第10節 雪村家の食卓―後編―
気づくとお父さんは眼鏡も顔もいつのまにか綺麗にしていてエプロンを外すと椅子に腰かけ言った。
「じゃあまずは乾杯をしよう。家族四人が集まる夕食は何日ぶりだ?」
お父さんの問いかけにお母さんは壁に取り付けられたモニターを見ながら言った。
「えーっと、たしか先週の金曜日ぶりだから……?」
「……4日ぶり?」と私。
「じゃあ、4日ぶりの家族揃っての夕食に乾杯!」
お父さんの掛け声にお母さんと私とさくらは揃って「かんぱーい」と軽やかな声で缶を合わせた。するとさっそくお父さんはさくらへと聞いた。
「で、聞かせてくれよ、さくら、何があったか?」
「うん。それが、今日、いっきなりなんだけどさぁー、ヒメが脱退する事になったから話を変えるって言ってさぁー」
「ヒメっていうのは、あの美人の子か?」
「そうそう。で腹が立つのが、今日よ! 今日! 公演何日前だと思ってんだっていうの! しかもトモさんから辞めるとだけ話があって。本人不在で理由は不明。まぁ多分スカウトされたんだろうけどさ」
ふくれっ面で言うさくらにお母さんが言った。
「あんな美人、スカウトされてもおかしくないわよ。むしろ当然じゃない。色白で顔が小さくて目は大きいし、それにスラッとしたモデル体型で背も結構高かったわよね?」
「そう。166ある」
お母さんの言葉に付け足すようにお父さんは言った。
「しかも綺麗な黒髪してたなぁ。シャンプーのCMなんか似合いそうだよな。劇団なんかに留まってちゃもったいないわ」
お父さんとお母さんの話っぷりにさくらは「そうだね」とつまらなさそうに口を尖らせて言うと早口で続けた。
「でもスカウトなんて今更なのよ。もう何度も何度も、しょっちゅうあったんだけど断ってて。別にプロダクションに所属するつもりなんて無いって言い張ってたのよ、彼女。まぁーでも、本当の理由は分からないからみんなの想像なんだけどさ。トモさんも少し怒ってて知らないと言ってたし。でもさぁヒメ一人抜けるからって言って急に今度の芝居の話を変えるっていうおかしいでしょ? どう思う? 座長はトンズラかますし」
一気に言ったさくらは料理に手をつけず缶を持つ手は止まったまま。真顔で怒り心頭の様子。
「こら、さくら。もうちょっと言葉に気を付けなさい。 “トンズラかます”なんていくら気分を害してるからって言ってもな」
お父さんは朗らかな笑みを作りながらもさくらの言葉遣いを注意するとさくらは「ごめんなさい」とため息交じりで項垂れた。
「しかし本番は今週末だろ? 話を変えるなんてことできるのか? 父さんにはその辺よく分からんけど」
「でしょ? 代役立てるって話だったら仕方ないかで済むけど、話を全部変えるって言うんだから信じられなぁい!」
そして尚も食事も缶ビールにも口を付けることなくさくらの話は続いた。
「もう、公演まで全然日が無いっていうのにさぁ。おかげで苦労して作った宣材とかも全部パーだよ。座長もトモさんもどうかしてるよ。ヒメをひいきし過ぎ。もー信じれんわ。ホントっ! 今さらだよ。舞台終わってからにしろっていうのっ!」
さくらは最高のふくれっ面の不機嫌顔で一気にしゃべり倒すとそのままの勢いで喉を鳴らしてビールを体に流し込むように飲んだ。
「うわーっ、何これ? すっごい濃厚!」
「お、そうか。俺は結構いいぞ」
「でも、急にって何があったのかしらね?」
お母さんは落ち着いた口調で言った。
「金積まれたに決まってんでしょ? 金以外に突然動く動機なんてある?」
と、さくらの勢い止まない強い口調の言葉にお父さんはすぐに反応した。
「それか男だろ?」
このお父さんの一言にさくらは口にしていたビールを小さく吹いた。
「ど、どうした、さくら? ゴメン。男なんて言っちゃまずかったか? だいたい人間の行動が変化するときはお金か人間関係だ。年頃の子ならなおさら異性がからんでるんじゃないか?」
「……お、と、こ。かぁ……うーん」
「心当たりがありそうだな?」
お父さんは自分の予想が当たったか? という感触にニヤリとした。
「いや、ま、いいや。やっぱしお父さんの作る料理は美味しいね」
「私の前でハッキリ言わないの!」
さくらの言葉にお母さんは甲高い可愛らしい声と笑い顔で怒った。
「だってーぇ、お母さんのももちろん美味しいんだけど、お父さんのは何だろ? 絶妙なんだよね」
突如、さくらの不機嫌はどこへ行ってしまったのかすっかりお父さんの料理に夢中になっていた。
「嬉しいねぇ、そう言ってくれると。母さんにコツ教えてるんだけどな」
と、ご満悦のお父さん。
「たまにしか作らない人はいいわよ。私はほとんど毎日作ってるんだから、細かい分量まで気にしてないわよ」
と、お母さんは少し不機嫌。
「ははは、ゴメンゴメン。そうだな。久しぶりに台所に立つと中途半端じゃダメだと職人根性がでちゃうわ」
「希望退職で退職しても大丈夫だね」
「さくら、容赦ない冗談はやめてくれ」
「そうよ、こっちがビクってしちゃうじゃない」
お父さんとお母さんはさくらの冗談には少し引きつりぎみの笑顔で顔を見合せた。私はそのやり取りを見てクスクス笑った。
「オマエのパトロンは俺なんだぞ。お父さん頑張ってねって応援ぐらいしろよ」
「そうでした。私の足長おじさんでした。どうか、お父さん、私のために頑張ってください」
さくらは冗談めかして言うと笑いながら深々と頭を下げた。すると少し怪訝な表情でお母さんが言った。
「お父さん。娘のパトロンと言うのはちょっとやめてくれる。なんかすごい抵抗感あるけれど」
「じゃあ、別の女のパトロンならオッケーか?」
そんなことを言った耳を赤くしたお父さんに私は言った。
「お父さん酔っぱらってるでしょ?」
「知ってるか? パトロンって言うのはな」
そう言ってお父さんは突如片肘をつき、いつものウンチクが始まった。残りの女性三人は話半分、受け流すようにうんうんと聞く。
毎日一緒とはいかないけれど、こうやって家族揃って色々な会話をしながらの食事はどんなものだって美味しい。別にお父さん特製でなくてもね。