夏まであと3㎝
夏休みの今日は朝から憎らしいくらい、いいお天気。
抜けるような青空、更にモクモクと空を覆う白い入道雲。
なのに私は今、薄暗い教室の中で、補習授業を受けている。
もちろん教室の中は外からの光も入ってるから明るいんだけども。
でもでもっ。
教室の中に閉じ込められている私達にとっては、窓から見える外の景色は嫌味なくらい眩しくて、暗く感じても仕方ないと思わない?
そしてまた、窓の外の光景に溜息が出る。
でもその溜息は、青い空と白い入道雲だけが原因じゃない。
私達が今補習を受けている二階の教室の窓からは、丁度プールが見えるのだ。
水泳部だと思うんだけど、朝から何人かの生徒と先生が使用していた。
厳しい声も飛び交っていて、部活ともなると楽しいだけではないとは思う。
けれどもキラキラと乱反射している水滴はとても眩しくて、あそこに身を投じたら気持ちいいだろうな、そんな事を考えてしまって、気づけばまた一つ、溜息が漏れる。
とは思っても、私は実はカナヅチだから泳げない。
それも溜息となってしまう。
◇ ◇ ◇
高校生になって初めての期末テストは、英語がイマイチだった。
赤点こそはなんとか間逃れたものの、我ながら素敵によろしくない点数だった。
だから、補習は希望制だったけど受ける事にしたんだよね。
そうなると、どーせ学校に来ているのだからと他の科目もいくつか補習を受ける事にした。
がらんとした教室の中、方々好きな席に散らばっている生徒達の座席を周るように歩きながら、先生は綺麗な発音で教科書を朗読してくれている。
そんな合間にも視線を教科書から窓の景色へとずらしてみると、見覚えのある男子生徒が居る事に気づく。
同じクラスの坂下だった。
そっか、水泳部だったんだ、そういえばそんな話も聞いた事あるな、なんてぼんやりと記憶の糸を手繰りよせる。
あー、でもそっかそっか、どーりで最近ぐんぐん肌の色黒くなっていくと思ってたわ。
なんて一人納得してみる。
坂下はクラスでもにぎやかな方で、少しあどけない表情で人懐っこく笑う。
ちょっとガキくささがぬけないけど、女子の間での評価はまあまあいい方だ。
私も嫌いではない。
かといって特別に思った事はないんだけど、うーん、まあ、男子の中では話しやすいから、ちょこちょこ話してるって言えば話してるかも。
なんて考えていたら、坂下はざばあっと水しぶきを引き連れながら、勢いよくプールから上がり、ぶるぶるっと首を横に振った。
ぶ。
体を洗われた後の犬みたいだ。
私は教科書で口元を隠しつつ、声に出すのはなんとか堪えつつ、小さく笑ってしまった。
そんな感じでついつい、坂下の事を観察していたら、奴は不意に顔を上に動かした。
そうなると坂下は丁度この教室を見上げる形になる。
ぎく。
なぜだか坂下の事を見てた事が後ろ暗くて、ドキドキとしてしまった。
でも坂下は教室をなんとなく見上げているだけで、私の事なんて気づく訳……あれ、泳ぐように動いていた奴の視線が、ピタリと止まる。
……目が合った?
思わず目を逸らそうとした瞬間、坂下はにかっと悪戯っ子みたいな顔で笑ってみせると、両手で大きく手をぶんぶん振った。
あまりの事に、ぽかんと見つめたままでいると、坂下は先輩だろうか、頭を軽く殴られてプールの端へと連れていかれた。
もっとも、殴った先輩らしき人も、本気で怒っているという訳でもなさそうで、二人共笑顔まじりでじゃれあってるって感じだ。
やだ、それにしてもびっくりしたなぁ。
びっくりして、心臓がなぜだかバクバクと大きく暴れていた。
予想外の出来事に遭遇したせいかな?
◇ ◇ ◇
補習を終え、校舎から出ると襲ってくる熱気と同時に、妙な開放感。
やっぱりこんないいお天気の日に、箱の中に居るのはもったいないなぁ、なんて思う。
それでも少し歩くだけでもじわじわと汗が浮かんでくる。
できるだけ日陰を選びながら校門に向かっていると、後ろから私の事を呼び止める声がした。
「おーい、笠原」
振り向いてみると、声の主は予想通り坂下だった。
駆け足で駆け寄ってくるその姿は、なんだか子犬みたいだな、なんて内心思う。
近くで見ると坂下の髪の毛はまだほんのりと湿っているけど、この暑さだと髪の毛にまとわりついている水分もすぐに蒸発してしまうだろう。
「補習受けてたんだ?」
「うん、英語の補習受けてるんだ。んで、他の科目もちょろちょろっと。坂下は部活なんだね、そっちも今日は終ったの?」
「うん、まあね」
私達はゆっくり歩きながら、校門から出た。
私は電車通学なんだけど、坂下も同じ方を歩いてるからそうなのかな?
いつもと同じつもりなのに、なんだか変な緊張感が沸いてくる。
見つめていたのをばれたからだろうか。
でも、あれはなんとなく見つけてしまっただけなんだけど、なんて聞かれてもいない事を心の中でいい訳している私。
「びっくりしたよ、こっちに気づいたからって、普通あんな風に手ぶんぶん振り回すもの?」
だから、なんとも思ってないんだよ、ってつもりでそんな事を投げかけてみる。
「えー。だって笠原、教室に居るのつまんねー、水浴びしたいって顔してたぞ? だからつい羨ましがらせたくなったつーか」
屈託なく、カラカラと笑いながら坂下はそんな事を言う。
そんな、顔に出てたかなぁ、コイツってば運動神経だけじゃなくて、視力もいいのか、なんて呆然と考えてしまう。
私は余程変な表情をしていたのだろう、坂下は不思議そうな表情になる。
「あれ? 違った?」
違ってたら恥ずかしいなぁ、なんて口にしなくても表情にそう出てる坂下は、やっぱり印象どおり犬っぽい。
「……ううん。違わない……だって皆気持ちよさそうに泳いでるんだもん」
正直な坂下に意地張っても仕方ない。
私が素直にそう告げると、坂下は途端にしたり顔になる。
……お子様か、お前は。
そんな話をしながら私達は駅前の大きな交差点にたどり着く。
信号を待ってるとかなり時間がかかって効率が悪いので、歩行者はほとんど歩道橋を利用する。
ご多分に漏れず私達も歩道橋を渡り始める。
道路の真ん中に構えている歩道橋の上は日陰がなくて、太陽の日差しから逃れられない。
私達はじりじりと太陽に焼かれながら、歩道橋の上を歩いていく。
「でもなぁ、私泳げないんだよね……」
そうなんだよね、水浴び程度ならいいけど、息継ぎというヤツがなぜだかできない。
「まじ? その歳で?」
坂下ってぱマジで驚いている、ムカツク。
「うるさいなぁ、別に泳げなくても生きていけます」
「まあ、そうだけどさ」
そんな会話を続けつつ、私達は歩道橋の階段を下る。
下り終えたそのちょっと先には、駅の改札口が見えてくる。
後、四段くらいで階段を下り終える頃、坂下がポツリとらしくない神妙な声を出す。
「……教えてやろうか? 泳ぐの」
「……はい? きゃっ……」
突然の坂下の申し出に、びっくりした私は階段から足を踏み外してしまう。
坂下は慌てて私の腕をひっぱり、助けてくれようとしたんだけど悲しいかな、二人揃って階段から転げ落ちてしまった。
「いった……、ご、こめん、坂下」
反射的に痛いと口にしたけど、実はあまり痛みはなかった。
幸い階段から落ちたといっても後4段という所だったせいと、私をかばってくれた坂下の体の上に落ちる形になったから。
慌てて体を起こすと、坂下はまだアスファルトの上に倒れたままだった。
「痛ってぇ……。いや、笠原平気か?」
う。
私の事を先に気にかけてくれるなんて、坂下って結構いい奴……ガキくさいとか思っててごめんね、なんて内心思いつつ坂下の方を見る。
「私は平……気……」
ドキン。
偶然にも体を起こしかけた坂下と、目が合うと、意外に顔が近くにあってちょっと硬直してしまう。
……馬鹿じゃないの、私。自意識過剰もいいとこだよ。
目を逸らしながらそんな風になんとか冷静になろうとしてたら、坂下にぐいっと右手をひっぱられた。
「きゃっ」
引き寄せられた反動で、更に距離は縮まって、坂下との顔の距離は3㎝もあるかどうかになってしまい、更に心臓はバクバクと音を立てて暴れた。
しかも坂下はじっと私の事見つめてきてて、視線を逸らそうとしない。
右手は握られたままで、そこも暑さでじんわりと汗をかきはじめていた。
ほっておいたらそのまま距離は縮まりそうで、私は口に溜まった唾を飲み込んだ。
「あ、あの、坂下?」
私が上ずった声で名前を呼ぶと、坂下ははっとした表情になり、慌てて右手を離した。
「あ、ご、ごめん。良かったよ、笠原が無事で」
目を逸らした坂下は、立ち上がってパンパンと埃をはたいた。
……にしても今の何……?
あのまま声かけてなかったら……キスしてたかも?
私は自分の考えた事に顔がかあぁっと火照ってしまって、頭をぶんぶんと振った。
「笠原……? どっか調子悪いなら病院行くか? つきあうぞ」
いつまで経っても立ち上がらず、あげくの果てに頭を振ったりしたものだから、本気で心配されてしまったようで、我ながらちょっと情けない……。
「平気っ」
私はそれだけ言って立ち上がると、坂下はほっとしたような表情になって、それを見た私は胸の奥がツンとなる。
◇ ◇ ◇
歩道橋から駅までの短い距離を、私達は無言のまま歩いていた。
さっきまではまるで気づいてなかった、セミの声がやけに耳につく。
そして駅前までくると、坂下が駅の更に奥の道を指差した。
「俺んち、ここから歩いて後ちょっとなんだ」
「そうなんだ……」
私は坂下の日に焼けた黒い指先をぼんやりと見つめた。
「じゃあ、またな」
珍しく力ない笑顔なんて見せた後、坂下は背を向けて歩いていこうとする。
ちょっと、ちょっと。
さっきの返事してないんだけどっ、私っ。
「坂下っ」
「え?」
私が引き止めると、坂下はすっごいびっくりした顔で振り返る。
な、なんでそんな驚くかな……言いにくいじゃないの。
でも声かけちゃったんだから言うしかない、女は度胸よ。
「あの、教えてもらおうかな……水泳」
その一言はなぜだか私を異様に緊張させた。
そして坂下は、さっきよりも驚いた表情。
やだ、やばい、私ってば失敗した?
「……まじ? いつがいい?」
だけど、次にはそんな言葉が聞こえてきた。
「……私は補習が終ったら何時でも……坂下は部活」
「それはどうにでもなるって」
むか。
こっちは心臓バクバクしながら話してるのに、坂下ってばもういつものペースでにかっと笑ったみせた。
「じゃあさ、メアド教えてよ」
「う、うん」
そう言いながら私達は鞄からお互いの携帯電話を取り出して、アドレス交換をした。
坂下は赤外線受信したデータを確認した次の瞬間、見た事もない笑顔で頷いた。
な、なんなのコイツ……。
さっきから心臓のバクバクが止まらないよ。
「じゃあ、また今度。次は海でな!」
今度は元気に大きく手を振りながら歩いていくた坂下に、一応私も小さく手を振ってみるんだけども。
「……へ? な、なんで海?」
私は一人駅の改札の前でポツンと立ち尽くしたままだった。
夏といえばやはり、青い空、白い入道雲。
そんな風景からこのお話を思いついて、急に書きたくなったし、季節ネタですし、という事で書いてみましたー。
今回は中学生でもいいんじゃないかってくらい、ガキくさい二人ですが、なんとなくかわいらしいイメージで書いてみたかったのでこんな感じです(^^)
ちょっと思ってた以上に書いてて楽しかったです。
坂下はなんとなく柴犬みたいな感じで。
でもまだ子犬…よりはちょっと大きくなりかけているような、微妙なラインで(笑)
それでは、こんなところまで目を通して頂いてありがとうございました。