくわない。
体のサイズに合っていない大きな服に、ブランドか何かのベルトで締めた綿のパンツ。ブランドに疎いのでよくは分からないが、とにかく着かたに品がない。
おまけに顔がいい。
目鼻のバランス配置がいいし、眉毛がつり上がっていてそこそこ威圧感もある。眼はぱっちりと二重だし女に苦労はしていなさそうだ。
僕は、他人は好きな人間と嫌いな人間、もしくは自分と合わない人間は一瞬でじっくりと観察する癖がある。どちらも自分に何らかの影響を与えるからだ。好きな人はより知るために観察し、嫌いな人間はどこが嫌いなのかきちっと理解してから嫌う。頭ごなしにその人間のことを否定するのは僕の理念にそっていない。
だから言おう、僕はコイツが嫌いだ。
「で、君が僕になんの用?」
「うお、冷てえ! なんだこのドライアイス野郎」
僕は二酸化炭素じゃない。
「ああ、実はな」
「どちらにしても遠慮しておくよ。この後ちょっと用事があるんだ」
芳人さんの事務所に顔を出すだけだが、この頃なんとなく習慣化してきたんだよな。高校時代毎日かかさずクラブに行っていた感覚に近い。
「用事? それって例のバイトか?」
こういうやつってなんでこう他人の情報を盗むのがうまいんだ。誰に聞いた? 店長か? どちらにせよ僕の個人情報をお前が持つな。
「ああそうだよ。何か用事でもあるの?」
「ああ、実はそのお前のバイト先に用事があるんだよ」
「探偵事務所だよ?」
「ああ。知ってる。だから頼みたいんだ」
…………え?
○
水楢はとにかく道中五月蠅かった。
やれ普段お前は何してるだ。
やれ好きなテレビ番組はなんだ。
やれ好きな女のタイプはなんだって、うるせえよ!
少しは落ち着きを保ったらどうだ! と、僕が激高寸前、血管炸裂の手前でようやく事務所についた。いやあ長かった。
「うは、めちゃ雰囲気出てるじゃん」
「うるさいよ。さっさと入れ」
「ちょ、お前めっちゃ冷た!」
「う・る・さ・い!」
僕とこの男は前世で何かあったんじゃないだろうか。理屈じゃないんだ。生理的にもうコイツが無理なんだ。
重たい両手式のドアを開けるとむわっとした熱気が立ち込める。まだクーラー直ってなかったのか……。
「あー、なに? ここそういう仕様なわけ?」
水楢はぱたぱたと服を指でつまんで風を送り僕に尋ねる。違うわ。
少し歩いて待合のソファを確認したが、芳人さんの姿がなかった。
「あれ? 芳人さんがいない」
珍しいな。あの人が日のあるうちに外に出るなんて。
ごそごそという音が聞こえた。
音のした方を見ると給湯室の方だ。誰かいるのか? と思って近づいてみると、そこに因香ちゃんが三角座りでアイスピックを握りしめていた。
アイスピック?
「怖!」
「……な、違っ!」
「え、なになに? だれかいんの? 梢くーん?」
「うるせえ! 人を下の名前で呼ぶな水楢!」
何にしても水楢に因香ちゃんを晒してはいけない気がする。よくは分からないが本能がそう告げた。ってまずい水楢がこっちに近づいてくる。ここは全力で阻止せねば。
「なんもないって。いいからほら、アイスでも食ってろよ」
「マジで氷だすやつ初めて見た。いやまあ確かにICEだけどよ……」
僕はまな板に炸裂している(恐らく因香ちゃんが砕いたであろう)アイスの欠片を水楢に押しつけた。そうか、クーラーが潰れたから臨時で冷凍庫一杯にタッパーを使って氷を作っていたっけ。なら因香ちゃんがアイスピックを握っていても何の不思議もない。
「……今日のコズエは、変。キャラが違う」
因香ちゃんの呟きは聞こえなかった。
○
『素敵な白樫探偵事務所』は光ヶ丘の隣の町の一角の貸事務所。その二階に家城を立てている。
町の名前は城崎台。
光ヶ丘から隣接している町で、こちらは住宅街がよく目につく。
そんななかでかでかと自己主張するようにそびえ立つその建築物はやや不自然に思える。
築四十四年のひび割れたコンクリートが目立つ外面を潜り、滑り止めが所々剥げた階段を昇ると、茶色いシミのついた重みのある扉がそこにはある。
そこが『素敵な白樫探偵事務所』だ。
二〇畳ほどの広さの空間がその中に広がりっている。日当たりはいいらしく、左手に見える大きなガラス窓からはよく西日が差している。モデルハウスのリビングルームの様な広大さを感じるが、実際は物が少ないのでそう感じるだけかもしれない。家具らしい家具は中央に人口皮のソファが二つ向かって並び、間にはその高さに合わせた机がある。そこから窓際に向かって観葉植物が二個。何に使うのか不明のちゃぶ台が一つ置かれている。どの中でさらにいくつか部屋にも別れる。
一つが給湯室。部屋の隅に小さく鎮座していて、因香ちゃん御用達のマイルームと化している。コーヒーや紅茶など、来客者に出す飲料の粉末やパックのほか、アイスクリームやシュークリームまで完備してある。(ただし冷蔵庫にしまってあるそれらを無断で食すると、能面のような表情の因香ちゃんが文化包丁を振り回してくるので注意。)
もう一つが会議室と呼ばれる場所であり、芳人さんはなにか特別な依頼人にのみこの部屋を使って交渉をする。中の内装は外のソファとあまり変わりはない。ただ防音設備が整っているのか、部屋の中の声はたとえ壁に耳を立ててみても聞こえない。
最後にもう一つ。
芳人さんの部屋である。
会議室のすぐ横にあるその部屋は、実のところ僕は未だ入ったことがない。
確か以前入ろうとして芳人さんに止められたのだ。
それでも今は緊急事態だろう。
一応は依頼人が来ているのに姿を見せない主がいけない。
「芳人さん、います? 開けますよ?」
僕はノックを二回ほど鳴らして、それでも返事がなかったので無断で芳人さんの部屋に入った。
「あれ? やっぱいないな。どっか行ってんのかなー」
やはりというか当然というか、芳人さんの姿はそこにはなかった。
ちょっと芳人さん呼んでくると言い、置いてきた水楢の事を思い出したので僕はすぐに扉を閉めて出ようとした。ここに芳人さんがいないと証明されれば水楢もおとなしく帰るだろうと思ったからだ。
しかし僕の手はピタリと止まることになった。
カーテンを閉め、今まで真っ暗で何も見えなかった目が慣れて、部屋全体が見えるようになったからだ。
そこは見渡す限り本と紙の束だった。
部屋の四方には本棚がびっしりと固められており、またその中にも本が隙間なく埋め尽くされている。プリント類が床に散らばっており、唯一本棚以外の家具である机の上にも例外なく紙の束がばら撒かれていた。掃除が行き届いていないのか、そこらで埃や砂が広がっている。しかし、それよりもその本。僕の興味はそちらに注がれていた。
「なんだよ、これ」
僕は知らず呟いていた。
これがただの本なら僕は何も口にすることなく、単に「へえ、芳人さんって意外と勉強家なんだな」と思う程度だっただろう。
だがしかし、明るみになっていく本の背表紙が目に映るたびにその気持ちは抑えていった。
「脳心理学」「民話」「伝承」「六神通」。表紙の単語を拾うだけであまり一般人が趣味として読むものではないということが窺えた。
茫然と眺めていると、ぽんぽんっと誰かが僕の肩を叩いた。
「開けんなって言ったじゃん梢クン」
「……芳人さん、帰ってたんですか?」
「んー、ついさっきね。で、居間の金髪は誰さ」
いつも通り洒落た服を着崩した芳人さんが「おうおう、ひょっとして依頼人か?」と尋ねたので頷いた。
一連の動作の中で、僕が芳人さんの部屋で見た物を芳人さんに尋ねることはできなかった。
○
「前金はなしでいいよ」
またあんたは……。と僕は内心毒づいた。
「え、まじっすか? いやあの噂って本当だったんだな」
「噂? ぜひ聞かせろ殻斗よ」
「あ、何? 聞きたい? 教えて欲しかったりする?」
あったりめーよ。
どうしよっかなー。
うひょひょひょひょ。
馬鹿だこいつら。
白樫芳人に水楢殻斗。この二人の組み合わせは最悪だ。
僕がそう思うようになったのはあれから3分後。つまり芳人さんの部屋から出てすぐだった。
依頼人である水楢と対面になるようにソファに座った芳人さんは初めまではよかった。
『どうも、水楢です』
『どうも、白樫です』
始まりの二人の会話。ここまではいい。
ちょっとしてから、くいくいっと僕の服の裾を引く何かの存在に気がついた。因香ちゃんだ。
「なに? どうしたの?」
僕は小声で因香ちゃんに聞いた。ちなみに僕は芳人さんの隣に座っているわけではなく、ソファから離れたちゃぶ台の上に座っていた。隣に置いてある観葉植物の陰から因香ちゃんは僕を呼んだのだ。
挙動から水楢に自分の存在を知られないように努力している節があったので、僕の声も自然小さくなった。
「……先帰っても」
「いいよ。じゃあ水楢に見つからないようにこっそりとね?」
「…………なんで?」
「え、いやだってあいつ垂らしっぽいし」
「……そんなに悪い人じゃない。と思う」
ならなんで君は隠れているんだ。と突っ込みかけたが、そう言えば僕がそうするように言ったんだと思い出して止めた。しかし悪い人じゃない、ねぇ。信じられないな。
その時だ、突然前の二人が爆笑しだしたのは。
怪訝に振り返ってみると彼らは二人仲好く肩を組んでいた。
なんなんだ、いったい。
「妹の様子が変なんだ!」
水楢の話はこうだった。
曰く、最近自分の四つ離れた妹が夜な夜なピンポンダッシュを繰り返しているという。
結局因香ちゃんがこっそり脱出することは叶わず、最悪なことに水楢にも因香ちゃんを発見されていまい、そこでまた面倒なことがあったのだが、今は割愛。諦めて僕は芳人さんの隣に座り、一緒になって話を聞いていた。ちなみに因香ちゃんは会議室に逃げた。
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
僕は怪訝とした声音で尋ねた。
「ストーキングしたのだ!」
呆れるを通り越して一瞬何を言ったのか理解できなかった。身内でもストーキングって罪にならないのか?
話を戻す。午後十時頃になると妹はそわそわしだし、いつの間にか家にいなくなっているという。
始めのうちは、コンビニでも行ったんじゃないか? と楽観視していたが、それにしては帰りが遅すぎる。
二時間後に帰ってきた妹は頑としてどこに行ったのかは教えなかった。
更に立て続けに四度、家を抜け出した。水楢は両親と相談し、ストーキング行為に及ぶことにしたという。
「まず外出禁止を掲げたらどうなんだよ」
「したよ。でも反抗期でさ。扉破って行っちゃったんだからしょうがねえだろ」
「どこのゴリラだよ……」
こっそりこっそり追跡した結果、自宅から数キロ離れたぼろいアパートで止まった。
「それで、ピンポンダッシュ?」
「悪い娘じゃないんだ。多分何か理由があると思う。でも押した直後に一目散に逃げ出すなんてピンポンダッシュ以外にないだろ?」
水楢がその光景を見たのは一度だけではなかったらしい。
二度三度妹の後をつけてみてもやはり妹は相手の返事を得る前に扉から去っていくそうだ。
「もう一週間だ。さすがに心配になってきた」
シスコンだなこいつ。
「妹の動向を探ってくれないか?」
○
水楢が事務所を後にしてから数刻後。僕たち因香ちゃんを含む三人は例のピンポンダッシュに遭うアパート前まで来ていた。因香ちゃんを連れてきた理由はいまいちわからないが、芳人さん曰く大分重要らしい。水楢はもしばれるといけないので自宅待機だ。また、言うまでもないが男女含めた三人組という構図はかなり怪しい。できるだけ人に見られない建物の角などに隠れているのだが、警察を呼ばれないか心配である。
ピンポンダッシュは続ければ犯罪になるらしい。ということは昨夜ネットで調べてみて分かったことだ。
どうも書類送検の際、「押しかけ」容疑という物になるらしい。
たかがピンポンダッシュで、と思っていた僕は甘かったみたいだ。
「殻斗の妹、名前、なんていったっけ?」
「翼果ちゃんです」
「変わった名前だな」
「…………可愛い」
芳人さんの持っている一枚の写真の中央にはショートカットの女の子が映っていた。日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑っている少女は因香ちゃんの言うと通り確かに可愛らしい。いかにもスポーツ少女という感じの娘で、およそ兄との血のつながりを感じられない。
「梢クン。今何時?」
「十時前です。もうちょっとですね」
そうかと腕を組み、何やら思案に耽る様子の芳人さん。
「……梢、お腹が……」
さすりさすりと腹部をさすって物欲しげな顔をする因香ちゃんに、緊急時に持ち備えているカロリーメイトを渡して黙らせた。緊張感のない娘だ。
この辺りはぎりぎり城崎に入っているのだが、それにしては車の交通量が多い。帰宅ラッシュはとうに過ぎただろうに、少し先の道路ではまだ車が走っている。
暇だな。
「……………」
僕は芳人さんに視線を向ける。
さっきから、いや、ずっと前から聞きたかった疑問が僕の胸の中にはあった。
「最近特に思うんですがね」
「なんだい梢クン」
「あなたちょっとお人好しすぎやしませんか?」
「そうか?」
芳人さんはすっとボケたままちゅーちゅーとパックのオレンジジュースを吸ってそっぽを向いた。
「水楢の依頼。あれどう見ても探偵の仕事じゃないと思います。仮にそうだとしても、なんですか前金一万って。舐めてるんですか」
僕は探偵という職業の、相場の値段ってやつは知らない。
ただ芳人さんの場合明らかに安いということは推し量れた。
芳人さんは一つ息をついてちらりと因香ちゃんの方を向き、また僕を見て答えた。なにか因香ちゃんには言いたくないことでもあるんだろうか。
「俺は正直金はどうでもいいんだよ」
「商売でしょ? でも一応は」
「おまけみたいなもんだよ探偵なんてさ。あそこの事務所もコネで入れてるようなもんでよ。家賃もあんまし取られねえんだ」
「だったら、なんで探偵なんて商売……」
「し、来たぞ!」
僕たちはそっと会話を打ち切った。
目的の人物が視界の隅に入った。
○
水楢翼果は挙動不審の塊だった。
きょろきょろとあたりを見渡し、小刻みに体が震えていることから極度に緊張しているんだということがわかった。
「これを水楢は見てたのか。そりゃたしかに誰かに相談もしたくなるかな」
「殻斗を連れてこなくて正解かもなこりゃ」
僕と芳人さんは互いに顔を見合せてそっと翼果を観察した。
「因香ちゃん。そっちはどう?」
『……問題ない』
僕と芳人さんは、アパートを見えやすい位置のスーパーの陰に移動した。そこからこっそりと双眼鏡を使って覗いている。時間が夜分ということもあって人通りは少ないが、これじゃあ不審者だよなあという感想は今は置いておくことにする。芳人さんと交代で双眼鏡を使い、僕は今携帯電話を使って因果ちゃんに翼果の動向を調べてもらっていた。
「二手に別れよう」
芳人さんの提案した作戦はこの人らしからぬほど単純だった。
まず僕たち男二人が遠くから、といっても走って駆け付けれる範囲内でだが、双眼鏡で翼果を観察。ピンポンダッシュの現場を目撃したら即捕獲とのことだった。
「捕まえていいんですか? それってなんだか僕らの了解ではない気がするんですけど」
「兄貴が困ってんだ。ちいっとばっか説教垂れてやってもいいだろ」
僕が疑問を浮かべると芳人さんは笑顔で答えた。
以上が今回の作戦。
因香ちゃんだけ単独行動なのは、これが芳人さんが因果ちゃんを連れてきた理由の一つらしいからだ。
『相手は女性だから、下手に俺らが窺うより勝手がいいだろ』らしい。
「じゃあ引き続き調査を――」
『……あ……』
「ん、何? 何なの因香ちゃん」
『……逃げられた』
「へ?」
「どうやら本当みたいだぞ梢クン。彼女は今日は何もせずに帰って行った」
拍子ぬけみたいな話だった。
事もあろうに、今日、この日に限って翼果はなんのアクションも起こさず帰ったらしい。なにしに来たんだあの娘は。
「え? 嘘、本当に?」
「ああマジだ。見た感じ因香に反応して逃げたって感じだな。あいつ実は知り合いなんじゃねえのか? 今はんなこといいか。まあちょっとアパートまで行くこう。手がかり掴めるかもだしよ」
虚脱感は否めないまま、僕は芳人さんについていった。
「―――――」
『―――――』
現場に着くと因香ちゃんは誰かと話していた。
高校生くらいの男だろうか? メガネを掛けていて真面目そうな顔つきだ。どうもこの少年がアパートの部屋の主らしい。
「よぉ」
芳人さんは因香ちゃんのほうに片手をあげて近づいていった。僕も後に続く。
会話を中断されて、少年が芳人さんと僕を交互に見て、はじめましてと言った。礼儀正しい少年は評価が高い。僕らも簡単な自己紹介を済ませた。因香ちゃんが事前に説明してくれていたせいか、特に怪しまれることはなかった。
「始まりは一週間前でした」
少年はそう切り出してこう続けた。
必ず十時に鳴るチャイムなんですけど、不思議と嫌な感じとかはしなくて、でも誰がしているんだろうってずっと思ってました。
いやがらせを受けているわけじゃないって、そうは思っていたんですけど、どうも犯人が分からないとちょっと怖いですね。と。
僕たちが翼果の写真を見せると、少年は途端に納得がいったとばかりに笑った。
「彼女でしたか。だったら嬉しいな」
「嬉しい? なんでかな」
僕は尋ねた。悪戯をされて嬉しいものなのか?
「学校ではあんまり喋らないんですけど、昔は家が近くてとてもよくしてもらったんです。彼女がしているってことは単に悪戯ってわけでもないでしょう」
だからよかった、と。僕にはよく分からない感じだった。
「なあ、えと、君、名前なんていうんだ?」
芳人さんは言葉を探すように少年に尋ねた。芳人さんが一般人っぽく人と接すると不自然に映る。今がそれだ。
「江夏です。江夏瑠衣。女みたいな名前ですけど男ですよ」
「なうほどねえ。ちょっと部屋までいいかい?」
「え、いいですけどなんです?」
江夏少年が玄関まで案内すると、芳人さんは「いやここでいい」と扉のまで立ち止まった。
赤錆びた、アルミ製の安っぽい扉にそっと手を触れ、そうかと思うと他人の日記を無断で読んだような気不味い顔を浮かべて「ありがとう。もういいよ」と言った。
僕はそれだけで芳人さんが何をしたかわかった。
扉の感情を読んだのだ。
毎晩毎晩通い続ける翼果には強い思いがあったはずだ。
その思いは物に伝わり、蓄積する。
しかしなんでまた芳人さんはあんなにやってしまったという表情をしているのだろうか。まさか翼果は本当に犯罪行為を仕出かそうと計画していたのか。
「……にぶちん」
因香ちゃんに肩を落として溜息を吐かれても、分からないものわからなかった。
○
「結論を言おう」
「おうよ芳人っち」
「君の妹は白だ、が同時に黒でもある」
「あん?」
翌日、午前八時半。芳人さんは水楢を事務所に呼んだ。事件が解決したと。そういうと水楢はすぐに飛んできた。貴様大学とか行ってないのか? たしか僕と同い年だろと思ったが、家族が心配なだけだったかもしれないので余計な口は挟まなかった。
「ピンポンだダッシュはしてはいないがいろいろと大変なようだ」
「よかった。って、はい? え、つかどういうこと?」
勿体ぶった話し方をする時のこの人は天才だ。相手がどんどん怒っていっているのが手に取るようにわかる。
「妹も年頃ってことだよ」
「は? はあああああ?」
うんうんとしきりに頷く芳人さんの正面で、わけわかんねえよと頭を抱える水楢が滑稽だった。
今頃上手くやっているだろうか。
事件が解決? したのか僕には不明だが、少なくとも芳人さんと因香ちゃんの間ではもう終わったことになっているらしい。
その時因香ちゃんは、この件は自分の口から彼女に話したいといった。
曰く、彼女と自分は同じ学校だという。
写真では分からなかったが、会って気がついたらしい。もらった写真も二年前だったから、そりゃあ気がつかなくても無理はなかったが。
それよりも、あの無口少女がどんな説明をするのやら。
僕は心配ながらも彼女の成長に嬉しく思いながら、澄みわたる空を事務所の窓から眺めた。
○
「最悪だ」
口に出すとますます落ち込んできた。うわ、どうしようどうしよう。
水楢翼果はこんなに弱い人間だったのか? と自分に尋ねるが、それとこれとは話が別だと逃げる自分がいた。
私はスポーツとか割と得意だ。格闘技も嫌いじゃないし、勝負事ってなると血が騒ぐ。
でも、でも無理。
その、あれだ。その、れ、れ、恋あ、うわああああ!
無理、もうダメ。やっちゃった。昨日見られた。私が瑠衣のところ行ってるの見られた。クラスのやつだ。名前はなんだっけ。白川? 白樫? どっちでもいい。でも見られた。
私は江夏瑠衣ってやつが好きだ。
でも学校じゃなかなか話せなくて。それどころか外でも話せなくて。
昔は家が近かったからよく話したし遊んだ。
でもあいつの家の事情で転校して、帰ってきたらあいつは一人だった。
一人でアパート借りて暮らしてた。
クラスの中での私の立ち位置は謙遜せずに言えば中心だ。
クラスのイベント毎に私たちのグループが前に立つし、男子のそういう感じのグループとも仲が良くてカラオケなんかにいったりもした。
そういう意味で瑠衣と私は対極の存在なのかもしれない。
直接クラスまで行ったことはないけど、瑠衣は明るくなにか話す人間じゃない。どちらというと落ち着いていて、悪く言えば根暗だ。
でも好きだ。
その自覚は二週間前から始まった。
二週間前、私はクラスの中心人物的な存在の男子に告白された。
顔は悪いほうじゃない。むしろいい方で、ノリもよくて、運動ができて、でもバカで、付き合ってみても悪くないんじゃないかって思ってた。でも不安だった。続いていくのかもそうだし、私が求めていたのは本当にこいつだったのかっていう答えの出ない疑問が渦巻いて、しばらく何も考えられなくなった。
瑠衣の姿を見たのはそんなときだった。
学校の帰り道の公園のベンチで一人本を読んでた。私はちらっと見ただけで、通り過ぎようとしたときに瑠衣に声を掛けられた。
「翼果ちゃん久し振り」
私は無視した。返事したら、理由はなく、答える気がなかった。
でも、その後瑠衣は本に目を戻しながら言った言葉が強烈だった。
「あんまり思いつめない方がいいよ」
どきりと心臓が跳ねた。
だってだよ? 私何も言ってないよ? 会うのだって久し振りだよ? なのに、それなのにこの男は私の不調を見破った。
長年培われてきたなかで私のポーカーフェイスは完璧だった。
笑顔で、楽しくわらってりゃそれで人は騙される。このこはいい子だと錯覚させることができる。
瑠衣は昔から私の表情を見破るのが上手だった。瑠衣だけが私の本当の顔を知っていた。
そう思うと告白してきた男子のことなんて頭からはじけ飛んだ。悪いけど。本当に申し訳ないけど。眼中になくなった。
私は瑠衣に何一つ言葉を返せずに逃げ去った。
逃げ去った後心臓が痛いくらいに鳴っているのに気がついた。
おいおいいくらなんでも走りすぎだろ自分。みたいなことを言って誤魔化しても無駄。気づいてしまった。
ああ、私はこの人が好きなんだ、って。
翌日私は告白してきた男子にすっぱりと断った。これからも良き友というアフターサービス付きの生殺し状態だ。
そんなことはどうでもいい。問題は瑠衣だ。
瑠衣はほぼ毎日放課後から夜までバイト尽しらしい。狙うなら夜だ。高校生なんだから十時くらいに訪ねたらいるだろう。
会いたい。でも突然行ったら気味が悪がれるだろうか。
でも決行。自分の行動力には感心する物があった。
それでもそこまで。インターホンを押した瞬間恥ずかしくて私は逃げ出した。無理だって。心臓が私を殺すんだよ。
それを繰り返して、繰り返して、気がつけば一週間がたった。ただの変質者だよこれ、と思って昨日、今日こそはって勢い込んで行ってみたら、あいつがいた。
「……水楢さん」
「うひゃい!」
いきなり現実に引き戻されて、アホな声を出してしまった。誰だ私を呼ぶのはってうわああああああ!
「うあああああああああ!!」
「……落ち着いて。席、座って」
あいつだ。白川か白樫のどっちか。昨日見られたあいつだ。
くそこの根暗女子。なんだよ。私を笑いに来たのかよ。帰れよ馬鹿野郎!
「……昨日、江夏君に会った」
「……あぃ?」
「……大丈夫だよ。江夏君はとてもいい人」
わかってるよ。ていうかあんたなんで瑠衣と、っていうか!
「……江夏君。いいよ」
「う、ぇ? 瑠衣?」
根暗女がちょいちょいと手を招くと瑠衣がいつものような笑みを浮かべてやってきた。やばいまた心臓が。
「……お兄さん、心配してた」
根暗女が何を言わんとしているか分かった。余計なお節介を焼いたってことだろう。手段は選べってことか。昨日の件といい、何ものなんだこの娘。
「……あんた、名前は?」
「……白樫、因香」
「あ、っそ。覚えた。あんたの名前。……なんで昨日いたのかわかんないけどさ。ごめん。そんでありがとう」
白樫は唇の端を少しだけ持ち上げて去って行った。多分笑ったんだろうけどあんまり表情に変化がなかった。
「翼果ちゃん」
「うわ!」
しまった。あの娘とんでもない爆弾残して行ったんだった。
○
奢ってやるよ。ついてこい。
芳人さんがそういうには何か裏があるなと思った。
「さて、どうしたものか」
「注文ですか?」
「男だけでジャンボパフェはきついかって違うわ。いつか言ったろ、なんで探偵してるかってよ」
芳人さん御用達だという喫茶店に入っての会話だ。隣に因果ちゃんはいない。
「言いましたね。昨日ですか?」
「ああ。あんときゃ因果がいたからな。言いたくなかったんだよ」
妹に言いたくないような事を他人の僕に言う。それはなにか不思議な感じもした。
「俺の能力って、どう思う?」
突然の質問だった。
「どうって、別に便利だなーくらいにしか」
「俺もそう思う。でも、因果はそうは思っちゃいない」
言葉がなく、静寂な空気が流れた。
「梢クンはこの街出身じゃないからわかんねえだろうけどな、ここにゃ妙な言い伝えっつーか伝承みたいなもんがあんだよ」
「伝承、ですか?」
「その昔この地にゃ神様がいた。神は人と仲良くなろうと人の心を読もうとした。その結果神は死んだっつー伝承だよ」
「途中の過程えらくすっとばしましたね」
語り口調から真剣だと思っていたが違うのか?
「殺されたんだよ。他でもない人間にな」
違う。芳人さんは敢えて口調を軽いものにして話しやすくしようとしているのだ。それの意図はどこにあるのか。
「本末転倒だと思わねえか? 人と仲良くなろうとするにはよ、その人が何を考えてるのかわかりゃ手っとり早い。でも自分の心が覗かれてるなんて知ったら人は気味悪がる。怖い。そう思う。だから人は神を殺した」
「……なんでそんな話を?」
僕は聞きながらもある程度予想はしていた。
超能力、神の伝承。この二つの関連性について。
「神様は死ぬ直前に自分の力をこの街にばらまいたそうだぜ。だからこうやって、俺や『ゲキアン』のもっちーさんみたいな異端児が生まれることもあるらしい。この街の超能力者に心を司るものが多いのはそのせいだ」
「因香ちゃんはなんで抜いたんですか?」
僕は率直な疑問を尋ねた。抜くにしても理由が分からない。
「因香はな、後天的なんだよ」
「後天、的?」
「ふつうこういうのってよ、おぎゃあと生まれてずっと付きまとうものなんだが、因香は違う。あいつは移されたんだ」
「どういうことです?」
僕の尋ね方は次第に熱を帯びていった。
「因香は能力を得たことで酷く内向的になった。人見知りはするようになったし、言葉数も減った。探偵なんて商売やってりゃ嫌でも人脈は広がる。何かこの能力の手がかりが見つかるかもしれない。因香だけでも元の体に戻せないか。それが俺の探偵を続ける理由だ」
「さっきの話をまだしていません。いったい誰に因香ちゃんは移されたんです?」
身を乗り出さんばかりに芳人さんに詰め寄ったが、ちょうどその時注文していたコーヒーが二つやってきて中断となった。
「入鹿」
「え?」
それはとても小さな声だった。思わず訊き返してしまうほどに。
「細雪入鹿。因香の姉だよ」