「冷めたコーヒー」
あの男が来たのは、夕方過ぎだった。
コーヒーを注文したが、ほとんど口をつけなかった。窓際の席に座り、ずっと外を見ていた。
何もしていないように見えた。
その後も、コーヒーカップを口元に運ぶことはない。本を取り出すこともなければ、スマホも触らない。
それでも彼はそこにいた。
私はカウンターの内側で、その様子を何気なく見ていた。
ただの客だ。
変だと思った。でも、声をかけるほどではなかった。
マスターとして、客のプライベートに干渉するのはルール違反だ。私はプロだ。そう自分に言い聞かせた。
彼はコーヒーカップに手を置いたまま、ほとんど動かさなかった。
時折、テーブル下に目線を下げる。スマホの画面を見ているのだろうか。わからない。ただ、その背中から漂う緊張のようなものを、私は感じていた。
私は気づいていた。
彼の指先が、わずかに震えていることに。
カップの取っ手を握る手が、時折力を込めていることに。
でも、私は何もしなかった。
「客の事情に首を突っ込まない」——それが、この店の流儀であり、私の流儀だった。
外の街灯がつき始め、窓ガラスに彼の影が長く映った。その影は、どこか疲れていて、決断を迫られているように見えた。私はカウンターを拭きながら、時折その影に視線をやった。
声をかけるべきか。
「大丈夫ですか?」と一言でも。
しかし、その言葉は喉の奥で止まった。
関われば面倒になるかもしれない。
私の仕事はコーヒーを淹れることだ。彼の人生に介入することではない。
入店して数十分経っただろうか、彼が立ち上がった。
代金を置き、カップをそのまま残して店を出ていった。
カップを手に取り、流し台に向かおうとして——一瞬、立ち止まった。
冷めてはいるが、中身はまだ残っている。
私はそのカップを、もう一度だけ見つめた。そして——流し台に注いだ。冷めたコーヒーが排水口に吸い込まれていく。
その瞬間、自分の指先が——ほんの一瞬だけ——熱くなった気がした。気のせいだと思った。でも、その感覚は、後々まで忘れられなかった。
彼への未練か、私の無関心か。
どちらだったかは、わからない。
一つ分かったのは、彼はコーヒーを飲むためにここにいたわけではなかった。
「そこにいるため」に、そこにいたのだ。
私は何万人もの客を見てきた。
だが、なぜかあの男だけは忘れられない。
何年か後、近くの美容院の店長が言った。
「この辺が、あの本の舞台らしいですよ。」
さらに、
「あの日、この二階の窓から誰かが外を見ていたって。」
その言葉を聞いた瞬間、
窓際に座る、あの男の背中が浮かんだ。
もし。
あの日。
「何かお困りですか。」
たった一言でも声をかけていたら。
私は冷めたコーヒーを流した。
それだけだ。
でも今でも、
あの日のカップだけは、
指先が覚えている。
――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――
短編A-➁第1話「見ていただけの人」
https://ncode.syosetu.com/n9555mm/1/
短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」
短編A-➁第3話「匿名の通報者」
https://ncode.syosetu.com/n9566mm/1/
短編A-➁第4話「好意の裏返し」
https://ncode.syosetu.com/n9573mm/1/
短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」
https://ncode.syosetu.com/n9575mm/1/
短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」
https://ncode.syosetu.com/n9587mm/1/
また、「彼女の計画外伝」に同時投稿されます。




