第22話 フューチャー・モデラー
アキの職場は、空にあった。 正確には、高度 2,000 メートルに浮かぶ軌道都市。そこは世界中の未来予測を担う中枢機関であり、かつてなら神殿、あるいは政府と呼ばれたであろう機能が集約されている。
フューチャー・モデラー本部は、色彩を極限まで剥ぎ取られた白い空間。同僚たちがLatticeの未来予測グラフを見ながら「感情変動係数」の調整に追われている。
現在は巨大統合管理知性 Lattice がその役割を担っているが、そのAIに「未来の種」を教えるのは、アキのような人間たち――フューチャー・モデラーの仕事であった。
会議室の壁面には、巨大なホログラムが音もなく漂っている。人口推移、気候変動、移住予測、思想変化、幸福感。あらゆる未来が立体的なグラフとなって空間を埋め尽くしていた。
「では、次の議題です」
議長の女性の声と共に、空間に一つの赤い線が現れた。「世界予測誤差率」。
その線は、近年稀に見る角度で急上昇を描いている。室内には、抑えられたざわめきが広がった。
「また外れました。先月も、その前もです」
「もはや、これは予測としての機能をなしていません」
誰かが深いため息をつく。
アキは黙ってその赤い線を見つめていた。理由は分かっている。この部屋にいる全員が、心のどこかで気づいていた。
原因は、「感情」だ。 幸福指数で管理されていた時代、未来は極めて平坦で予測しやすいものだった。人は効率と損得で動き、正解を選び続けたからだ。しかし、今の人間は違う。
ある日突然、誰かが理由もなく絵を描き始める。旅に出る。恋に落ちる。安定した職を捨て、名前も知らない国へ移住する。ベランダで一輪の花を育てるために、これまでの人生をリセットする。 そこには論理的な利害関係など存在しない。「ただ、そうしたかったから」という、AIが最も苦手とする「ゆらぎ」が、世界の計算を狂わせているのだ。
「予測モデルを更新すべきです。感情変動係数を増やし、共感アルゴリズムを再調整しましょう」
同僚たちが慣れ親しんだ解決策を口にする中、アキはナツの言葉を思い出していた。
『愛は感情じゃない。他人の人生を想像する能力だ』 『想像力がなければ、感情は武器になる』
アキは、気づけば手を挙げていた。
「……予測するのを、やめませんか」会議室を、深い静寂が支配した。
秒の後、乾いた笑い声が一人、二人と漏れ出す。
「未来予測機関で、予測をやめるだと?」 「転職の相談なら後で乗るよ、アキ」
だが、アキの目は真っ直ぐだった。
「未来は予測するものではなく、感じるものだと思うんです」
今度は、笑い声さえも消えた。誰も言葉を返さない。あまりにも非論理的で、あまりにも「人間」すぎる提案だった。
会議終了後、同僚のユイが追いかけてきた。 「本気で言ったの? 大丈夫? 頭……半分くらい」 「たぶんね」 アキは自嘲気味に笑った。
「未来を感じるって、具体的にどういうことよ」
「分からない。でも、予測できない理由は分かるんだ」 アキは窓の外、雲海の向こう側に広がる地上の世界を見つめた。
「誰も、本当の意味で他人の人生を知らないからだ」
ユイは首を傾げた。その言葉の真意を、まだ誰も理解していなかった。アキ自身も含めて。
しかし、このオラクルの高潔な静寂の中で、アキの心拍は確実に一つのリズムを刻み始めていた。かつてフユが描き、ヨウが守り抜いた、あの不格好な線の震え――7.83 と同じリズムを。
アキは一人、研究室の真っ白な設計空間に向かった。
「理解できないなら、体験すればいい」
光の線が走り出す。神経接続、感情同期、人格保護フィルター。 後に《Imaginal Field(想像力の結界)》と呼ばれることになる、人類史上最も危険で、最も美しい「共鳴」の設計図が、この夜、高度 2,000 メートルの孤独の中で産声を上げたのである。




