第9節 雪村家の食卓―前編―
今日も一日無事に仕事が終わり、家へと帰ると私のお腹が恥ずかしげもなく悲鳴をあげるとても良い香りが玄関まで漂っていた。
「ただいまー」
私はその香りに気分良くして玄関から声を響かせるとそのままリビングに入った。そしてダイニングの方へ目を見向けるとテーブルには夕飯がすっかり並んでいてキッチンにはエプロンをつけたお父さんの後ろ姿があった。
「あ、お父さんがいるじゃない! っていうことは……」
「おお、こころか。お帰り。なんだ、そのニヤついた顔は」
「ごちそうが食べられるぅー!」
私は両手を叩いて喜び、思わず今日の出来事をも忘れるくらいワクワクした。
「おっ、さすがこころ! 嬉しいこと言ってくれるねぇ。ほら、揚げたての唐揚げだ」
「やった。お父さんの唐揚げは最高よね。うーん、外がパリッパリで中はジュワーだもんね」
そこにお母さんが「こらっ、いい年して手も洗わずつまみ食い?」とお父さんの味を褒めすぎたせいか不機嫌そうに言う。
「はーい。さくらは?」
「今日は稽古よ」とお母さんはお父さんの作った料理を皿へ綺麗に盛り付けながら軽く応えた。
それに私は「あ、そうか」と納得して鞄をリビンクのソファーへ置くと料理を前にしてストンと座った。そしてお父さんは唐揚げを揚げながら私に言った。
「舞台、今週末だからな。今回はずいぶん出番が多いらしいぞ。こころ、日曜日の夜は空けてあるよな?」
お父さんの言葉に私は慌ててスマートフォンを鞄から取り出して予定を確認した。頭の中に記憶していないところが私らしい。妹がいたらすぐに「お姉、それぐらい覚えといてよ!」と叱られたと思う。
「うん大丈夫。ちゃんと予定表に入れてある。夕方5時からだよね? あ、嫌だ、お父さん。眼鏡に粉いっぱいだよ。見づらいんじゃない?」
お父さんは私の言葉を聞いて眼鏡を手に取り言った。
「おおーっと、集中しすぎて全然気にしてなかったわ。母さん冷たいなぁ。教えてくれよ、そういうの」
そう言ってお父さんは後ろに立っていたお母さんをお尻でつついた。
「いいじゃない。本人が気にしていないなら。それに面白いし。顔にもついているわよ」
とお母さんは私を見て小さく舌を出す。
「あ、本当だ」
私はお父さんの顔を見て言うと気持ち良く笑った。本当に仲のいいお父さんとお母さん。見ているだけで気持ちがホクホクする。
「ただいまぁー……」
私たちの耳にさくらの声が聞こえた。
「お、噂をすればだ。おかえり」
お父さんはにこやかに玄関の方へ向かって言った。そしてリビングへ入ってきた妹、さくらを目にすると私は「あれ? 今日は稽古でしょ?」と言葉をかけた。すると随分と沈んだ表情と疲れ切った声でさくらは応えた。
「うん。中止……」
「おい、どうした? さくら?」
お父さんは手を止めさくらを見る。
「うん……疲れた。あ、お父さん、お帰り。今日は早かったんだね」
「ああ、だから今日は気分よくご飯作ったぞ」
さくらを気遣って優しいトーンで言うお父さん。そしてお母さんが続いて言った。
「久しぶりに四人揃ったわね。さくら、まだご飯食べてないんでしょ?」
「ん? うん。んー、でも食欲ないなぁ……あ、ビール飲む。ビール飲みたい」
「おお、じゃあ、久しぶりに飲むか」
お父さんはさくらの言葉に喜び、口笛を鳴らしながら冷蔵庫へと向かった。
「で、どうしたの? 何か劇団であったの?」
私はそう言いながら隣の椅子を引いてさくらへ座るよう促した。
「そーなんだよねー、ちょっと……いや、ちょっとどころじゃないよ。お母さん。お母さんも飲むでしょ?」
「私も飲もうかな。お父さん、何か買ってきたみたいだから。こころは?」
「えーと、私もビールもらっちゃおうかな、せっかくだし」
「おお、久しぶりだしな。飲め飲め。明日も常勤(通常勤務)だろ?」
「うん」
「よっし。ちょうど今日、帰りスーパーで復刻版名古屋麦酒ってヤツ見つけて買ってきたんだ」
そう言ってお父さんが缶ビールをテーブルに並べると私とさくらは缶を手に取り声を合わせた。
「ええー、何これー?」
缶には金の鯱が対になって描かれていて、大きく『名古屋麦酒』と書かれたいかにも名古屋ですみたいな土産物のような雰囲気を醸し出していた。
「かなり昔、50年以上前にこういうのがあったらしい。どんなんか買ってみた」と嬉しそうにお父さんが言うと、さくらは沈んだ顔を吹き飛ばし「わお、楽しみぃー」と笑顔で言った。